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第1話 実情


 やぁ、ご機嫌いかがかな? 私はケアリー子爵クリストファー・ケアリー。
 父は第四代ダンレイン伯爵チャールズ・ケアリー、母は第三代ウィンチェスター侯爵ベンジャミン・ポーレット=ベアスブリッジの長女エリザベスだ。兄弟はいない。私はひとり息子なのでね。

 ……え? へぇ、ってそれだけ?
 私の親や家や身分などに興味はないのかい?

 珍しい人もいるものだね。ここには、親がどこの誰で、どの姓を名乗り、どの爵位を持っているのかまたは受け継ぐ予定かで相手をどう扱うか決める人間しかいないのかと思っていたよ。
 もっとも、君のように私の身分に無頓着でいてくれる人はありがたい。こちらも気構えせずにいられるからね。

 さてと――あぁ、やはり僕はこういう気取った話し方は好かないな。
 改めて、こんにちは。僕のことはクリスと呼んでくれて構わない。
 同僚はみな、身分の如何を問わず僕をそう呼んでいるんだ。

 同僚って何のことだって?
 そりゃあ近衛騎士の同僚に決まっているじゃないか。

 伯爵家のひとり息子なんていかにも箱入りと思われるかもしれないけれど、僕はこれでも皇族方を御守りする誉れ高き近衛騎士のひとりなんだ。
 ひどく着痩せするせいで見くびられがちだけれど、腕はそれなりに立つ方なんだよ。とくに馬術だけなら、僕が首席補佐官を務める第一竜騎兵隊隊長サー・エリオット・ダヴェンポートにも負ける気はしない。

 なぜ伯爵家のひとり息子が近衛騎士なんてやってるんだ、って、やはり君も不思議に思うんだね…… いや、がっかりしているわけではないんだ。断じて、そうじゃない。
 君が疑問に感じるのはごもっともだよ。
 近衛騎士になるのは普通、貴族の次男以下の息子だからね。僕みたいな法定推定相続人、ましてやひとり息子が志願してまでなるなんてことは滅多にないよ。

 慣習を鑑みても、僕みたいな立場の人間はアレックス――セイルマス伯爵のほうが通りがいいかな――みたいに、最初から廷臣として宮廷に上がり、皇帝陛下や実質的に政務を執り仕切る皇太子殿下の側近になるのが通例だ。考えるまでもなく、それが最も手っ取り早い出世の方法だからね。

「クリス、いい加減にしろ。引き際はとっくに過ぎている。まったく、いつまで西の翼棟に居座るつもりなんだ。馬に乗るのは殿下との遠乗りか狩りのときだけで充分だろう」
 セイルマス伯爵ことアレックス・スタンフォードは僕の幼馴染みだ。こうして私的な場で話すとき、名前で呼び合う程度に親しい間柄にある。僕たちのような身分の男は、通常爵位の名称や姓で呼び合うものだからね。
 彼は僕が近衛騎士でいることにしょっちゅう不満と難癖をぶつけてくる。僕がほかの近衛騎士たちと同じようにホワイト宮殿の西の翼棟に居室を構え続けていることも、遠目にも騎士と分かる大仰な肩章付きのケープをまとっていることも、何もかもが気に食わないらしい。

 そりゃあ勿論、僕だってずっと近衛騎士でいるつもりはない。
 遅かれ早かれ、廷臣として宮廷に上がるつもりだ。僕は帝国への忠誠心のみで生きている清廉潔白な臣民ではない。父のように大局を動かし帝国に富と繁栄をもたらす政治家になりたいし、領民から敬愛される善き領主にもなりたい。そのための権力が欲しいし功名心だってある。

 僕が騎士でいるのは婚約者と結婚するまでという期限付きだ。せいぜい長くてもあと一年といったところだろう。
 それに、国境警備兵ほど実際的な危険に面する職務ではないとはいえ、この国は皇太子殿下自らが指揮官として戦場に赴く。そのため、僕ら近衛騎士もまったくの名誉職というわけでもないからね。自ら率先して我が家に跡継ぎ問題を引き起こそうと企むほど、僕は無軌道でも親不孝者でもない。

「アレックス、何度も言っているだろう。僕は結婚するまでは何があっても近衛騎士でいなければならないんだ」
 すると彼は、約束したポニーがいつまでたってもやってこないことに業を煮やした少年のように僕をにらみつけた。
「結婚か。お前、あの男爵家の娘なんぞと本気で結婚するつもりなのか?」
 そして、同世代の貴族の男たちの自尊心をいとも容易くへし折る冷笑を浮かべた。
 僕が近衛騎士でいること同様、彼は僕の婚約者についてもあまり好意的ではないし納得がいっていないようだ。

 透明な窓ガラスの奥を見透かそうとするように、アレックスは澄んだ水色の眼をすがめて僕を見据えた。逃亡の最中に沼に落ちた罪人が浮かんでくるのを待つ兵士のように、その眼差しは心配のかけらもなく厳しく冷たい。夜毎、宮廷社交界でご婦人方を魅了する甘美な微笑みとは雲泥の差だ。

 幾人も宰相を輩出してきたランズダウン侯爵スタンフォード家の跡取り息子であるアレックスにしてみれば、財力も権力もない男爵家の娘など、愛人にこそすれ、妻になど決して選ばないだろう。だから彼は、僕が「男爵家の娘なんぞ」を婚約者に選んだことが理解できないのだ。

 彼のこの反応は、ホワイト宮殿の宮廷に出入りする大多数の意見と合致する。
 アレックスはこうして正直なだけまだマシだ。僕との結婚を狙っていた女たちはいかさまの祝福の笑顔の裏で不服そうに眉をしかめ、男たちはろくに持参金を用意できない男爵家の娘と結婚しようとしている僕を、分別に欠ける呆気者と陰で嘲笑した。
「めでたいな、ケアリー。そなたの婚約者は我がベルフォレストの侍女だ。幸せにしてやるといい」
 彼女と僕の婚約を心から祝福してくださったのは皇太子殿下くらいだった。彼はいついかなるときも徹頭徹尾、鷹揚で闊達な男なのだ。真実、忠誠を捧げるべき御方だ。

 もっとも、そうした一切合財のことはほとんどまったく問題ではない。
 宮廷のほとんどの貴族が不服だろうが不満だろうが、この婚約はダンレイン伯爵家が認め、皇帝陛下から直々に祝福と許可を賜ったものだ。
 誰にも邪魔はさせない。

「あぁ、勿論だ。僕は必ず、彼女――コンラッド男爵家のビアンカ――と結婚する。だがアレックス、君は彼女の名前を覚えておくだけでいい。君は彼女と親しくする義務はないし、彼女の名前を口にする必要もない」
 思いのほか声に剣呑な響きが宿ってしまった。
 アレックスはそんな僕の様子に、なぜかもう手の施しようのない熱病患者を憐れむように頭を振った。
「お前が物好きなのは知っていたが、まさかろくに持参金すら用意できない幼馴染みを妻にするほど酔狂だとは思っていなかった」
「持参金がなんだ!」
 ついカッとなって声を荒げた。「愛こそが全てじゃないか!」
 微塵も怯みもせず、アレックスは皮肉たっぷりに僕をせせら笑った。
「いかにも帝国有数の富を受け継ぐ男の台詞だ」

 僕はただビアンカを愛しているから結婚する。
 持参金や出世の足掛かりとなる縁故のために彼女と結婚するのではない。
 彼女を想うたび、蜂蜜漬けのレモンを齧るように甘酸っぱい高揚感が溢れ、完熟の葡萄でこしらえたワインを味わうような陶酔が胸を満たす。あぁ、甘美なこの心地!
 果たして君にご理解いただけるだろうか?

 僕のような身分や立場の人間にとって、持参金や縁故や血筋を考慮しない結婚など、豊富な漁場で漁師が釣りをしないのと同じくらい摩訶不思議な振る舞いだ。
 それくらい理解しているし、自分が大多数から外れたことをしている自覚もある。
 しかし、だからといって僕の決意は揺るがない。

 彼女を手に入れるために、僕はありとあらゆる手段を講じてきたのだから。



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