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第7話 散歩


「これ、よろしければどうぞ。目元や頬の赤みを冷ましてくれるわ」
 歴史の授業の後、公妃の祖国からの随行女官が特製のハーブ水の小瓶をこっそり私に渡してくれた。
「私の顔、そんなにひどいかしら?」
「えぇ、目も当てられないわ」
 彼女は公妃同様率直だ。でも今はその遠慮のない正直さがありがたかった。ひどい干ばつでひび割れた田畑のように、言葉の裏の真意を推し量る余裕など、私にはもう残っていなかったから。

 クリスと一悶着した後、召使い用の裏の通路を使って部屋まで戻った。表の通路を歩いて戻る方が楽ちんだし時間がかからないけど、常に誰かの粗や弱みを嗅ぎ回っている廷臣やかまびすしい小鳥のようにあちらこちらで噂をばらまく宮廷女官たちと顔を合わせたくなかった。召使い用の通路でも、幸い誰ともすれ違うことはなかった。

 部屋に戻った途端、床に崩れ落ちてしまった。
 いつの間にか、雨季の洪水のような涙が頬に溢れていた。
「ビアンカ! どうしたの? どこか痛いの? 大丈夫?」
 仰天したメリッサが私に駆けより、背中をさすって慰めてくれた。自分より小柄な彼女に抱きつき、私は声を上げて泣いた。
 勢いのまま、オレンジが詰まった籠を床に放り投げるように、全てを彼女にぶちまけてしまった。彼女は私が味わった屈辱を哀れみ、宮廷の女たちやクリスの言動に怒りを見せたけど、幸いにも私の愚かな振る舞いを責めるようなことだけはしないでくれた。
「公妃がクリスに興味を持ったらどうしよう、なんて心配する以前の問題よね。そもそも彼は私自身にこれっぽっちも興味なんてないんだもの」
「まぁ、ビアンカ! そんなことないわ。ケアリー子爵はあなたのことをそりゃあ大事になさっているじゃないの! この宮廷のみんなが知っていることよ」
 メリッサは大真面目に力説したけど、それは私を立ち直らせるにはあまりにも心許ない意見だった。
 それからベルフォレスト公妃のそばに控えて歴史の授業を受けたけれど、大主教様の説法を聞く仔羊のように、心ここに在らずのまま、私は貴重な時間を無為に過ごしただけだった。

 クリスにとって私は気心知れた幼馴染み。親が勝手に決めた婚約者。
 敬い愛する女じゃない。
 正式に婚約した直後、結婚前にもかかわらず彼に求められるがままに身体を重ねた軽率な女。あのときはただクリスが欲しくて、彼に求められたことが嬉しくて、自分のすべてが彼のものになったようで誇らしくさえあった。
 でも、正しい淑女なら結婚式の晩まで純潔を守るものよね。神に誓いを立てる前に、欲望と情熱のままに――たとえ相手が結婚を約束した男であっても――身体を開くような簡単な女じゃダメなのよ。
 過去を悔んで卑屈にはなりたくない。
 それでも、惨めな破局がこれまでになく差し迫っている今、あらためて自分の過去の行状を顧みると、無知と思慮の浅さを嘆かずにはいられない。

 しかし、クリスは容赦なく私を追い詰めようとしていた。
 その日の晩、就寝の直前に彼から手紙が届いた。私はうろたえた。これまで彼が手紙をよこすことはたびたびあっても、これほど動揺させられたことはない。
 まさか…… まさか今度は婚約破棄の申し出かしら!?
 私はおののいた。ダンレイン伯爵夫妻からの書簡じゃない。クリスからの手紙でそんなことを通達するはずない。頭ではわかっていても、昼間の今夜でロクな内容が書かれているはずがない。
 この手紙を開いて読むには、私はあまりにも軟弱すぎた。
 クリスからの手紙を開封しないままこっそり文箱にしまうと、私は平凡きわまりない焦げ茶色の髪をゆったりと三つ編みし、ベッドにもぐりこんだ。

 翌日、眠りが浅かったためかすかに重い頭で朝の出仕を終えると、皇太子殿下がさっそく公妃を午前の散歩に連れ出した。というわけで、私も公妃に付き従い、殿下や彼の側近たちとともにホワイト宮殿内の庭園の川縁をゆったりと歩いている。
 でも、美しい庭を楽しむゆとりなんて全然ない。
 はっきりいって、肝が冷えっぱなしだ。
「そなたの国では王室が学校を運営していたのか」
 皇太子殿下がベルフォレスト公妃に目がくらむほどまばゆい笑みを輝かせた。
「王室が学校を運営する者を選定し、施設を提供し、文房具などの最低限の教材費を国庫から支援しておりました」
 宮廷中の女――私を除く――の心を鷲掴みにしてやまない豪奢な美丈夫から微笑みを投げかけられても、私の主は氷の女神像のように表情をまったくゆるめない。
「だが、市井の子らにそこまでする必要はあるまい?」
「この国ではそうなのでしょうね。憐れなこと。わが国では親のない子ですら読み書きができるというのに」
 公妃の物言いは、さもこの国の国民より私の祖国の国民のほうが賢く優っている、と言わんばかりだ。彼女は私たち侍女の前では陽気で気さくだけど、皇太子殿下たちの前だといつもこんな調子だ。
 どんな意見にも反論せず、またどんな挑発にも乗らない。相手の発言を否定せず、でも決して相手が反論できない形で自分の意見を主張する。目の前の相手が誰であれ――例えそれが皇太子殿下であっても――取るに足らない存在で、何を言われても心に響かないという雪の女王のようなひんやりした態度を崩さない。けれど、ときおり不意を打って輝くばかりの笑みをこぼす。それが貴公子たちの情熱を駆り立てる。
 皇太子殿下はかなり熱心な様子で公妃の祖国の教育制度や学校運営について聞き込み、公妃はそれに淡々と、しかしいつになく丁寧に答えていた。周囲の廷臣たちも、なかなか興味深そうに聞き耳を立てていた。
「ベルフォレスト、そなたに礼を言わねばならないな。そなたは我が国の国民にとって有益な政策の手掛かりを余に与えてくれた」
 公妃は殿下の賛辞を聞き入れただけで、うなずきもしなかった。私の斜め前で、その様子を見た廷臣のひとりがいかにも気に食わなそうに顔をしかめた。
 ね!これが女官務めというものよ。庭園を楽しむ余裕なんてありゃしない。肝が冷えるどころか凍りつきそうでしょ! 公妃のこういう振る舞い、いつもいつも本当に心臓に悪いわ……
 でも皇太子殿下は、そんな彼女を珍しい小鹿を愛でるように上機嫌で見つめている。
 あぁ、殿下が寛大で女に甘い殿方で本当によかった。

「ごきげんいかがかな? ミス・コンラッド」
 殿下の斜め真後ろに控えていたセイルマス伯爵が、ゆっくり歩調を下げて私に声をかけてきた。庭園の景色を背負って、相変わらずのハンサムぶりだ。
「ごきげんよう、セイルマス伯爵。わたくしはとても元気ですわ」
 あんたとのおしゃべりのせいで昨日から荒野に独りぼっちで放り出された心地よ、と返事をしなかったのはなけなしの理性を絞り出した成果だ。褒めてほしい。
 この忌々しい貴公子の美しい笑顔を目の当たりにしたら、必死に考えまいとしていた昨日の悲惨な出来事――不愉快そうに歪んだクリスの若草色の瞳――が、私の努力もむなしく一瞬で脳裏によみがえった。
「庭園の散歩は実に素晴らしい。アーチ型の髪飾りだけなら、あなたの眼差しを隠すものは何もない。喜ばしいことだ」
 私の内心などあずかり知らない彼は、至極のんきでご満悦な様子だ。
「お気に召していただけたようで光栄ですわ、閣下」
 私は気を抜くと、ついつい恨みがましい目で彼をにらんでしまいそうになる。
 すると彼は気安げに私の手を取り、自分の曲げた肘につかまらせた。彼の物馴れた所作にうんざりしたけど、この場で手を抜き取ることは淑女のマナーに反する。
「あんたのせいでクリスと婚約破棄寸前なの! どうしてくれるのよこの放蕩者!」
 と、心の中だけで彼に八つ当たりをぶつけた。

「ケアリー子爵と何かあったのかい?」
 彼は声を潜め、ごくごく私的な会話の口調で私に問いかけた。
 思わず見上げると、そこには誘惑やからかいの気配はなかった。いかにも友人の婚約者を心配して、やけに真面目くさった顔をした美しい青年がいた。
「いいえ、なにもございませんわ。閣下のお心遣い、いたみいります」
 あんたに心配される筋合いはないわよ。
 そうした気持ちを隠そうともせず、私はつっけんどんに返事をした。
「ミス・コンラッド、私はあなたの正直さをとても好ましく思っているよ」
 セイルマス伯爵は跳ねっかえり娘に呆れ、幾分ほっとした様子で微笑んだ。

 誰が正直なもんですか。私は鼻で笑いたくなった。
 私が正直で可愛い女だったら、とっくにクリスにありのままの気持ちを伝えているわよ。自分の気持ちに正直に、ありのままの想いを素直にクリスに伝えられたらどれだけいいだろう。

 ずっと、ずっと、そういう女になりたくてたまらないのに。

 あの遠乗りの日から十日が経った。クリスからは毎日手紙が届いている。でも私は返事はおろか、一通も封を開けることすらできずにいる。
 手紙を読まないなんて最も礼儀に反する振る舞いだし、いつまでもこんなことをしていてはいけない。それくらい百も承知だ。それでも、不安と意地でがんじがらめにされていた私は、すっかりそこから身動きが取れなくなっていた。
 そうして文箱には控えめなクリスの封蝋が捺された封筒がたまっていく一方だ。

 あれから一度もクリスと顔を合わせていない。



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