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第1話 笑わない王子様



 出版社や新聞社が立ち並ぶやや気取った地区と庶民が暮らす昔ながらの下町をへだてる通りにある酒場(パブ)は、週末の夜らしく労働後の男たちが集まり賑やかに活況を呈している。この日の晩もカウンター越しに飲み物を供しながら、私は粗野だが陽気な男たちと気の置けないやりとりを交わしていた。

「やぁ、エイダ」
 むさ苦しい人混みをかき分け、若い男がひとりカウンターにやって来た。
「ビールを三つ頼むよ」
 灰色の鳥打帽、着古した厚手の上着、海軍の払い下げマフラー、女を惚れ惚れとさせる笑顔。ベニー。ベネディクト・ストーン。
「十一月に入った途端、この寒さだ。熱々のクラムチャウダーが恋しいよ」
 樽からしろめ製(ピューター)のビアマグにビールを注ぐ私の背中に、ベニーは屈託ない調子で他愛のないことを語りかけた。
「お待たせ」
「ありがとう」
 私がカウンターにビアマグを三つ差し出すと、ベニーは若者らしい愛想のいい笑顔と共にお代を置いた。片手で三つの取っ手をまとめてつかむと、彼は再び人混みの中へ戻っていった。
 彼は大工だ。若いが大層腕が良いと評判で、気難しく偏屈な職人たちからもまるで息子や弟のようにかわいがられていると聞く。生粋の下町育ちなのにきちんと学校を卒業して読み書きもできるので、仕事仲間のみならず大工組合のお偉方からも何かと当てにされているようだ。
「笑顔が素敵」
「まるで王子様みたい」
 若いのも年を取っているのも、街中の女たちはみんなこの男をそう褒めそやす。
 無理もない。さっぱりと短く刈った金髪、美しく澄んだ空色の瞳。ベニーはとびきりハンサムで、肩幅が広く、表情は活き活きとして、下町育ちの職人らしからぬ穏やかさがあり、いつでもとても魅力的だ。
 姿勢よく颯爽と通りを歩いているときも、帽子を取って挨拶するときも、ビールを飲み干しているときも、私の胸に顔をうずめているときも。

 日に日に暑さが増す七月の夕方、昼下がりに姿を見せ始めた鉛色の雨雲が篠突く雨を降らせていた。この天気では商売上がったり。早々と見切りをつけ “閉店” の看板を出そうと店の扉を開けたとき、通りの向こうからこちらに走ってくる男が見えた。ベニーだった。とっさに、私は彼を呼び店の中に招き入れてしまった。
「ありがとう、助かったよ」
 ベニーは心からありがたそうに私に礼を言った。
「あんた、今帰りなの?」
 “閉店” の看板をかけてから扉を閉めると、私は彼に尋ねた。
「この天気じゃ、まともに大工仕事なんてできなかったでしょ」
「事務所で役所の書類をさばくのを手伝わされていたんだ」
 ベニーが苦笑いを浮かべた瞬間、彼のがっしりした顎からしずくが一滴したたり落ちた。彼はすっかりびしょ濡れだった。帽子も着古したジャケットも、雨をしのぐにはまるで役に立たなかったようだ。
 白い木綿のシャツは濡れて胸や腹にぴたりと貼りつき、ベニーのたくましい筋肉の形と健康的な肌の色が透けて見えた。夏の雨を弾き返すように張りがあるみずみずしい肉体。これが若い男の肉体なのか。
「エイダ、そんなにじろじろ見ないでくれ」
 驚いたことに、ベニーはひどく恥じらっているようだった。肩をすくめ、困り果てたように苦笑いを浮かべ、視線を床にさまよわせていた。
 私は驚いた。彼ほどの男前なら、女の視線なんてこの街に一年中吹いている海風と同じくらい親しみ慣れ、それにはためく貿易船の旗のように平然と受け流しそうなものなのに。
「すまないね。見慣れないもんだから、つい」
 居心地悪くさせてしまい申し訳なく思ったので、私は素直に謝った。

 筋骨たくましいベニーにかつての婚約者を重ねるなんておかしなことだ。木版職人だった彼は肩も胸板も薄く、いつもへらへら愛想のいいお調子者で、おまけに結婚前に私に手を出すようないい加減な男だった。
 五年前、チフス熱に感染し、あっさり逝ってしまった馬鹿な男。
「いいの? 本当に僕と結婚してくれるの!?」
「嬉しいなぁ。エイダみたいな素敵な人が僕の奥さんになってくれるなんて」
「それ以上近寄るな! 部屋に来るなと言っただろう! 今すぐ家に帰れ!」
 部屋の戸口から見えた彼の顔は紫色で、毛布を何枚もかぶって寒そうに震えていた。
 それが生きている彼を見た最後だった。
 次に会ったとき、彼は頬も唇も指先も真っ白で、どこもかしこも石のように固く冷たくなっていた。彼の名前を何度呼んでも、泣いて懇願しても彼は目を開けなかった。私を見つめ返してくれることは二度となかった。
 彼の命令なんかに従わなければよかった。
 そうしたら、ずっとそばにいることができたかもしれないのに。

「濡れネズミのままじゃ風邪を引くよ。これで拭きな」
 棚から適当なタオルを出すと、私はベニーに差し出した。
 ベニーは私を真っ直ぐ見つめていた。彼の顔から笑みが消えていた。彼は無言のまま私に近づき、タオルではなく私の手首をつかんだ。
「誰のことを考えていたんだ?」
 静かな声でベニーが私に尋ねた。
「俺に見惚れていたわけじゃないだろう?」
「死んだ婚約者のこと」
 ためらうのも忘れ、私はベニーに白状していた。
「あの人と俺とは全然似ていない」
 ベニーは苦々しげに顔を歪めた。
「彼を知っているの?」
 私は驚いてベニーを問いただした。
「あぁ。知っているし、覚えているよ」
 五年前、木版職人だった彼とすでに大工だったはずのベニーに接点などあっただろうか? 年齢も十歳近く離れているのに。
「なんであんたがあの人を知ってるの? 今でも覚えてるって、もしかして知り合いだったの?」
「いや、俺は彼と話したことすらない」
 ベニーは私の疑問に淡々と答えた。
「エイダの婚約者だから、俺が一方的に知っていただけ。あの人がうらやましかったんだ。今でもうらやましい。あの人はいまだにエイダの中に居座っている」

 赤ん坊の頃から知る年下の幼馴染みとはいえ、若くハンサムな男に言い寄られれば気分がよくなるはずだ。
 それなのに、私は胸が苦しくなった。
 ベニーの言うとおりだったからだ。
 私の中にはまだ彼が居座っている。
 私がすがりついて彼を留まらせている。
「見慣れていないなら、もっと見ていいよ」
 いやに楽しげな声が頭上のすぐそばから降ってきた。
「エイダが俺の身体に見慣れるまで、いくらでも」
 弾かれるように見上げると、目の前で力一杯に火打石を叩かれたような気がした。あからさまな誘惑と挑発の眼差しが私を刺し貫いた。
 ベニーから離れようと、私は慌てて手を引き抜きこうとした。びくともしなかった。
 健康な若い男の手の中で、私は罠にかかった獣の子供より無力だった。
 しかし、不思議と怖くはなかった。
 私を捕えるのが弟のように昔からよく知る四歳年若い男だからでも、私がすでに処女ではなかったからでもない。
 私はこれを待っていたのかもしれない。探し求めていたのかもしれない。
 小さな薪ストーブの前でしゃがみこみ、かじかむ指先をかすかな残り火で暖める。新たな薪を探しに行く気力さえ振り絞れない憐れな女。
 私は思い出と思慕にしがみついている。
 手放す気はさらさらない。
 しかし、それを胸に抱えるだけで生きていけるほど、私はたくましくも強くもなかったようだ。
 失った温もりに、もう一度触れたくてたまらなかった。
 冷やかしを含まず、からかいを装わない正直な欲望を味わいたかった。
 私の手首をつかむ手のひらの熱を、もっとたくさんの場所で感じたかった。

 再びベニーを見上げた。彼が私をまっすぐ見下ろしていた。彼が欲望をさらけ出しているように、私も下心を垂れ流していたのだろうか。
 とても快かった。安堵さえしていた。探しに行く手間が省けた。
 新たな温もりを差し出されれば、私のような弱い人間は飛びつかずにいられない。
 再び手を引っ張った。やはり彼はびくともしなかった。私はほっとした。
 ベニーを見つめ返すと、彼は怪訝そうに顔をしかめた。
「どうして笑ってるんだ? エイダ」
「見せてよ。あんたの身体をもっと見せて」
 私はベニーの水色の瞳を見上げて言った。
「欲求不満の未亡人みたいなことを言うな」
 私を挑発しておきながら、ベニーはひどくめんくらい戸惑った。
「同じようなものだよ。私たちは夫婦と同じことをしていたから」
 彼は美しい水色の目を見開いた。その奥で、驚きと失望と怒りと不快感と羨望と期待と情熱が一緒くたにない交ぜとなった。
 私の手首をつかむ男の手を、私は優しく誘うように愛撫した。
「ベニー、二階の部屋に行かない?」
 互いにむしるように服の釦をはずし、たびたび段差につまずきそうになりながら、ベニーと私は慌ただしく階段をのぼった。貪るように唇を押し付け合っていると、ときおり彼の剃り残しの髭が私の顎をこすった。ほとんど服を着たままベッドに倒れ込むと同時に、ベニーは私の中に押し入った。痛みと苦しみと快楽で私は悲鳴を上げた。
 彼が私の上で苦しそうにうめき、震えながら溜め息をついた。それから大きく胸を上下させ、崩れ落ちるように真上からずしりと私に圧しかかってきた。たくましく重い身体に押し潰され、今度は私が苦しさにうめく番だった。
「ベニー、重いよ。ちょっとどいて」
 窓を打つ雨と荒々しい呼吸にかき消されそうな声で、私はベニーに言った。
 ベニーはむくりと身体を起こした。解放感と共に私は深く息を吸い込んだ。衣擦れに気付いて目を開けると、ちょうど彼がシャツを床に放り投げたところだった。手早く靴もズボンも下着も脱ぎ捨てると、再び私の上に覆いかぶさった。雨に濡れたまま拭かずにいた彼の肌は、まだいくらか冷たいままだった。
 私を見下ろすベニーの顔はひどく真剣で、貪欲で、かすかに困惑と動揺、それから懇願と飢えが見え隠れしていた。眼差しは蜂蜜のようにねっとり絡みつき、甘い。
 私は肘をついてのっそりと起きあがった。私の動作を妨げないよう、ベニーは従順な仕草でベッドに胡座をかいた。私が髪をほどき、シャツとスカートと下着を脱ぐのを、彼はじっと見つめていた。一言もしゃべらず、にこりとも、にやりともしなかった。灯りのない夏の夕暮れの部屋で、私が身にまとうのはベニーの欲望と興奮だけになった。
 彼は奇妙な従順さを示し続けた。しかし、私が彼の頬を両手ではさんで引き寄せるとたちまちそれを投げ捨てた。彼は私の頭をつかみ、唇にかぶりついた。抱きかかえられてベッドに押し倒されると、彼のベルベットのような舌が私の舌と絡まり、私の肌を這い、唇と共に私の身体中を愛撫した。
 雨のせいで部屋の中は蒸し暑かった。こすりつける肌から汗がふきだし、まるでどしゃ降りの雨に打たれたように私たちは身体中びしょ濡れになった。
 あまりに気持ちよく快かったので、私はベニーに求められるままに応じた。私はそれ以上に彼を求め、そして彼も私に応えた。
 彼の肩にしがみつくと、雨と泥とにじみ出た汗が混じり合った猥雑なにおいがした。ひどく飢えた心地になり、彼の日焼けした肌に舌を這わせた。うっすらと塩の味がした。
 ベニーの味。男の味。懐かしく愛おしい、そして初めて知る味。
 この夏の雨の日、私の炎は一晩中燃えさかっていた。
 私に乞われるまま、そして彼が望むまま、ベニーが途切れることなく私の炎に薪をくべ続けたから。
「また来る」
 翌朝、ベニーが私の耳元にささやいた。
 親密さと馴れ馴れしい甘えを含んだ声には拒絶を許さない尊大さと、私の明確な容認を求める懇願が共存していた。そのちぐはぐな気配はどこか滑稽で愛らしかった。
 不用意にくべられた薪に再び炎が大きくなりかけていたのを誤魔化すように、私は深く微笑んだ。
「いいよ。いつでもおいで」

 たしかに私はこう言った。今さらそれを訂正するつもりはない。
 でもまさか、あのベニーが、四ヶ月たっても三日と空けずに我が家に通い続けるようになるとは、このとき私は予想だにしなかった。
 おまけに、私の部屋を訪れるたび、ベニーは砂糖を何杯も入れたミルクティーほども甘ったるい言葉を私にささやいた。
 照れ笑いひとつ浮かべず、怖いくらい真剣な顔で。
 彼は私が黙るよう命じてもまったく聞き入れず、顔を真っ赤に上気させた私の怒りなど意に介さなかった。
 笑わないベニー。
 荒々しく、情熱的に、率直に、私の愛を乞う男。
 立ち止まっていた私の手をつかみ、再び温もりを分かち合う喜びを与えた男。
 絶え間なく、惜しみなく、懸命に。

 なにかが小さく爆ぜる音で目が覚めた。
 毛布から顔を出すと、ストーブに薪をくべるベニーの裸の後ろ姿が見えた。広い背中、引き締まった尻、太ももの裏側にあるほくろ。
「おはよう」
 寝転がり毛布に首までうずめたまま、私は彼に声をかけた。
「エイダ、もう起きたのか。おはよう」
 薪ストーブの炎を確認すると、ベニーはベッドに戻ってこようとした。
「待って。ストーブにその鍋を置いてくれない?」
 テーブルの上にある小ぶりな鋳鉄の鍋を指し示して言った。
「人使いが荒いぞ」
 文句をたれながら、ベニーは薪ストーブの上に鍋を乗せた。それからくるりときびすを返してベッドに戻ってくると、素早く毛布の中に潜り込み、暖を求めて私にすり寄ってきた。彼の肌は冬の朝の空気に冷やされ、私の肌をぞくりと粟立たせた。
「すっかり冷えたね」
 ベニーの手を両手で包み、足を絡ませながら私はつぶやいた。
「雪が降っているよ。ところであの鍋で何を作っているんだ?」
「クラムチャウダー」
「いいね。エイダの好物?」
「あんたの好物でしょ」
「え?」
 ベニーは驚いた様子で私を見返した。
「あんた、一昨日、熱々のクラムチャウダーが恋しいって言ったじゃないか」
 努めて平静を装いたかったけれど、どうしても声に不満が漏れてしまった。
「煮込みすぎるとアサリの身が固くなるから、本当はゆうべのうちに食べたかったんだ。なのにあんたが盛りのついた犬みたいに――」
 いきなり抱きしめられて硬い胸に顔を押し付けられた。私は文句を言い続けることができなくなった。もぞもぞともがいてどうにか首を伸ばすと、少しだけベニーの腕の力がゆるんだ。
 見上げた先に、ひどくだらしない顔をした男がいた。
 にやついていても男前は男前のまま。さすがとしか言いようがない。
 妬むべきか感心すべきか迷うところだ。
「俺のために俺の好きなクラムチャウダーを作ってくれたんだね。エイダ、ありがとう。すごく嬉しいよ!」
 なんだその言い草は。
 それじゃあまるで、私が甲斐甲斐しい女房か何かのようじゃないか。二十三歳の若造に亭主面されるなんて冗談じゃないよ。
「暖まったら一緒に食べよう」
 私はベニーの肩に頭を置いてささやいた。まるで腹をなでられ喜ぶ猫のような声で。
「エイダ」
 私を見つめるベニーはもう笑っていなかった。「腹が減ったよ。待ちきれない」



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