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第12話 かわいいひと


 まるで最も甘い蜜を滴らせる花に飛んでいく蜜蜂のようだ。

 僕は勢いよく階段を駆け上がり、足取りも軽く廊下を走り抜けた。深紅のバラが傷つかないよう、大切に胸に抱えて。早朝の人目がないのをいいことに、ダンレイン城で過ごしていた幼い頃のように振る舞ってしまった。しかし、僕はそんな自分をまったく恥じていなかった。

 部屋にたどり着くと、深呼吸をしてからごくごく控えめにノックをし、静かにドアを開けた。寝室に入ってベッドを確認すると、出て行ったときと同じままだった。右側半分がなだらかな丘のように小さく盛り上がっている。
 足音を立てないよう、ゆっくり近づいた。首を伸ばしてのぞき込むと、寝乱れた焦げ茶色の髪の間からいたいけな寝顔が僕を迎えた。昨夜、いや、今朝方まで僕を激しく誘惑し、深く魅了し、とろけるようなぬくもりと幸福感で満たしてくれたひとだ。それにもかかわらず、夢の中にいるビアンカは仔猫のように無防備だった。すやすやと子供のように寝息を立てるビアンカの髪をなでたり、頬に口づけしたりしていると、性懲りもなくよからぬ熱がせり上がってきた。

 こらえろ、今はこらえるんだ――僕は自分に厳命した。

 ベッドから何とか離れると、僕はまずテーブルにバラをそっと置いた。それから真横にあったガラスのピッチャーをつかみ、ハーブの葉を落とした水をグラスに注いで一気に飲み干した。腫れた唇が冷たいグラスにひりひりと痛んだ。爽やかなハーブの香りも僕の熱情の前では形無しだ。しかし、床に散乱した衣服の中から自分の上着を拾う程度の落ち着きは与えてくれた。ビアンカのドレスや下着を丁寧に椅子にかけ、それから僕は可能な限り身なりをきちんと整えた。

 その物音に気付いたのか、ビアンカがベッドの上でもぞもぞと起き上がった。
「クリス? 起きているの?」
「ビー、おはよう」
 真っ白なシーツで胸元を隠し、ぼんやりと寝ぼけまなこで僕を見つめるビアンカに飛びかかりそうになるのをぐっとこらえながら、僕はピッチャーの水を注いでグラスを彼女に持たせた。
「ありがとう」
 彼女のかすれた声に理性がぐらついた。おいしそうにグラスの水を飲み干してから、ビアンカはどこかこわごわと唇を舐めた。夜通し重ねた激しい口づけのせいで、きっと彼女の唇も腫れているのだろう。僕たちはこの痛みさえ分かち合っているんだ。そう思うと、また重ね合わせたくてたまらなくなるのだから僕もたいがい堪え性がない。
「身体はつらくない? 大丈夫かい?」
「大丈夫……と言いたいところだけど、全身が鉛のかたまりみたいに重くて動けそうにないわ」
 困ったように眉尻を下げると、ビアンカは小さくあくびをした。いつも寝起きはすこぶるいいビアンカだけれど、今朝方まで続いた放蕩が響いて手元はどこかおぼつかなかった。それでも澄んだ灰色の瞳の活き活きした輝きは変わらない。僕はたちまち嬉しさがこみ上げてきて矢も楯もたまらなくなった。テーブルに置いた深紅のバラを手に取り、素早くその手を背中に回した。僕は駆け寄るように彼女の前にひざまずいた。

「クリス? 何やってるの?」
 きょとんと僕を見下ろすビアンカの手を取り、羽根のように優しく触れるだけの口づけをして彼女を見上げた。小首をかしげていた彼女は、唐突に差し出された深紅のバラに目を見開いた。
「ミス・ビアンカ・コンラッド、私クリストファー・ケアリーはまことの愛と忠誠により、あなたに結婚を申し込みます」
  ビアンカが息を呑んだ。彼女に両手でバラをつかませ、僕はその白く小さな手を祈るようにそっと包んだ。
「ビー、君を愛している。どうか僕にもう一度、今度こそ真実の求婚をさせてくれ。もう僕には嘘や隠し事は何ひとつない。僕が君を想う心には一点の曇りもなく、この初夏の青空のように澄んで晴れ渡っている。愛しいビアンカ、今すぐ僕と結婚してくれ。君と一日でも早く本物の夫婦になりたい」

 ビアンカの長く密集した睫毛が震えた。なにかをこらえるように、赤く腫れた唇をかんだ。潮が満ちていくように、美しい灰色の瞳が潤んでいく。嵐の波が堤防から溢れるように、大粒の涙がビアンカの頬にこぼれ落ちた。
 僕に両手を握られているせいで、ビアンカは涙をぬぐうこともできず、ただただぼろぼろと睫毛の間からガラス玉のような涙を滴らせている。ただ、その眼差しには活き活きとした情熱が溢れ、瑞々しい頬は喜びで桃色に上気して見えた。
 僕は勢いづいた。
「我が愛する人、ビアンカ」
 騎士の誓約式で皇后陛下より両肩に振られるサーベルの代わりに、ビアンカが手にしていたバラを僕の肩にすべらせた。「クリストファー・ケアリーの名とこの剣に懸けて、私は生涯あなたに愛と忠誠を誓うことを約束いたします。どうか私をあなたのおそばに。いついかなるときもあなたを守り、必ずあなたを幸せにいたします」

 本来なら「我が敬愛する皇后陛下」の部分を婚約者に言い換えるなど、不敬罪どころの話ではない。でも仕方ないじゃないか。僕が心から愛と忠誠を誓えるのはビアンカだけなのだから。ところが、ビアンカはさっきから僕を真っ直ぐ見つめて涙を流すばかりで、一言も返事をしてくれない。生来、我慢強さと忍耐に欠ける僕はたちまち不安に追い立てられ、居ても立ってもいられなくなった。
「ビー、お願いだ。今すぐ僕と結婚して、僕の妻になってくれ。これからもずっと、僕は君と一緒に歩んでいきたい。ビアンカ、君の返事を聞かせてくれ」
 不意にビアンカが身をかがめて顔を近づけた。額にやわらかい唇が押しつけられた。熱っぽく潤んだ灰色の瞳は雨後の空のように澄み、睫毛にこぼれた透明な涙の雫が僕の頬に滴り落ちた。自ら崖に駆けこんだ小ヤギのようにみっともなく切迫していた気持ちが、一瞬にして温かくとろけて染み渡った。

 僕はこんなことを思った ―― まるで女神の祝福だ。

「クリストファー・ケアリー様、わたくしビアンカ・コンラッドは、あなた様の求婚をお受けいたします」
 朝の淡い光の中ではにかみながら僕を見つめ返すビアンカは、頭がくらくらし、顔がほてり、心臓が破裂しそうになるほど美しかった。
 そう、まさしく僕だけの女神だ。
「クリス、私だって一日でも早くあなたの妻になりたい」
 ビアンカを抱き締めたくて身体が震えた。我に返ったときにはすでに僕は膝を伸ばしてベッドに飛び乗り、全身の力を込めて彼女を抱きすくめていた。僕の腕の中で小さく鼻をすする音と、くすぐったそうな笑い声が漏れた。「幼い頃から、ずっと夢見てきたのよ。クリス、愛するあなたの妻になることをね。あなたと素晴らしい家庭を持って、あなたを幸せにしたい。ずっとそう願ってきたの」
 あぁ、やっぱりビアンカだ。彼女は普通の娘じゃない。
「ビー、女である君が男である僕に “あなたを幸せにしたい” なんて、まったく君は大したじゃじゃ馬娘だ。でも、僕は君のそういうところが大好きなんだ。愛する人、僕が結婚するなら君しかいない――そんなことは5歳のときにすでに知っていたけどね」
「クリス、あなたってやっぱりのろまさんね」
 ビアンカは僕の鼻をつまみ、塀の上の猫のように微笑んだ。「私は3歳のときには、すでにあなたしかいないとわかっていたというのに」
 ところが生憎、ビアンカはいつもの生意気かつ挑発的な調子を取り戻すには心身ともに疲労困憊しすぎていたようだ。鋭い眼差しは蜂蜜のように甘くとろけ、勝気そうにたわむ唇はハートの形にぷっくり赤らんでいた。
 言葉を忘れ、僕はただただ愛しい人に見惚れた。
「クリス、ねぇ、バラの花がつぶれちゃう」
 僕の腕の中にいるビアンカが、どこか気恥ずかしげにおずおずと言った。まったく、たかがバラごときにまで律儀なことだ。
「それはいけない。僕たちの真の婚約の誓いに立ち会った唯一の証人だからね」
 リーゼル城の庭園から連れ去られてきた深紅のバラをグラスに挿すと、僕は再びビアンカを両腕で抱き締めた。

 情熱と欲望は、しばし慈しみといたわりに役目を譲ることにしたようだ。
 窓から朝の太陽の光がきらきらと降り注ぐ中、ビアンカと僕は穏やかな抱擁と優しい口づけに没頭していった。
 ビアンカと僕は再びベッドに横になって一緒にシーツにくるまり、ぴったり寄り添って抱き合った。召使いが朝の紅茶を運んでくるまで、ふたりっきりの優しいまどろみを満喫した。これまでの僕の行状を鑑みると君は到底信じられないかもしれないけれど、本当に本当のことだ。

「もう朝ね。夢の時間はお終いよ」
 僕の腕を枕代わりにくつろいでいたビアンカが言った。
「君はそれで構わないの? 夢が終わってしまうのは寂しくない?」
 考えたこともない興味深い見方だ、という気持ちを込めて僕は尋ねた。
「えぇ。もうそんな夢を望む必要はないもの」
 ビアンカは誇らしげに僕を見返した。「私たちは知らぬ間に同時に同じ夢を見ていたの。私はクリスを好きになった。クリスも私を好きになった。そして私たちは互いにそのことをずっと知らなかった。寂しさと苦しみを抱えてずっと夢の中をさまよい歩いて、私たちはようやく目を覚ましたのよ。そして知ったの―― 私たちは心から愛し合っている、ってね。だからもう夢はいらない。私は、クリス、あなただけを見詰めていたい。あなたのそばにいたい。ただそれだけでいいの」

 一瞬にして、僕の目の周りが燃えるように熱くなった。
「僕もだよ、ビアンカ、愛する人。僕も、ただそれだけでいいんだ」
 甘い蜜を吸う蜜蜂のように僕の瞼に口づけをし、ビアンカが――彼女の灰色の瞳が濡れた猫目石のようにきらめいていたのは気のせいではない――微笑んだ。

「クリス、愛しているわ。私だけのかわいいひと」

 犬を愛でるように女から「かわいい」などと言われれば、男は名誉を貶められたと憤慨してしかるべきだ。
「ビアンカ、淑女たる者、男にかわいいなどと言ってはいけない」
 春の雪山のように崩れそうな口元を精一杯引き締めながら、僕は努めて声を低めた。
 それにもかかわらず、ビアンカの灰色の瞳は好奇心と期待できらきら輝いていた。僕が彼女のその言葉に歓喜し、悦びの口づけを捧げたくてウズウズしていることなどとっくにお見通しだ、と言わんばかりに。だから、ただでさえ脆弱な僕の我慢は呆気ないほど簡単に崩れ去った。

「その言葉はどうか僕から君に言わせてくれ。僕の愛するかわいいひと」


They lived happily ever after... ?


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