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第2話 きっかけ


 今から七年前、僕が十五歳、ビアンカが十二歳のときのことだ。

 この頃、対岸の大陸の王国へ大規模な遠征が行われた。
 現皇帝陛下の宮廷のものとしては、父曰く、最大級の壮大な催事だったらしい。見栄の張り合い、豪華さの競い合いという点で、この三年前に執り行われた両国首脳会議と遜色ないものだったそうだ。そんなわけで、首都から白い断崖を持つ港湾都市までの陸路は、これまた父曰く、まるで熾天使の降臨にも等しい行列だったそうだ。
 ビアンカと僕は、その行列がホワイト宮殿から出立する様子を宮殿のバルコニーから眺めていた。馬に馬車に荷馬車、歩兵に騎馬兵、召使い、軍隊の随行者、馬上の美しい侍女に若々しい侍従、その数の多さに僕も彼女も驚き呆れ返るほどだった。

「近衛騎士って本当に素敵ね」
 手摺りに頬杖をついたビアンカが、惚れ惚れした表情とうっとりした声で言った。
 彼女の視線の先には、皇帝陛下と皇后陛下がお召しになる馬車の前後と両脇を、粛々とお護りする騎馬兵――ひときわ絢爛豪華な深紅の正装に威儀を正す、皇帝陛下に仕える近衛騎士たち――がいた。
「そうだね。でも、騎士は爵位を継げない次男や三男ばかりだよ?」
 内心の嫉妬が漏れないよう注意を払いつつ、彼女にとって彼らより僕の方が男として将来の夫として恵まれていることを暗に訴えた。
 あぁ、この頃の僕の愚かしさときたら、何と哀れで嘆かわしいことか!
「だから何よ。爵位しか取り柄のない軟弱な男なんて情けない」
 そんな下心にまみれた僕になど見向きもせず、ビアンカは近衛騎士たちを見つめたまま言った。まるで、爵位しか取り柄のない僕を嘲るような断固たる口調だった。
「結婚するならやっぱり、近衛騎士みたいに男らしく頼もしい殿方がいいわ」
 猫のように切れ長な灰色の瞳に、たっぷりした睫毛の影が濃い影を落として揺れた。たまらなくもの憂げで、それでいて夢見がちな女の子らしい愛らしさに満ちていた。思春期の欲望を覚え始めた僕の男の部分を激しく掻き立てた。

 このとき僕は決めた。
 彼女の愛を勝ち獲るため、僕は近衛騎士にならねばならない、と。

 え? 何だって?
 そんな下らない理由で近衛騎士の名誉に与ろうとするとは何事だ、欲にまみれた不忠の不届き者め、だと?
 下らないとは何だ! これのどこが下らないと言うんだ!
 男なら誰でも、愛する人の信頼と安心に値する人間になりたいと願うものだろう?
 彼女に認められたい一心だったんだ。
 両親以外の一族全員から奇異の目を向けられ「気が触れたのか?」と危ぶまれ、最初のうちは近衛騎士の同僚たちから「跡取り息子殿の暇つぶし」と侮られ疎外され、アレックスや顔馴染みの廷臣たちからは「騎士なんぞさっさと辞めて宮廷に上がれ」と口やかましくせっつかれる日々。
 しかし、生傷をこしらえ青痣の痛みに耐えながら過酷な剣術の鍛錬に励み、そのうち同僚の近衛騎士たちとも打ち解けて、馬術に至っては近衛騎士随一と認められるまでになったんだ。
 切ない初恋に胸を焦がした僕のひたむきな決意と努力を、いったい君は何だと思っているんだ! 少しくらい、健気だ、いじらしい、と感じ入ってくれてもいいじゃないか。

 そうだ。
 そのためにまず、君は僕がなぜビアンカをこれほど愛しているのか知るべきだな。僕の記憶で最も古い思い出から話すことにしよう。
 あれは確か、僕が七歳か八歳の頃だった。

「クリス、ピートに謝って。ケガをさせてごめんね、って。ね?」
 ビアンカが僕の手を掴んで言った。これまで僕は謝罪を要求されたことなんてなかったので、一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
「ビー、僕は平気だよ。こんなの畑仕事を手伝っているとよくこしらえるからさ」
 富裕な葡萄農園の息子で僕と親しいピートは、少し困ったように眉を下げてビアンカに言った。
「ピート、それは葡萄の枝に引っ掛けて出来た傷じゃないわ。あなたは農家の息子、クリスは伯爵の息子。でもあなたはクリスの下僕や奴隷じゃないのよ。友達でしょう?」
 僕はハッとなった。ビアンカの灰色の瞳がまっすぐ僕を見上げていた。
「クリス、あなたは大きくなったらみんなの領主さまになるのよ。それにピートはあなたの友達よね? 友達には優しくしなきゃ。“善き領主たる者、民を慈しむ心をまず持つべし” ってお父様が言っていたわ」
 無茶をした僕をかばって肘をすりむいたピートと僕、それぞれの手を握り、ビアンカは促すように僕の顔をのぞきこんだ。怒るでも責めるでもなく――スープを食べるよう勧めるときもきっと同じ表情だろう――、見つめられるとおのずと従いたくなる澄んだ灰色の瞳が僕を捕えた。

 ビアンカのこの眼差しに抗うことは至難の業だ。
 彼女はいつだって――僕と違って――他人をいたわることができるのだから。

「ごめんよ、ピート。肘は痛いだろう。大丈夫かい?」
 ひとたび謝ってしまえば、意固地な気持ちはたちまち霧のように消えていった。
「平気だよ。クリス坊ちゃんは優しいな」
 ケガをしているにもかかわらず、ピートは僕を安心させようとそばかすだらけの顔を豪快に崩して笑った。仔犬のような犬歯が白くまぶしかった。
 幼心にも、彼の方が僕よりはるかに思いやり深い男だと認めざるを得なかった。すると今度は、僕の中で彼に対する感謝の気持ちが湧き上がった。
「ピート、僕をかばってくれてありがとう」
 このとき僕を嬉しそうに見つめるビアンカは、まさしく森に舞い降りた天使だった。
 彼の傷をすぐそばの泉の水で洗ってやり、なぜか必死に逃げようとする彼の肘にシルクのハンカチを巻いてやった。僕は自分が優しく思いやり深い男になれたようで誇らしくさえあった。

 ダンレイン城を抜け出し領民の子供たちと遊んでいると、昔から体格の良かった僕はしばしば力加減を誤り、彼らを痛めつけてしまうことがあった。
 しかし彼らは決して僕に文句を言っては来なかった。幼いながらに、自分たちの立場と僕の身分、僕らの間に厳然と横たわる差異を悟っていたのだろう。僕はそれがたまらなく悲しく、もどかしく、彼らから仲間はずれにされているようでひどく苛立った。だから幼稚な意地を張り、僕は決して彼らに謝ろうとしなかった。
 しかし、ビアンカはそんな僕を何の気負いもなくいさめた。まるで庭の花をむやみに切ってはいけません、と諭すように優しく、凛として。
 あのときビアンカがいてくれたおかげで、僕は素直に謝罪をする潔さを手に入れることができた。農地を耕しダンレイン伯爵領を支えてくれる素晴らしい友人を得、傲慢で物知らずで孤独な貴族のひとり息子にならずに済んだ。
 ビアンカは僕を色眼鏡で見たりしない。
 僕が将来受け継ぐ爵位に臆することもなく、財産にも無頓着で、僕をただの幼馴染みとして扱い、打算や掛け値なしで僕に笑いかけてくれたり、僕の間違いを叱ってくれたりする、たったひとりのかけがえのないひとなんだ。

 そして僕たちは故郷を出て、貴族の子女としての道を歩み始めることになった。
 僕が十七歳、ビアンカが十四歳のとき、僕たちはそれぞれ騎士、宮廷女官としてホワイト宮殿に出仕することになった。
 ときおり廊下や庭園ですれ違うたび、僕は彼女にうっとり見惚れずにはいられなかった。宮廷女官らしくつんと澄ました表情でドレスをまとった彼女は、故郷で山野を駆け回っていた女の子とは思えないほど美しく洗練されていた。
 ときおりホワイト宮殿の廊下や庭園ですれ違うとき、彼女はこっそり僕と目を合わせてきた。僕の目線を捕えると、彼女は灰色の瞳は悪戯好きな仔猫のように愛らしくきらめいた。そのたびに僕は、騎士の一団から離れて淑女たちの群れに突進し、ビアンカを抱き締め、その場で口づけを交わしたい欲望と激しく闘わねばならなかった。

「ビアンカ、僕はこの秋から近衛騎士として西の翼棟に入ることになったんだ。まずは君に伝えておかなければならないと思ってね」
 十八歳の夏、僕はとうとう近衛騎士の叙任を受けた。喜び勇む気持ちをひた隠して冷静な態度を装い、僕は真っ先にビアンカに報告した。
「まぁ! クリス、おめでとう! 本当に近衛騎士になれるのね、よかったわね。ということは、あなた、式典のときはあの深紅の近衛騎士の正装を着るの? なんてことかしら! あなたのその姿を見るのが今からすっごく楽しみよ!」
 廊下の陰で声を潜めながらも、ビアンカは満面の笑みを輝かせ、僕の手を握ってぶんぶん振った。僕が近衛騎士になることを知ったときも、彼女はこんなふうに気取ったところのない祝いの言葉をかけ、年頃の娘らしく無邪気にはしゃいだだけだった。
 ほかの貴族の娘たちのように「自ら栄えある近衛騎士に志願なさるとは、なんて素晴らしいお心栄えでしょう」なんて気取った表面だけの賛辞を送ってよこしたりせず、素直に、正直に、ありのままの気持ちを僕に与えてくれた。

 こんなひとは彼女しかいない。
 生まれたときからずっと一緒に過ごしてきた、かわいくてたまらない僕のお姫様。
 そう、僕は物心ついた頃から “我が家の隣の女の子” ――僕の母は昔から彼女をこう呼んで可愛がってきた――ビアンカに夢中だったんだ。

 もちろん、僕は自分の想いを何度も彼女に伝えようとした。
 けれど、ビアンカはなかなかそれを許してはくれなかった。



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