「愛している、と言われても困るわよね」
ホワイト宮殿の厩舎だかどこだったかはもう覚えていないけれど、他愛のない世間話の流れで、ビアンカは “つい先日あった奇妙な出来事” を僕に聞かせた。
「だから何? あなたは私と結婚したいの? するつもりがあるの? 我が家に正式に申し込みしてくださるの? って尋ねれば、それっきり私と目を合わせようともしないのよ。まったく、澄ました顔をして何を考えていたのやら。頭蓋骨を割って頭の中を覗き込んでやりたかったわ」
悔しそうでも残念がっている様子でもなかったけれど、その表情はその男への呆れと侮蔑がありありと浮かんでいた。
「憐れな男だ。みすみす君を妻に娶る絶好の機会を手放すなんて。心から同情するよ」
一端に宮廷の男らしくこじゃれた相槌を入れた僕がおかしかったのか、ビアンカは小さく吹き出し、リスのように顔をくしゃりとさせた。
森の枝を駆け回るリスより、はるかに愛らしく魅惑的な笑みだった。
しかしこのとき、僕は内心、怒りと不快感ではらわたが煮えくりかえっていた。
僕のビアンカに愛の言葉を捧げていいのは僕だけだ。
なのにどうして、どこの馬の骨とも知れない――この際、僕より爵位や地位が上であろうと血筋が貴かろうと関係ない――男が、あろうことか僕の愛しい人を情婦にしようと誘惑を仕掛けるなど言語道断、万死に値する罪だ。
とはいうものの、子供時代のように「その愚か者はどこの誰だ? 決闘を申し込んでやる! 君を侮辱した罪を必ず償わせる!」と喚き散らし、彼女を驚かせたり怯えさせたりしないよう自制できる程度の冷静さは残っていた。
「ビー、君はよくそういうことを言われるのかい?」
そこで僕はさりげなく彼女の身辺に探りを入れてみた。
「耳にタコができるほどしょっちゅう、ってわけじゃないわ。ここでは男が女に愛を囁くのは挨拶みたいなものだけど、私みたいな独身の小娘だと後々めんどうなことになりがちだから、殿方はみんな結婚しているご婦人方に言い寄っているわね」
宮廷社交界の恋愛遊戯に失望と軽蔑を色濃く滲ませ、ビアンカは淡々と答えた。
「ここでは “愛している” という言葉が、ものすごく薄っぺらく聞こえるわ」
ビアンカの睫毛が寂しげに震えた。
花々が美しく咲き誇っていると信じて花園に飛び込んだのに、目の前には醜く萎れ枯れ果てた残骸しか見当たらない、と言わんばかりに。
僕はたちまち不安に襲われた。
近衛騎士に叙任されて以来、いつ彼女に想いを伝えようかとそわそわし、密かに吟遊詩人の詩歌を盗み聞きしては告白の言葉をあれこれ考え、春の野で踊り出したいような夢見がちな気持ちは一瞬で消えた。
僕は思った――僕たちがホワイト宮殿に出仕している限り、僕がビアンカに「愛している」と伝えたところで、彼女は受け入れるどころか僕の言葉を信じてすらくれないんじゃないか?
その疑問はすぐさま確信に変わり、僕の胸の底に重石のように深く沈みこんだ。
なぜなら、僕も彼女と同じ不信感を抱いていたから。だから彼女の気持ちがよくわかったんだ。夫がいる身で僕を寝室に誘い込もうとする貴婦人たちを日々目の当たりにすれば、そのときの言葉――「愛している」――はいかにも軽く、薄汚く、地面に落ちた花弁のように吹けば飛んでゆくほど空疎に聞こえた。
そしてこのすぐ後、皇后陛下主催の謝肉祭の舞踏会で、僕はさらに追い打ちをかけられることになった。
暴風雨に抗えず逃げることもできないカカシのように、次から次へと押し寄せる貴婦人たちとの踊りをこなし、僕はようやくビアンカの元へ駆けつけることができた。ところが彼女は僕を含むワルツを踊る人々に背を向け、皇太子殿下の取次役とにこやかに歓談している最中だった。
ひどい女ったらしと評判のその男とやけに親しげな彼女が心配で――僕に無頓着なビアンカに構ってほしいという欲求に駆られたからでも、ましてやその取次役に嫉妬と対抗心の炎を燃やしていたからでもない。断じてそうじゃない――赤い旗に突進する闘牛のように彼女めがけて大股で近づいて行った。
と、そのとき、ちょうどビアンカの声が投擲の槍のようにまっすぐ僕に届いた。
「軽々しく “愛している” なんておっしゃる殿方、わたくし信用できませんわ」
ビアンカは取次役の男に微笑みもせずにそう言った。
自分に触れようと懸命に腕を伸ばす男を、高い塀の上から冷ややかに見下ろす猫のような眼差しだった。
くるりときびすを返し、僕は通りかかった給仕のトレイからワインのグラスをひったった。壁際で一気に飲み干した。しかし、干ばつでひび割れた田畑にジョウロで水をまくように、僕の喉はいくらワインを流し込んでもひりひりと渇いたままだった。まるで落ち着けそうになかった。すっかり血が上った頭は、今にも噴火しそうな火山のように、ショックと悲観と煩悶のマグマでぐるぐると渦を巻いていた。
焼けた石に水をかけてもすぐ乾上がってしまうように、ワインごときでは僕の渇望を潤すことなど到底できそうになかった。
黄金色のシャンデリアが燦然と輝くホワイト宮殿の大広間の片隅で、僕はひとり立ち尽くすしかなかった。
きらびやかな光の洪水、縦横無尽に揺れる色とりどりのドレス、四方八方からとめどなく溢れる笑い声、そのわずかな隙間にさざめく密やかな会話、鳴り止むことを知らないオーケストラの音楽、ゼンマイ仕掛けの人形のように踊り続ける人々。
ビアンカと僕から愛の言葉に対する信頼を奪ったものたちが視界いっぱいに僕に迫ってきて、僕の平常心や冷静さを容赦なく削ぎ落していった。
なんてことだ! 晴れて近衛騎士に叙任されたというのに、これではビアンカと愛し合うことができない。それ以前に、彼女に愛を伝えることができない。いや、伝えるだけならできる。しかし、そのとき彼女は僕のことをどう思うだろう?
考えるまでもない。
きっと僕はビアンカを愛人にしようと企んだ愚か者と同じ薄汚い男と見なされ、これまで築き上げてきた彼女との信頼と友情と絆を一瞬で失うことになる。そう思い至った瞬間、彼女と僕の間に透明で分厚い壁がたてられたような心地になった。
これほど近くで日々美しく成長するビーの鮮やかな姿を目にすることができるのに、僕は決して触れることができない。これは何の拷問だ! 僕は苦しみ悶えた。
僕が彼女の愛を手に入れること。それは、宮廷社交界に身を置く限り、空の虹に触れることと同じくらい困難なことに思えた。
結局僕は、彼女に自分の想いを打ち明けることができなかった。
勇気を奮い起こすことができなかった。不甲斐ない軟弱者だった。
その誹りは甘んじて受け入れる。
だからといって、それが僕が彼女やコンラッド家に仕出かした数々の卑劣な愚行の免罪符になることは、決してないのだけれど。
…… あぁ、わかっているさ。わかっているよ!
頼むからそんな哀れみつつ蔑むような目で僕を見ないでくれ。
この頃の僕は、一枚の金貨を誰にも見つからないようポケットの中に隠し、大事に大事に手のひらで温める乞食のようだった。
奪われることや失うことを恐れず、ほんの少し勇気を出しさえすれば、その金貨で満ちたりた幸福を手に入れることができたのに。
愚かな乞食は、なけなしの金貨を守ることに執心してばかりだった。
だから、愛しいビアンカだけでなく、幼い頃からずっと世話になってきたコンラッド男爵やコンラッド家の人々にまで、あんな卑劣な仕打ちができたんだ。
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