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第12話 特権


「違う! 違うんだ、ビー! 僕が愛しているのは君だ! 君だけだ! ベルフォレスト公妃でも他の誰でもない!」
 クリスは早口にまくしたてた。いかにも浮気男らしい言い訳だ。

 私は信じられない心地でクリスの弁解を聞いていた。
 私の疑念の視線に気づいているのかいないのか、クリスはピンと張った肩を力なく落として続けた。
「僕の振る舞いがそれほど君を傷つけていたなんて思いもしなかった。君は僕のことを親の決めた婚約者、気心の知れた幼馴染みとしか見なしていないと思っていたから…… 昔から僕ばかりが君に夢中で悔しかったんだ。ちっぽけな男のつまらない自尊心さ。そのくせ女官として宮廷に出仕する君は日々美しく魅力的になって、僕の周りの男たちを惹きつけていく。もし君が僕以外の男を愛するようになったらどうしようと、いつもいつも不安でたまらなかった」
 私と同じだ。クリスが私と同じ不安を抱えていたなんて。
「じゃあ、どうしてあんなことを…… 公妃に夢中のような振る舞いをしたの?」
 鞭打たれた仔犬のような風情のクリスがすこし可哀相になってきて、私は声色をやわらげて聞いた。

「君が、その、君が……」
 いつになく恥じ入った様子で口ごもり、クリスは視線を泳がせた。
「え? なに?」
 私は右耳を彼の方に突き出して聞き返した。
「君が…… やきもちを焼いてくれたから」
「……… は?」
 私の口から間抜けな声が漏れた。
「少し拗ねた君がかわいくて…… 君のそんな表情を見るたび、僕も多少は君に想われているんだな、って安心できたんだ。自分が幼稚で愚かなことをしていると承知はしていた。でも今日、ミス・アロースミスに指摘されるまで、それがどれほど残酷なことか正しく理解できていなかった。彼女から聞いたんだ。ほかにも僕との婚約や僕が無理を言って君を部屋に呼ぶせいで君が宮廷のご婦人方から辛く当たられていること、それに、あの日の君のことも」

 あの日。
 それがいつのことを指示しているのかわからないほど私も愚鈍ではない。

「僕はアレックスのように気の利いたことを言えない。女性のドレスや宝石のことなんてよくわからないし、君の美しさや魅力をうまく言葉に表現することもできない」
 クリスは私の肘や腕を優しくなでながら続けた。
「あの若草色のドレスを着た君の美しさときたら! 僕は感動と興奮で君をまともに見ることさえできなかった。君を前にすると、僕は頭のてっぺんからつま先まで木偶の坊になってしまう。君をあんなふうに喜ばせることができるアレックスが羨ましくて仕方なかった。それにあの会話を耳にした廷臣の何人かが、君に強い関心を持ってしまった様子に気が気じゃなくて…… それで、嫉妬に駆られて君にあんな酷い言葉をぶつけてしまった。ごめんよ、ビー」
 左の瞼、すぐ右の瞼にクリスの口付けが落ちた。
 やわらかい唇が、私の睫毛からとめどなくこぼれ落ちる涙を吸い取ってくれた。

「私、ずっと寂しかったわ。クリス、私もあなたは私のことを家同士が決めた婚約者、気安いだけの幼馴染みとしてしか見ていないと思っていたの。だって、あなたが優しい言葉をかけてくれるのはベッドの中ばかり。周りからは私はあなたに相応しくないって責められて身の程知らずと嗤われて、目一杯おしゃれをして舞踏会に参加しても、あなたは公妃に見惚れてばかりだし。あなたは私に『愛している』の一言も言ってくれないんだもの」
 この期に及んで、私はこれまで溜め込んだ泣き事をぐずぐず並べ立てた。

「え? 君は僕に『愛している』と言ってほしかったのかい?」
「当然でしょ! 言ってほしくない女なんていないわよ!」
 クリスは平然ととぼけたことを抜かしてくれた。こんなときまで、おっとりお坊ちゃん気質を発揮しないでほしい。
「君がそう言ったんじゃないか! 『軽々しく “愛している” なんておっしゃる殿方、わたくし信用できませんわ』って」
 そんなお高く留まったことを私が言ったの?
 嘘よ。そんな心にもないことを言うわけない。
「言ったよ」
 まるで私の表情から心の声を聞き取ったように、彼が自信と確信をもって断言した。
「君が殿下の取次役と話しているのを、この耳でしっかり聞いたんだ。忘れもしない、あれは3年前、皇后陛下主催の謝肉祭の舞踏会だった。君は僕のことなんてまったく気にも留めず、彼と楽しそうにおしゃべりをしていた。ようやく踊りの輪から抜け出して君に近づいて行ったら、君がそう言ったのが聞こえたんだ。君に軽薄な男だと思われたくなくて、そのときからこれまでずっと、僕は極力その言葉を口にしないよう我慢してきたんだ」
 クリスはすっかり叱られて拗ねた幼子の態だ。
「やだわ、クリス。あんなことを真に受けないでちょうだい。その殿下の取次役の方、私と仲のいい女官と恋人で――あぁ、もう夫婦だったわね――彼女とのことを惚気ていただけよ。私、仲睦まじい彼らがうらやましくて、つい意地悪を言ってしまったの」
 自分の過去の幼稚な振る舞いが恥ずかしくなって、私はクリスから目を逸らした。

「じゃあ、これからは僕も君にいつでも『愛している』と言っていいかい?」
 弾かれたように再びクリスに向き直ると、情熱と欲望で燃える若草色の瞳に捕えられた。矢も盾もたまらず、私はクリスの頭を胸に抱き締めていた。
「もちろんよ! クリス、私の初恋の人、大好きよ! 愛しているわ。ずっと好きだったの。私もそう言いたくてたまらなかった!」
 あれほど切望し、でも口にするのを怖れていた言葉が、まるで息を吐くように私の声に乗って躍り出た。なんだ、こんなに簡単なことだったのね。
 長い間、不安と思い込みと意地で彼に素直になれずにいた。でももうそんな薄ら寒い木枯らしのような振る舞いはしない。これまでの寒々とした日常とはおさらばよ。
 あぁ、それにしても私の愛する男はなんて健気でかわいいのかしら。私の一挙手一投足をそんなふうに大切に捉えてくれていたなんて!
 彼のとんでもない勘違いも今では愛らしいとしか感じない。なんていい加減なご都合主義者だって詰られたって構いやしないわ。

「ビアンカ、僕の愛する人」
 首を伸ばして私と鼻と鼻の先をくっつけ、クリスは静かにつぶやいた。
 彼の吐息に唇をなでられただけでうっとりしてしまう。親密さの中にも、情熱の濃度がぐんと増した声だ。
「僕たちは互いを想う余りずいぶん回り道をしてしまったようだね。だから、これまで味わうはずだった歓びを取り戻すんだ。今すぐに」

 かみつき貪り尽くすような口づけが私を襲った。
 唇を割って入ってきた舌が興奮と欲望をさらに煽る。苦しいほどの熱。でも頭の後ろをクリスの大きな手のひらで押さえ込まれていて逃げられない。逃げるつもりもない。
 飢えた狼のような彼の唇が私の剥き出しの首筋を這い、鎖骨を噛み、胸元に吸い付き、そしてまた唇にむしゃぶりついた。

 このまま私のすべてを奪って。
 食べ尽くして。
 私をクリスの全てで満たして欲しい。

 激しい呼吸とともに、名残惜しげにクリスの唇が私から離れた。彼はいつものように私を抱き上げベッドに向かう。私は甘えるように彼の厚く温かい胸に頬を寄せた。しかし、月明かりに照らされたガーネット色の見事な天蓋付きベッドを目にした瞬間、はっと我に返った。
「クリス、ここはあなたの部屋じゃないわよね?」
「ビー、こんなときでも僕の部屋を確認しておいてくれたなんて嬉しいな。でも、大丈夫さ。この城にはいくらでも部屋はあるし、今ここに来ているのは全員宮廷の人間だ。若い僕らが寝室で愛を確かめ合っているとわかれば、速やかに別の部屋に移動してくれるよ。こういうことに関して、彼らはとても寛容だからね」
 ベッドにそっと下ろされクリスが覆いかぶさってきた瞬間、私の融通の利く慎み深さが、私に部屋の持ち主への遠慮をきれいさっぱり放棄させた。

 クリスは私の身体のすみずみまでキスを浴びせてくれた。私も唇、舌、指、全身で彼を悦ばせた。心から愛し合う男と唇を重ね、肌をこすり合せ、熱を分かち合うことはなんて快いのだろう。
 アプリコット色のまるい頬をしたかわいい男の子は、私に愛と情熱を捧げてくれる頼もしい男に成長した。私は知っている――彼が無邪気な少年からどのように精悍な騎士、宮廷の貴公子、私の婚約者となったのか。

 幼馴染みの特権は気楽さだけじゃない。
 どんな貴婦人も、どんな美女も、私がクリスと共に過ごしてきた時間と思い出だけは手に入れられない。
 私だけの宝物。情熱の水脈。愛と歓びの源。

 あぁ、もうメリッサに「朝までするわけないでしょ」なんて返事できないわ。
 朝日の中、私を揺さぶりながらクリスがつやっぽくかすれた声で囁いた。
 初めて抱き合ったときと同じように、何度も、優しく。

「ビー、愛しているよ。僕だけのかわいいビアンカ」

Supposedly Fin.


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