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第11話 夜明け


「ミス・アロースミス、私は本当にここにいるだけでいいのかい?」
「まぁ、いけません! 不用意にお顔を出さないでくださいませ!」
 廊下の様子をうかがおうとドアから顔を出そうとしたところ、ミス・アロースミスが慌ててドアを閉めた。僕は危うくドアの扉と枠に顔を挟まれるところだった。
「手筈どおりになさってくださいませ。よろしいですね?」
 ドアの前で僕を見上げるミス・アロースミスの気迫に圧され、僕は大いなる決戦に挑む戦士のように重々しくうなずいた。
「あぁ、承知した」

 ミス・アロースミスの言う手筈とはこうだ。
 まず、彼女が隣の部屋までビアンカを連れてくる。いったん彼女だけ部屋を出て、僕がいるこの部屋のドアを5回ノックして僕に到着を知らせる。そうしたら僕はビアンカのいる隣の部屋に入っていく、という流れだ。
 ところが、その部屋というのがよりにもよってアレックスの部屋だった。
 ミス・アロースミスはそのことを知っている様子はなく、「あなた様のお部屋を使うわけにはいきませんもの」と、使い勝手が良さそうだと目星をつけたのがたまたまこの部屋だったようだ。もっとも、どうせアレックスのことだ。適当なご夫人の部屋にでも泊めてもらえるだろう。彼が眠る場所に困らないなら、僕が彼の部屋を占拠したところで大した問題ではない。

「わたくしは日頃からミス・コンラッドに相談に乗ってもらっております。私が何か相談事を抱えている風を装えば、彼女はきっと私について来てくれますわ」
 これはビアンカと親しい彼女だからこそ実行可能な作戦だ。
「ケアリー子爵、ミス・コンラッドは決して狭量な女ではありません。むしろとても懐の広い心根の優しい人です。どうかあなたの正直な気持ちをそのままお伝えください。あなたがたは――差し出がましい口を利くのをお許しください――お互いに言葉が足りないようにお見受けいたします。ですが、まだ大丈夫です。必ずミス・コンラッドをお連れします。どうぞわたくしにお任せください!」
 小柄な彼女の笑顔はとても大きくまばゆかった。
「あぁ、ミス・アロースミス、ありがとう。君は僕の大恩人だよ」
 ビアンカと僕のために、これほど労をはたいてくれる人がいるだろうか。僕はミス・アロースミスの友情と優しさに感激した。彼女が何か手助けを必要とするとき、どんな些細なことでも僕は必ず彼女の力になろうと決めた。

 ミス・アロースミスが出ていき、僕は月明かりが射し込む部屋にひとりになった。
 初めてビアンカを抱いたときも、こんな満月の晩だったな、とひどく感傷的な気分になった。そうだ。あのとき、僕は彼女の人生を奪ってしまったんだ。だから、奪ってしまったものを返さなければいけない。彼女に返した上で、またもう一度、今度は正しいやり方で手に入れてみせる。

 かかしのようにドアの前に突っ立ち、ときどき分厚いドアに耳をくっつけて外の様子をうかがおうとしながら、僕はじりじり焙られるような心地でノックを待った。時間の流れはひどく遅かった。
 部屋と部屋の間隔がもう少し狭く、ドアや壁がもっと薄ければ、外の様子をうかがい知ることができるのに! 期待と不安が高まるあまり、ついでに苛立ちが顔を出し始めたちょうどそのとき、ドアを五回ノックする音が聞こえた。すかさずドアノブが回され、廊下の明りが薄暗い部屋に射し込んだ。
「お待たせいたしました、ケアリー子爵」
 木の巣穴からちょこんと顔を出すリスのように、ミス・アロースミスがドアのわずかな隙間から満足げな笑顔をのぞかせた。僕は部屋から飛び出し、そしてすぐさま隣の部屋に飛び込んだ。ほのかな月明かりが、ビアンカを優しく照らしていた。
「クリス、どうしてあなたが……?」

 僕は踏み出した。
 混じりけのない正真正銘の愛を手に入れるために。
 一点の曇りもない心で、ビアンカに真実と本当の気持ちを伝えるために。

「なるほどね。そういうことだったの」
 事の顛末を聞いたビアンカは、苦笑まじりの溜め息を吐いた。「私はメリッサにまんまと騙されたってわけね。あとでお礼を言わなきゃ」
 彼女と僕はリーゼル城の一室のベッドの中にいた。お互い生まれたままの姿で、ほてった肌を隙間なく密着させて寄り添っていた。

 おっと、失敬。これでは君は何がどうなったのやら、さっぱりわからないね。
 ……え? だいたい察しはついてるから先に進めろ、だって?
 いやぁ、君は実に親切な人だ。ありがとう。

 そう、僕はビアンカと想いを通わせることができたんだ!
 しかも、なんと、ビアンカも幼い頃からずっと僕のことを想ってくれていたんだ。僕たちは互いに初恋同士で、ずっとそうとは知らずに不毛な片想いをしていたらしい。なんということだ。お互い同じような不安を抱えて悶々と悩み、その苦悩が愛する人をさらに苦しませていたなんて嘆かわしい限りだ。ミス・アロースミスの言ったとおり、僕たちは言葉が足りなすぎた。
 これなら無駄な足掻きや下らない策を弄したりせず、さっさと想いを打ち明けておくべきだった。まったく、やはり臆病ほど情けないものはないということだね。

「騙されたのにお礼を言うの?」
 彼女の言葉尻を捉えて揚げ足を取りながら、僕はこの上ない幸福感に口元をほころばせた。僕の胸の上に顔を乗せたビアンカの頭をなでると、彼女はくすぐったそうに喉を鳴らした。まるで腹をなでられ喜ぶ仔猫のようだった。彼女の蠱惑的な愛らしさに、僕のへその下辺りがまたしても性懲りもなく熱くうずいてきた。
「そうよ。だって彼女は私の天使だもの」
 ビアンカは身体を起こすと、僕の唇に口づけをした。「メリッサがいなかったら、きっと私はいつまでもいじけて、拗ねて、心に蓋をしていたと思う。クリスに正直に、ありのままに想いを打ち明けることはできなかったかもしれない。だから、彼女は私を愛の楽園に導いてくれた偉大な天使よ。そうでしょ?」
「違う。彼女が導いたのは君じゃない」
 ビアンカを抱き寄せ、僕は彼女にのしかかった。「“僕たち” だ」
 灰色の瞳が歓びに潤み、華奢な両手が僕の頬を優しく挟んで引き寄せた。
「私のかわいいクリス。大好きよ。ねぇ、もう一度一緒に楽園に行きましょう?」
 こうして一晩中、穏やかな睦言と激しい楽園を行ったり来たりしていたので、意識を手放したビアンカは泥のように深い眠りに落ちた。すやすやと愛らしい彼女の寝顔は僕の心を温め、またとない名案をひらめかせた。

 東の空が淡いすみれ色に染まり始めた夜明け前。
 ビアンカを起こさないよう、僕は慎重にベッドから抜け出した。急いでシャツをかぶり、膝丈のズボン(ブリーチ)を履いただけの格好で、上着も羽織らず、僕はこそこそとリーゼル城の庭園に忍び出た。真珠のような朝露をまとった色とりどりのバラが、朝焼けの光を浴びながら初夏の庭園に咲き誇っていた。花びらはふっくらと瑞々しく、棘はきれいに取り除かれ、庭師の丁寧な仕事ぶりがうかがえた。
 僕は八分咲きの大輪の赤いバラを1本手折った。帝国臣民であり近衛騎士でもある僕が皇家のものを――たかが1輪のバラでも――盗むなど不敬罪で糾弾されかねないことだ。しかし、これによって僕が幸福な人生を手に入れ、将来廷臣として帝国に貢献すればそれも帳消しになるだろう。
 庭園の片隅で都合のいい算段ににんまりしていた、そのときだった。

「ケアリー子爵、そのような恰好で何をしていらっしゃるのですか?」
 頭上から声が降ってきた。ぱっと顔を上げると、バルコニーからガウンを羽織っただけの若い男がけだるげに僕を見下ろしていた。
「おはよう、アレックス。実に気持ちのいい朝だね」
 相手がアレックスだった安堵で、僕は思わず浮かれた挨拶をしてしまった。途端に彼は気分を害したように顔をしかめた。
「そうだな。お前はこれ以上ないというほど満ち足りて見えるよ」
 アレックスは彼らしい皮肉っぽい笑みを光らせた。「私の寝室で幸福を勝ち取ることができたのなら、友人としてこれほど喜ばしいことはない」
 バルコニーの大理石の柵から身を乗り出し、アレックスは僕にそう応えた。
 昨夜、何度目かの絶頂の直後、ビアンカが気を失っていた間にアレックスが寝室に入ってきたんだ。まぁ、そもそもあの部屋は彼にあてがわれた部屋だったからね。しかしさすがは百戦錬磨のアレックスだ。一瞬で状況を理解し、不敵な笑みを浮かべて「我が友の愛と幸福に」と乾杯の仕草をして颯爽と部屋を出ていった。
 いやはや、アレックスはいついかなるときも洗練された言動ができる男だ。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。ところで君は昨夜はぐっすり眠れたのかい? その様子だとあまり心配する必要はなさそうだけれど」
「あぁ、もちろんだ。素晴らしい友人とともにぐっすり眠れたよ」
 アレックスは得意げに右の眉を吊り上げた。ほらね、僕の言ったとおりだろう?
「そうか、それはよかった。あぁ、アレックス、君には色々話さなければならないことがあるけれど、いま僕は人生を賭けた一大事に直面しているんだ。悪いが失敬するよ」

 僕は大急ぎで部屋に戻った。



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