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第10話 告白


「クリス」
 私は呆然と彼の名前を呼んだ。「どうしてあなたが?」
「君と二人きりで話ができるよう、ミス・アロースミスに協力してもらったんだ」
 お愛想の微笑みすら浮かべず、彼はゆっくり私に近づいてきた。「こうでもしないと君は僕と目も合わせてくれない。あんなふうにずっと冷たく僕を無視したまま」
「無視したくもなるわよ!」
 彼の無責任な物言いに頭に血がのぼった。勢いよく立ち上がると、私は慎みも忘れて声を上げた。
「これまで散々こけにされて、あんな酷いことを言われて、私が何も感じないとでも? 私たちは親同士が決めたただの婚約者よ。あなたにとって私が気楽で気安いだけの相手だってことも重々承知している。それでも私の自尊心は傷ついたわ。あなたといると、あなたを見ていると、私は自分が価値のない女だって痛感させられるの」
「違う!」
 痛みに耐えるようにクリスはぎゅっと眉根を寄せた。「違うんだ、ビー。君は価値のない女なんかじゃない。僕の大切な婚約者だ。でも、君が自分のことをそんなふうに思ってしまうのは、僕のせいだということはわかっている。……いや、ようやくわかったんだ」
「それはよろしゅうございましたわ、ケアリー子爵」
 私はお高くとまった貴族令嬢――クリスが最も苦手とする種類の女の子――ぶって鼻を鳴らした。
「ビアンカ、どうか僕にそんな話し方はしないでくれ。約束したじゃないか、二人きりのときはこれまで通りに、故郷で暮らしていたときのように振る舞おうって。お願いだ。僕の話を聞いてもらえないか?」

 冷たい雨に打たれた若葉のように、クリスの若草色の瞳が哀しげに潤んでいる。
 ずるい。この男は本当にずるい。
 どんな表情を作れば私を従わせることができるか、どんな声を出せば私を意のままに操れるか、彼は生来の賢さと長年の経験から熟知している。

 当然だ。
 私たちは兄妹のように、いつも一緒に育ってきたのだから。

 子供の頃はただ一緒にいられるだけで楽しかった。
 大人になって欲望が芽生え、ただそばにいるだけでは満足できなくなった。
 それが哀しい。無邪気に純粋に彼を想い続けていられたら、こんなふうに苦しんだり、みっともない振る舞いをせずに済むのに。

 ぬくもりが私の両手を包み込んだ。クリスが目の前に立って私を見下ろしていた。
「お願いだ、ビー。僕も君の話を聞く。言いたいことがあれば、何でも言ってほしい。君の気持ちを教えてほしいんだ。僕はこれまで、自分の気持ちを君に押し付けてばかりだったから……」
 クリスの声は聞いたこともないほど真剣で、隠しようのない不安で震えていた。白い月明かりのせいか、クリスの滑らかな頬がひどく青白く見えた。
 何に怯えているのだろう。私との婚約が破談になったところで彼が失うものなんて、せいぜいおおっぴらに会っても咎められないベッドの相手ぐらいでしょうに。
 そんな意地の悪いことを考えるのも億劫になるほど、クリスの手のひらのぬくもりが心地よかった。あたたかくて、泣きたくなるほどに。

 私を突き動かしていた冷たく凝り固まった怒りや意地が、クリスのぬくもりによってとかされてゆく。春の陽射しを受けた雪解け水のように、流れて消え去ってゆく。

「…… 座りましょう」
 クリスを引き寄せるように長椅子に腰を下ろした。膝の上に置いた両手は、手袋をはずした彼の大きな手のひらにそっと包み込まれたままだ。
 クリスはなぜか、死地に赴く兵士のような悲壮感を漂わせてこう切り出した。
「ビー、これから僕が話すことを聞いて、僕との婚約を破棄したくなったら遠慮なくそう言ってくれ。出来る限り、君の名誉が傷つかないよう取り計らうつもりだ」

 いきなり何?
 もしかして到底結婚できないような身分や立場の愛人――いわゆる “本命”――がいるの? まさかすでに庶子がいるとか? あれだけ色々していたんだから、実は男色家なんです、なんてことはないわよね?
 私はあらゆる衝撃に備え、恐る恐るうなずいた。

「我が家から君の家に届けられた、君と僕の婚約申し込みの書簡を覚えているかい?」
「えぇ、覚えているわ」
 一度深呼吸をし、今まさに教会の告解室に入らんとする罪人のように、クリスが無心に私を見つめ返した。
「あれは実は、僕がやったものなんだ」
「え? なんですって!?」
 私は思わず聞き返してしまった。
 今、クリスは私にとんでもなく重大かつ衝撃的なことを告げたわよね?
「あれは僕の両親がしたためたものではなかったんだ」
 クリスの顔は罪悪感で塗りつぶされている。「僕が両親の署名を真似てしたため、父の目を盗んで彼の書斎でケアリー家の封印を捺し、彼らには君にプレゼントを贈りたいと言って家の馬車を出させ、いかにも正式の使者らしく婚約の申し込みの書簡をコンラッド家に届けさせた」
「…… なんてこと……」
 私は言葉を失った。頭の中が真っ白になった。

 領地の小作人たちと違って、王侯貴族にとって結婚は愛し合う二人の門出じゃない。
 家と家の結びつきを深め、権力をさらに強固にするための政治の手段のひとつに過ぎない。そりゃあ、みんな本音では好きな人と結婚したいと思っている。でも、とくに生まれたときから身分に伴う既得権益を享受している貴族の中に、慣習を破り、評判を投げ捨て、一族を敵に回すほどの気概に溢れる者なんてめったにいるはずがない。

 だから、私も家族も、この婚約をクリスが申し込んだなんて考えもしなかった。

 冷静に、落ち着いて、と自分に言い聞かせながら、私は彼の告白を整理した。
 あのときケアリー家からコンラッド家に届けられた婚約の申し込みの書簡は、クリスが個人的にしたためたもので、ダンレイン伯爵夫妻がケアリー家の総意としてしたためたものではなかった。
 つまり、ケアリー家の正式な書簡ではなかった。
 それでは、あの申し込み自体も正式なものではなかったということになる。

「じゃあ、我が家は偽物の申し込みに公式の返事を出したってこと?」
 貴婦人とはほど遠い、情けなく震えた声で私はクリスに問いかけた。
「あぁ、その通りだ」
 クリスは潔く認めた。断頭台に立ってはいかなる弁解も無用だ、というように。
「コンラッド家からの使者が“正式な”返事をよこしたとき、両親は面食らって慌てふためいていたよ。当然だよね。自分たちの記憶にない、息子との婚約の申し込みに対する了承だったんだから。僕は生れて初めて父上に殴られ、母上から『コンラッド家のみなさんにこんな酷い仕打ちをするなんて、申し訳なくて男爵夫人に顔向けできない』と散々詰られて泣かれたよ」
 男爵夫人こと私の母は、ダンレイン伯爵夫人と公私に渡ってとても仲良くさせてもらっている。
「でも、君も知っているとおり、僕の父上は潔癖で筋を通さずにはいられない人間だ。それに母上は君を実の娘のようにかわいがっている。だから、彼らは君を僕の婚約者として受け入れることに決めたんだ―― 僕自身、拍子抜けするくらいあっさりとね」
 ダンレイン伯爵は生粋の上流貴族らしく威厳に溢れている方だけど、傲慢なところなんてちっともない思いやり深い善き領主だ。伯爵夫人は領民の生活に気を配り、彼らと親しく接するおおらかで心優しい方。
 クリスに愛されていないことは寂しかったけど、そんなお2人に息子の婚約者として認めたもらえたことは誇らしかった。
「そう…… 伯爵夫妻が私を望んでいらしたわけじゃないのね……」
 でも、それも違った。

 私はクリスのしでかした大掛かりな悪戯の結果、彼の妻になれると舞い上がり、清廉潔白な彼のご両親はそんな私を憐れみ、息子の婚約者として迎え入れてくださった。
 これじゃあ、私はただの道化じゃないの。

「ビアンカ、君は僕に騙されていたんだ。本当なら君は、僕の両親に気を遣って僕との婚約を受け入れる必要などなかったんだ。僕のわがままで君の人生を滅茶苦茶にしてしまった」
 今にも溶けてなくなろうとしている蝋燭の炎のように、クリスはか細い声で言った。
「本当にすまなかった」

 私はクリスに騙されていた。
 彼はそう言うけれど、不思議と怒りは湧いてこない。悲しみと虚しさが、倒れてこぼれたインクのように広がり染み渡っていく。
 ただ、どうしてもこれだけは知りたい。
「クリス、どうしてわざわざそんなことをしたの?」



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