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第4話 朝の出仕


 あれからすぐ、やけに興奮した様子のクリスが「ビー、すぐ終わらせる」と私にのしかかって欲望をぶつけてきた。
 そのせいで、自分の部屋に戻るのがいつもよりだいぶ遅れてしまった。
 ほてった頬を冷ますのに難儀したわよ、まったく!

 でも、明け方だろうといつだろうと、クリスの誘惑を拒むことは至難の業だ。ただでさえあまり頑丈とはいえない私のすべての理性を奮い立たせても、到底打ち勝てるものではない。
 たとえその日一日中、後ろめたさに苦しめられ、彼の欲望に濡れた眼差しや逞しい裸体を発作のように思い出して、そわそわ落ち着かない心地になると分かっていてもね。
 両手をシーツに縫いつけられ、厚くて硬い胸板に押しつぶされる。男の重みに酔う。欲望に曇った瞳で見下ろされるときの歓び。彼とつながり、揺さぶられるときの快楽と熱。あぁ、思い出すだけでぞくぞくしちゃう。
 彼の隆起した背中の張り具合や、夜明け前の薄明かりの中で裸身を伸ばす様を思い返せば、欲望が顔に出るに決まっている。あからさまに。そんな顔で公妃の前に出仕するわけにはいかない。
 私は頬を軽くはたいた。

 ホワイト宮殿で舞踏会が催された日、私が彼の部屋で一晩過ごすことは、同僚の宮廷女官たちはもちろんベルフォレスト公妃さえ承知している。でもだからって、数刻前の情事の空気を引きずって出仕するなんて、決して許されない。
 当たり前よね。私だって嫌よ。そんなだらしない気持ちで女官奉公しているんじゃない。いやしくもコンラッド男爵家の名前を背負って、将来のダンレイン伯爵夫人として相応しい振る舞いを身につけるために、こんな物騒な場所で窮屈な侍女生活を送っているんだから。いくら寝不足で腰が重かろうと、朝の出仕くらい完璧にこなせなきゃケアリー家には嫁げないわ。

「おはようございます。ベルフォレスト公妃様」
 三人の侍女全員が声をそろえてコーラスのように挨拶をする。
「おはよう」
 ベッドの中、起きぬけの公妃はあからさまに眠そうにあくびをかみ殺した。
 この様子だと、昨晩も皇太子殿下に激しくいたぶられ――おっと間違えた――熱烈に愛されたご様子ね。……あら、まぁ、ネグリジェからのぞく豊満な胸元に赤い欲望の痕跡がちらほら散らばっているわ。メリッサもそれに気付いたのか、リスのようにまるい頬をほんのり赤らめている。

 朝の光の中にいらっしゃる公妃は、国中の画家たちが絵筆を取らずにはいられないほどの神々しい美しさだ。豊かに波打つ淡い金髪は朝日を浴びて輝き、薄桃色の肌はその真下に清流が流れているかのようにしっとり潤っている。極上のブルーサファイアをはめこんだような瞳が、不意に私をとらえた。逃げることが非常に難しい、湖の底に舟人を溺れさせる美しい人魚のような眼差し。
「ミス・コンラッド、あなたもだいぶ眠そうね」
 蜂に刺されたようにぽってりと肉感的な唇から、低く落ち着いた声がこぼれた。公妃は声さえも澄んで美しい。そこには冷笑も揶揄もない。まるで仲間をいたわるような優しさがあった。

 こういうとき、私はどう転んでもこの人に勝てないと実感する。
 ベルフォレスト公妃は敗戦国の王女だ。婚約者は戦死し、戦争には敗れ、父である国王は処刑され、祖国はこの帝国の統治下に置かれている。王位継承者として将来は女王となるはずだったのに、戦利品のように皇太子殿下の愛人にされ、このホワイト宮殿では四六時中危険と敵意と嫉妬と蔑視にさらされている。まだたったの十八歳なのに。
 それでもなお、私たち侍女に優しい笑顔を向けるこの人。
 私がこの人の立場だったらと思うと、身震いする。
 もし故郷をめちゃくちゃにされたら。お父様を殺されたら。クリスがいなくなってしまったら。考えるだけでも耐えられない。周囲をぐるりと敵に囲まれながら、これほど優雅に毅然と振る舞うなんて、私なら絶対できない。

「冷水で顔を洗いはいたしましたが、お恥ずかしい限りです、公妃様」
 私は恥じ入る気持ちをどうにもうまく隠せなかった。まるでおぼこい田舎娘だ。
「あら、そんなことないわよ」
 ベルフォレスト公妃は、大輪の白百合がほころぶように私に微笑んだ。「たっぷり愛されたからかしら。お肌がつやつやしていて、とても素敵だわ」
 小さくも歴史ある王国の王女であるにもかかわらず、彼女はとても率直だ。宮廷社交界の大多数を占めるお上品でお高くとまった、もったいぶった物言いしかしない姫君や貴族令嬢たちとはまったく異質の、一線を画す魅力だ。

「あなたとケアリー子爵は本当に仲が良いのね」
 ベルフォレスト公妃の口から、唐突にクリスの名前が飛び出した。不覚にも、私は激しく動揺してしまった。
「ゆうべ、あなたと一緒にいた殿方がそうでしょう?」
 胸や腹部、太腿の内側にまで散らばる赤い痕に恥じらう素振りも見せず、下着を替えさせながら公妃が私に問いかけた。
「はい。昨晩の舞踏会では、ケアリー子爵との同伴をお申し付けくださいましたこと、あらためてお礼申し上げます」
 そうなのよ。昨晩の舞踏会、本来なら未婚の侍女である私はベルフォレスト公妃のそばに控えていなければならないんだけど、クリスが出席するからたまには婚約者同士二人で楽しみなさい、とご厚意で付き添いを免除してくださったの。
「あなたの婚約者殿は馬術に大変秀でていらっしゃるんですってね。今度遠乗りに出掛けるときには、ぜひご同行願いたいものだわ」
 きわめて女性的な美貌に反して、ベルフォレスト公妃は殿方のように馬に乗って駆けることが好きだ。晴れた日などは、よく皇太子殿下たちと遠乗りに出掛ける。
「ケアリー子爵の馬術は超一級とうかがっております。弱冠二十二歳ながら近衛隊第一竜騎兵隊、隊長首席補佐官を務めていらっしゃるとか」
 メリッサが――おそらく私に気を利かせてくれたのだろう――、公妃にクリスの輝かしい経歴を伝えてくれた。
「あら、それなら腕前はお墨付きね」
 ただでさえ折れそうなくらい華奢でくびれた胴部をコルセットで締めさせながら、公妃は私に優美な笑みを向けた。「遠乗りでお会いするのが楽しみだわ」
「公妃様がそのようにお申し出くださいましたこと、ケアリー子爵に申し伝えておきますわ。きっと光栄なことだとお喜びになるでしょう」
 そりゃあ、クリスは飛び上がって踊り出さんばかりに大喜びだろう。彼も馬で駆けることが好きだし、それが憧れのベルフォレスト公妃とご一緒できるとなれば、近衛隊の職務をなげうってでも馳せ参じるに違いない。

 私はこのとき、声が震えないよう受け答えできていたかさっぱり自信がない。
 予想だにしなかった不安と新たな苦悩が、私の中に絶え間なく浮き上がってきた。

 正直に打ち明けるけど、クリスがどれだけベルフォレスト公妃に夢中だろうと本気で心配はしていなかった。だって、彼は伯爵家の跡取り息子。この帝国の皇太子殿下の愛人に手を出すなんて、近衛隊での経歴と宮廷での評判、廷臣としての将来をドブに投げ捨てるようなものだ。クリスはちゃらんぽらんなお坊ちゃんだけど、そこらへんの優先順位づけは冷静で的確なのよ。

 でも、ベルフォレスト公妃ご本人がクリスに興味を持ってしまったら?
 万が一――あくまで万が一だけど――彼に惹かれて接近するようなことがあったら?

 まずい、まずい、まずい! そんなこと、絶対だめよ!
 朝食前のお茶と果物を用意しながら、私は内心、密かに恐慌状態に陥っていた。

 ベルフォレスト公妃の真っ青な瞳と女神のような微笑みにかかれば、クリスなんて魂ごと引き抜かれて跡形もなく心を奪われてしまう。そんなことになれば、私ごときの存在なんて、キレイサッパリ忘れちゃうんじゃないかしら。

 どうしよう。ありえないと言い切れない。どうしたらいいの?



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