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第5話 一人ぼっちの王子様



 青々と茂る森の木陰を、涼やかな朝の川風が吹き抜ける。
 こころよい清流の水音に響くさまざまな野鳥のさえずりは、楽譜のない自由な混声合唱(コーラス)だ。

 崖から剥がれ落ち河原に転がっている石を、ハンマーと平タガネで慎重に、少しずつ砕いていく。すると、大人の手の平ほどの平らな巻き貝の形をした古代生物が姿を現した。驚きと興奮で小さな悲鳴が漏れた。今朝だけで三個目。この週末は大漁だ。
 羊の角にそっくりな形をした古代生物は親しみ慣れた化石だけれど、今まで私が自力で掘り出した中で一番大きいのは間違いない。早く持ち帰ってクリーニング――化石の周りの岩石をハンマー、平タガネ、ブラシなどで取り除く作業――したい、と心躍らせていると、伯父が私を呼んだ。
「ジャネット、君にお客様がいらしているよ」
「お客様?」
 作業をいったん中止し、私は立ち上がり伯父に向き直った。週末だけ身につける男物のツイード地のズボンは、ずっと地面に膝をついていたので、すでに河原の土埃でうっすら汚れている。ズボンに付着した土を軽く手で払う。伯父の肩越しに、山道に沿って設えた丸太の階段をゆっくり降り、こちらに近づいてくるすらりと背の高い男が見えた。
 ここは街の北東部に位置する別荘地にほど近い、森とささやかな崖に挟まれた渓谷だ。週末にこんな場所を訪れる人、ましてや私を訪ねてくる人など一人しかいない。
「どなたですか?」
 つばの広い麦わら帽子のせいで訪問者が見えなかったふりをして、私は形式的に伯父にたずねた。
「若い方のミスター・アサートンだ」

 私は物心つく前に事故で両親を亡くしたので、父の兄にあたるコルバート家の伯父夫妻に引き取られ、従兄たちと兄妹のように養育された。
 “若い方のミスター・アサートン” とは、伯父の旧友の息子、ハロルド・アサートンのことだ。
 私の伯父とハロルドの父は寄宿学校と大学を通じて現在も非常に仲が良いので、コルバート家とアサートン家は昔から週末を一緒に過ごす親しい間柄だった。

「おはよう、ミス・コルバート。ごきげんいかがかな?」
「おはようございます、ミスター・アサートン。ごきげんいかが?」
 私たちが紳士と淑女の礼儀作法に則って挨拶したのを確認すると、伯父は昼食まで好きに過ごしなさいと言い残し、いそいそと自分の発掘現場に戻って行った。
「あなた、どうしてここにいるの?」
 私はハロルドにたずねた。
「ひどいよ、ジャネット。僕を邪魔者扱いしないでくれ」
 彼は芝居がかった調子で哀しげな顔を作った。
「この週末はキャボット家の別邸にお招きいただいたんじゃなかったの?」
 名門中の名門キャボット家の奥様は、社交界でもっとも権勢を誇る “女帝”。そして、縁結びを生き甲斐とする高名な淑女だ。
 ハロルドはアサートン家の独身の一人息子。東海岸北部の名門大学を卒業し街に戻ってきた今、社交界において花婿候補の優良物件の一人だ。この週末はキャボット家の別邸に招待され、同じく独身の紳士たちと共に、自分の妻、未来の女主人にふさわしい淑女と引き合わされ、見定め、将来へ向けて親睦を深める予定だったはず。
 なぜ今、まだ日曜日の朝だというのに、こんなところにいるのだろう。
「お招きいただいて行ったよ」
 矢筈模様(ヘリンボーン)のツイード地の上着を近くの木の枝にかけながら、ハロルドはしれっと答えた。「朝一番で暇乞(いとまご)いし、ここに来たんだ」
「こんなに早々と帰るなんて、無礼で素っ気ない人と思われるわよ」
 私は思わず苦笑いを漏らした。
 彼はシャツを腕まくりし、革製のシャツガーターで袖を留めた。
「最初からそういう約束だったんだ。失礼にはならないよ」
 厚手のメリヤス製の作業用手袋をはめながら、ハロルドはのんびりと笑みを浮かべた。「僕より先に、昨日のうちに街に帰った紳士と淑女もいたしね」

 私の伯父は商人でアマチュアの考古学者だ。大学や王立協会で論文を発表するような本格的な取り組みではない。週末や時間があいたとき、こうして街から郊外の保養地にほど近い発掘現場で、ピクニックがてら化石探しにいそしむのだ。社交界では、考古学研究の熱心で気前のいい後援者(パトロン)として知られている。
 その伯父だが、上品に言えばおおらかな自由主義者、率直に言えば相当な変わり者だ。
 二十一歳の未婚の姪が社交行事より化石発掘に熱を上げても、とがめるどころかもろ手を挙げての大歓迎。社交界で「殿方の格好をして土掘りに興じる風変りな娘」と身も蓋もない評判を立てられ、花嫁市場で株価を下落させ続ける私の行く末を心配するそぶりを見せはする。しかし、自分の息子たちが、そろいもそろって考古学や古代生物に石ころほどの関心も示さないので、姪の私を “後継者” にしようと目論んでいるに違いない。
 幸いなことに、伯母は伯父よりも良識のある常識人だ。私が婚期を逃して嫁ぎ遅れになるのを危惧し、昼となく夜となく積極的に社交行事に連れ出そうとする。しかし、私に化石発掘をやめさせようとはしないので、結局は似た者夫婦なのだろう。
 伯父と伯母より、その息子たち、つまり従兄たちのほうが、よほど私の結婚相手探しに親身な使命感と現実的な危機感を抱いている。

「ねぇ、キャボット家の別邸でどんなことをしたの?」
 持ち運び用の布に発掘した化石をくるみながら、わきあがる好奇心丸出しで私はハロルドにたずねた。
「ハツカネズミのようにおしとやかなご令嬢と二人組になり、庭園で宝探しごっこをしたよ」
 河原の石を物色しながら、彼はあくびをかみ殺すような口調で答えた。
「あらあら、なんて楽しそうなのかしら」
 私までつられてあくびが出そうになった。「庭園の宝探しって何をしたの?」
「いくつかの手掛かりをたどって宝物を探し当てるんだ。二人組の組み合わせは、キャボット夫人みずからくじを引いて決めたよ」
「手掛かりをたどるってどういうこと?」
「手掛かりには次の手掛かりの居場所が暗号で書かれていて、二人でその暗号を解きながら宝物の在り処を探し当てるんだ」
 なるほど。二人で力を合わせて暗号を解きながら親睦を深めるわけか。互いの知性や教養の程度も計れるし、一石二鳥ね。
「難しかった?」
「暗号自体はそれほど難しくなかったよ。でも、自分ひとりでさっさと解いてしまっては相手の顔が立たないし場も持たないから、そちらのほうが難しかったよ」
「私もあと二年もしたら呼んでいただけるかしら」
 二十三歳にもなれば正真正銘、立派な嫁ぎ遅れだ。そうしたら、キャボット夫人の慈悲の対象になりうるだろう。
「君のような女性が、これから二年間も変わらず独身でいられると楽観視するべきではないね」
 ハロルドは同情と憐憫を装って私の期待をあしらった。
「そうね。従兄たちが私の夫探しにいよいよ本腰を入れるようだし、彼らが仕事以上に辣腕をふるってくれるのを心から願っているわ」
 心にもない嘘をつくことに罪悪感はなかった。
「親以上に兄弟や姉妹が結婚相手探しに熱心なのは、君と僕の哀しい共通点だね」
「もしかして、キャボット家からのご招待はお姉様たちの根回しだったの?」
 きっと私の顔には、心からの同情と憐憫が色濃く浮かんでいただろう。ハロルドの年の離れた姉たちは私をかわいがってくれるとても善い人たちなのだが、少々世話好きが過ぎるというか、おせっかいなのがたまにきずだ。
「そうでなければ、キャボット夫人が僕のような大学を卒業したばかりの若造をお招きするはずないだろう」
 ハロルドは苦笑いと共に肩をすくめた。
「そうかしら? あなたは年齢のわりに落ち付いているし、お友達の紳士たちから何かと頼りにされているじゃないの。紳士として十分キャボット夫人のお眼鏡に適ったから、ご招待を受けられたんだと思うわ」

 今でこそ仕事と社交と発掘をかけもつ活動的で頼もしい殿方だけれど、ハロルドは幼い頃は内気でおとなしい子供だった。それこそ、森と崖に挟まれた渓谷の河原より、美しく整えられた庭園の宝探しごっこがお似合いの、純血種の小型犬の仔犬のような愛らしい男の子だった。
 父親に発掘現場につれてこられても、私のように大人を真似て化石を探したり釣りや舟遊びをするでもなく、彼は木陰に腰を下ろし、ぬいぐるみのように一人じっとしていた。
 一人でいても、ハロルドは寂しそうにもつまらなそうにも見えなかった。
 私と目が合うと嬉しそうににっこりするくせに、決して私に話しかけたり私と一緒に遊ぼうとしたりしなかった。
 幼い私の目に、彼はとても奇妙に映った。

 一人ぼっちの男の子。
 だけど、いつも楽しそう。へんな子。
 出会ってからしばらくの間、私は彼をそんなふうに思っていた。

「ねぇ、あなた一人ぼっちが好きなの?」
 私たちが出会って間もないある日、私は河原近くの木陰に腰を下ろしていたハロルドに話しかけた。
「そんなことないよ」
 彼は顔中を真っ赤にして、しどろもどろに答えた。目の前に立ち、突然話しかけた私をまっすぐ見上げながら。
「じゃあ、どうしていつも一人でいるの?」
 私はなおもハロルドを問い詰めた。
「ここにいるのが好きなんだ」
 ハロルドはせわしなくまばたきをしながら、恥ずかしそうにもじもじした。
「一人でぼうっとしてるのが好きなの?」
「ぼうっとしてるわけじゃないよ」
「じゃあ、何をしてるの?」
 私は首をかしげた。まるでなぞなぞをかけられている心地だった。
「君を見てる」
「私を?」
「うん、楽しそうに化石を探す君を見てるのが好きなんだ」
 しっぽをふる仔犬のように無邪気な笑みが輝いた。「すごく楽しいよ」
 川風が駆け抜けるように木々の葉をゆらし、木漏れ日がハロルドのくるんと上向いた睫毛の上できらきらと踊った。
「じゃあ、私と一緒に化石を探しましょう」
 気付いたら、私は両手でハロルドの手を引っぱっていた。ぐいっと彼を立ち上がらせ、同じ高さにある榛色の瞳をのぞきこんだ。
「そうしたらもっと近くで私が見えるし、もっと楽しくなるわ」

 ハロルドはすっかり変わった。
 内気でおとなしい男の子は、活動的で自信を備えた男になった。
 つねにたくさんのひとに幾重にも取り囲まれ、彼が一人ぼっちでいるのを、私はここ数年目にした記憶がない。
 私がハロルドの手をつかみ引っぱることは、もう決してない。馬車から降りるとき、乗馬するとき、階段を上がるとき、庭園をそぞろ歩くとき、ワルツの輪に加わるとき、手を差し出す役目は私ではなくハロルドになった。
 私であってはならない。彼でなければならないのだ。 
 木陰にいた一人ぼっちの男の子は、もういない。

 数日前、街の広大な公園でハロルドを見かけたとき、私はその事実を唐突に理解した。
 以前から、着飾った上流階級の人々でごった返す人混みの中から、いち早く彼を見つけ出す自分の能力が不思議だった。いつでも、どこでも、河原の木陰に一人ぼっちで腰かける彼を探すのと同じくらい簡単だったから。
 この日も、街の公園の中にある騎馬用の幅の広い舗道で、彼が我が家の二頭立て四輪馬車に気付くずっと前から、私は彼がそこにいることに気付いていた。
 大勢の友人たちの輪からようやく抜け出し、ハロルドがゆっくりこちらに近づいてくるのを、私は待ちくたびれた気分でぼんやり眺めていた。彼は社交界の作法に忠実に、まず伯父夫妻と親密な挨拶を交わしてから、私に気心の知れた笑みを放った。
「ごきげんいかがかな、ミス・コルバート?」
「ごきげんよう、ハロルド」
 からかいを込めて、彼の栗色の眉がつり上がった。はっと我に返ったときは手遅れだった。公園という衆人環視で独身の女が独身の男を洗礼名で呼ぶのは、いささか度が過ぎた振る舞いだった。
「ジャネット、あなたは淑女なのですから、それにふさわしい振る舞いをしなければいけませんよ。いくらお相手が、長年親しくしていただいているミスター・アサートンとはいえ」
「ごめんなさい、伯母様」
 伯母は儀礼的に私を叱り、私も儀礼的に謝った。
「ミス・コルバート、私と遠出はどうだい?」
 私たちの短く下手くそな芝居が幕を下ろすと同時に、ハロルドがいつものように私を誘った。品行方正で高慢ちきな令嬢を気取って、私は扇子を広げた。
「乗り物は?」
 ハロルドは木の下で主の帰還を待つ二輪馬車のほうに手を振った。彼がぱちんと指を鳴らすと、そぞろ歩く人々などまるでいないかのように、馬車がすぐさま彼の脇にやってきた。
「ミスター・コルバート、ミセス・コルバート、私の馬車でミス・コルバートが少し遠出するのをお許しいただけますか?」
「もちろんだとも、ミスター・アサートン」
 伯父は親しみと信頼を込めて目を細めた。
「ただし、あまり馬車を速く走らせすぎないでやってくださる? ジャネットはゆったりとおしゃべりや景色を楽しむことを好むの」
 今日もあなたがその提案を切り出してくれるのを今か今かと待っていたのよ、とあからさまに表情に出して伯母が続けた。
 そういえば、ハロルドは誰に目を留めてこの素敵な馬車を降りたのだろう。
 このところ彼に色目を使っていた社交界のきれいどころ数人の顔を思い浮かべていたら、いつの間にか、私は狭い馬車の座席に彼と二人きりで並んで座っていた。
 カーテンを閉めた薄暗い座席で、ハロルドが私の顔をのぞきこんで言った。
「君はいつから “ゆったりとおしゃべりや景色を楽しむことを好む” ようになったのかな?」
 彼がいつもの人懐っこく開けっぴろげな笑みを浮かべたので、私は口元がにんまりたわむのをこらえられなかった。この笑みを見ると、いつも身体の奥からじわりと微熱がにじみ、心臓が騒々しくなる。
「私とおしゃべりをしたり一緒に景色を楽しむことはお気に召さないようね、ミスター・アサートン」
 私はたたんだ扇子でハロルドの引き締まった頬を軽くたたいた。
「君とは、もっと楽しいことをしたい」
 ハロルドの爽やかなコロンの香りが鼻腔をくすぐり、彼のかすれた声が耳のすぐそばで聞こえた。「しかし、ジャネット、君が淑女なのは事実だ。馬車をゆっくり走らせろと、僕に命令してくれたまえ」

 頭上でコガラの澄んださえずりが響いた。
 街の公園から渓谷の河原へ意識が引き戻された。鳴き声のした方に振り向くと、麦わら帽子の下で髪が額にはらりと落ちた。
 あぁ、もう! 私は心の中で悪態をついた。
 量ばかり多くてコシのない私の髪は、いかにたくさんヘアピンを挿そうと、どんなにきつくリボンで結おうと、スカーフを巻いたうえで帽子の中に押し込もうと、こうして隙をついてこぼれ落ちてくる厄介者だ。
 ハンマーと平タガネで両手がふさがっていたし、ここには淑女の振る舞いに口うるさい伯母や従兄たちはいない。息で髪を吹き飛ばそうと行儀悪く唇を突き出したちょうどそのとき、作業用手袋をはずした手が隣からすっと伸ばされた。ふしくれだった指が落ちていた髪をすくい、優しく私の耳の後ろにかけた。
 乾いた指先が私の耳たぶを、こめかみを、頬を、誘いかけるようになでた。

「庭園で宝探しごっこをするのも悪くなかったが」
 のんびりした声に引き寄せられると、待ち構えていたようにハロルドが笑みを深めた。「僕はここで本物の宝探しをするほうが好きだ」
 木漏れ日が降り注いだように、榛色の瞳が愉快そうにきらめいた。
 乾いた指が、私の唇をねだるようにこねた。その指先を誘い込むように唇を開き、そっと噛むと、私のあごに添えられていた手がかすかに震えた。
 ハロルドの顔から笑みが消えた。一瞬のためらいの後、彼の指が私の唇から離れる間際、私はその指先をミルクをすする仔猫のように舐めた。彼は眉をきつく寄せ、口元を固く引き締めた。顔中が真っ赤だ。
 満足と興奮で私の口元はたわんだ。

 ハロルドはすっかり変わった。
 木陰にひっそり腰かけていた男の子は、多くの友人と彼に憧れる淑女たちに囲まれる人気者になった。
 私に話しかけられただけで顔を真っ赤にしていた男の子は、二人きりの馬車で私に抱擁を求め、唇を奪う不届き者になった。
 同じ高さにあった榛色の目は、私が首を折って見上げるか、彼が屈まなければ視線を交わせなくなった。つぶらな瞳で仔犬のように私を見返した男の子は、その瞳に情熱を鬱屈させ私を見つめる男になった。

 でも、この顔。私の前で頬を紅潮させて、一心に私を見るこの顔。
 一人ぼっちの男の子だったあの頃と変わらない。
 あぁ、なんて愛らしいのかしら。

「こういうときは」
 木漏れ日がこぼれきらめくハロルドの瞳に見惚れながら、私はささやいた。
「“君と一緒に宝探しをするほうが好きだ” と言うのよ」



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