馬を駆るクリスは最高よ。
皇族方をお守りする誉れ高き近衛隊の騎士に相応しく、このうえなく優雅で洗練されている。騎乗しているときのクリスって、婚約者の色眼鏡を差し引いても、尋常じゃなく男らしくて惚れ惚れしちゃう。まさに騎士の中の騎士、といった風格さえ漂っているの。ベッドの中とはまた違う、硬派で精悍な男前っぷりにうっとりよ。
私は今、皇太子殿下とベルフォレスト公妃の遠乗りにご同行している真っ最中。
皇太子殿下と公妃を先頭に、脇を殿下の側近たちがぞろぞろと固め、さらに彼らの娘や姉妹も数名いる。その後方に公妃の祖国からの随行女官と私がつき従っている。いつもはお呼びがかからない私がこの日に限ってここにいるのは、ひとえに婚約者のクリスが呼ばれたからに他ならない。
そのクリスはというと、私の隣にいる、なんてことは当然ない。この遠乗りに同行している廷臣の妹で、若き宮廷社交界の華と名高いノーサンバーランド公爵令嬢レディ・アデレード・ダドリーと前の方で歓談している。折り目正しい近衛騎士の雰囲気がやっぱり素敵だ。
一方、私は溜め息をつくのを懸命にこらえていた。
クリスの隣にいるのが、冷たい美貌を誇る公爵令嬢という目の前の現実もなかなかに耐えがたい。でもそれ以上に、淑女らしくフードをかぶり、淡い黄色のドレスを着て馬に乗っているから居心地が悪いことこの上ない。
あぁ、お上品にフードをかぶってドレスで馬に乗るこの鬱陶しさ! 私も公妃のようにズボンとブーツを履いて、ベルベットの帽子をかぶり、殿方と同じ格好をして馬にまたがりたい。実家のコンラッド男爵領では、誰に憚ることなくそうしていたのよ。
でも、ここホワイト宮殿の敷地内の森での遠乗りでそんなことをしたら、公妃のように「物珍しさで貴公子たちに取り入ろうとしている」なんて下らない噂を流されかねない。私は彼女のように周囲の声に超然と無頓着ではいられない。評判を気にしなきゃいけない不憫な身の上なのよ。だから仕方なく、コルセットに胴部を締め上げられながら、乗馬用ドレスの居心地の悪さなんておくびにも出さず、顔には笑顔を貼りつけ、“乗馬を楽しむ侍女”らしく振る舞わなければいけない。
と、そのとき、一頭の見事な青毛の馬が歩調をゆるめて私に近づいてきた。
「やぁ、ミス・コンラッド。ごきげんいかがかな?」
端整な顔立ちをした青年が気さくに声をかけてきた。黒い髪に澄んだ水色の瞳。ランズダウン侯爵家の跡取り息子、セイルマス伯爵だ。彼はクリスの親しい友人のひとり。有力な廷臣とはいえ、まだ二十二、三歳と年若い。肩肘張ったところがないので、かなり気が楽な相手だ。
「ごきげんよう、セイルマス伯爵。本日はよく晴れて、風が心地よいですわね」
「あぁ、実に爽やかな日です。あなたの美しいドレスの裾を揺らすことができて、風が歓び踊っているようですね」
宮廷社交界のご婦人方を魅了してやまない、ハンサムな笑顔が光った。「そういえば、先頃の舞踏会のあなたは見事でした。若草色のドレスで軽やかに踊る姿は、まるでこの若葉薫る五月の妖精のように美しかった」
「お褒めにあずかり光栄ですわ、閣下。ですが哀しいことに、妖精が舞うのは夜だけですの」
私はフードのリボンを指で弄びながら、伏し目がちに返事をした。
これは “今あなたの目の前にいる私を褒めてはくださらないのね” という、いかにも宮廷の女らしいもったいぶった催促のひとつだ。我ながらうんざりする。
「おや? それでは私の目の前にいる美しい女性は、いったい何者だ? 私はてっきり、可憐なサクラソウの精霊だとばかり思っていたのに」
彼の芝居がかった口調が面白くて、私はかすかに肩を揺らしてしまった。
「セイルマス伯爵、妖精は恥ずかしがり屋ですの。あまり熱心にご覧になると、すぐ森の奥へ逃げ込んでしまいますわよ」
もっとも、あなたが毎晩お相手するのは妖精とはほど遠いご婦人方だから、問題ないでしょうけど。この指摘は喉元に留めておいたわ、心配しないで。
いっぱしの宮廷女官らしく振る舞う私を、セイルマス伯爵は愉快そうにしげしげ眺めている。それはそうだろう。彼はクリスの親しい友人で、お上品とはほど遠い私たちの普段のやりとりを知っている数少ない貴族の一人なのだから。
「ミス・コンラッド、その首飾りはヒバリをかたどっているのですか?」
フードの結び目に隠れがちな首飾りに気が付くとは、さすがはセイルマス伯爵だ。女の身だしなみに恐ろしいほど目敏い。
「はい、春の小鳥の愛らしさを好まない女はおりませんわ。彫金師に彫っていただきましたの。小粒の真珠をつなげるのに難儀しましたが、とても気に入っていますのよ」
これは、“わたくし、首飾りの鎖を自分で作れるほど器用ですの” という婉曲な訴えだ。ほら、手先が器用とか刺繍が得意って、それだけでしとやかで貞淑っぽいし、女として評価がグンと上がるでしょ?
「あなたの首元が止り木なら、春の小鳥もさぞや心躍ることでしょう。それにしてもミス・コンラッド、あなたはそのように目深にフードをかぶるべきではない。せめてもっとお顔を上げて、魅惑的なシャムネコのような瞳をもっと見せてくれたらいいのに」
すでにお気づきの方もいるとは思うけど、彼の唯一にして致命的な難点がこれだ。
クリスという婚約者がいるのを承知で、彼は臆面もなく私を口説くような真似をする。彼にとってはただの挨拶というか、ヒマつぶしの言葉遊びなんだけど、私にしてみればその場を取り持つのが少々めんどくさい。
だってハッキリ突っぱねたり無視したりしたら、周囲の性悪貴族たちから、社交を知らぬ田舎者、身の程をわきまえない礼儀知らずと侮られかねない。
もっとも、名うての女ったらしであるセイルマス伯爵本人に関しては、私が断固とした態度で拒絶を示しても問題ない。クリス曰く「救いようのない女ったらしだけど根は優しい男」らしく、私もそう感じる。だから腹いせに酷い噂を流したりもしないだろうし、次に会うときも変わらぬ笑顔で接してくれるだろう。
じゃあ、どうして私がそういう態度を取らず、セイルマス伯爵とつかず離れずの距離を保っているのか。これにはちょっとした目的があるの。
宮廷社交界でも名高い教養豊かな貴婦人たちは、どんな殿方の誘惑の言葉も優雅にさらりと受け流してみせる。殿方の期待や希望を完全に断つことなく、彼らのメンツをつぶすことなく保つ。男たちの自尊心をくすぐって手のひらで転がし、みずからの崇拝者として従わせる。
ダンレイン伯爵の妻なら、それくらいの社交術は身につけないとね。
セイルマス伯爵には悪いけど、私がダンレイン伯爵夫人――もっと具体的に説明するならクリスの妻――に相応しい貴婦人になるべく、社交術の練習台になってもらっているというわけだ。
生まれついた身分や容姿ばかりはどうにもできない。でも、教養や立ち居振る舞いは学んで身につけられる。いくらでも女は磨ける。
クリスの妻に相応しい貴婦人になるべく、私、がんばるわ!
「わたくし、まだシャムネコとやらを拝見したことがございませんの。それほど愛らしいものなのですか?」
話に食いついてきた私が珍しかったのか、セイルマス伯爵は片方の眉を上げた。
「えぇ、とても魅力的な猫です。東洋のタイランド王国原産で、銀色にも見える短い毛並みが美しく、ピンと張った黒い耳がとてもかわいらしい」
「毛並みは銀色なのに、耳だけ黒いのですか?」
「耳だけではありません。鼻の周り、足の先、あと細く長く美しい尻尾もそうです。私がこの目で初めて見たのは、先日ネーデル王国大使の屋敷に招かれたときでした。原産地のタイランドでは、王室や貴族、寺院など、高貴な血筋の家系のみでしか飼うことが許されない貴重な猫だそうですよ」
ちょっとした蘊蓄を披露できて、セイルマス伯爵はすっかり上機嫌だ。
「中でも最も愛らしいのは、光の加減によって色を変えるトパーズのような眼です。奥深く、神秘的で、いつまでも見つめていたくなる」
いったん言葉を切ると、セイルマス伯爵は笑みを消して私を見つめた。「ミス・コンラッド、あなたのその灰色の瞳のように」
さすが! 私は感動で思わず膝を打ちたくなった。
親しげな笑顔から切なげな真顔へ。セイルマス伯爵のこの鮮やかな表情の切り替え。これで数多くのご婦人方を陥落させてきたのね。これぞ女ったらしの真骨頂。お見事。あっぱれよ。放蕩者もここまで徹底してくれれば清々しいわ。
やっぱり、貴婦人修行の練習台としてこれほど最適な人材はいないわね。
「でしたら、お好きなだけ見つめてくださいませ」
セイルマス伯爵は驚いたように瞬きをした。
「でも、わたくし、フードを目深にかぶるのを決してやめませんわ」
セイルマス伯爵は困ったように苦笑した。
「ミス・コンラッド、私にあなたの顔をのぞきこむような無礼な真似をさせるおつもりですか? 恥ずかしがり屋の妖精とは思えない大胆さですね」
「若葉薫る五月の妖精もサクラソウの精霊も、殿方の視線に怯むには少々好奇心が過ぎるようですわ。閣下、油断をして見惚れてばかりいると、魔法で馬から落とされてしまいますわよ」
彼は一瞬言葉を失った。私は満足の笑みとともにいい気分で前を向いた。
宮廷社交界で名高い貴公子を相手に、まずまずの切り返しができた。
十四歳でホワイト宮殿に出仕し始めた頃、私はただ無言で相手が去るのを待ったり、身も蓋もない問いかけをして失笑を買ってばかりいた。でももう、あの頃の幼稚で愚図な私とは違うのよ。
クリスも、私が着々と貴婦人に近づいていることを喜んでくれるに違いない。
私は、そう信じて疑わなかった。
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