This Story Index | Novels | Home


第5話 例外


 結果から言うと、僕の企みは無事成功した。
 これまで両親に刃向かったり反抗するような真似をしたことがなかった僕だけに、彼らは僕の本気と執念を悟ったのか早々と僕の説得を諦めた。我が両親ながら彼らはあまりにも物分かりがよく、かえって不安になるほど呆気ない幕切れだった。
 何事にも筋を通さずにはいられない義理堅い父は「騙した上に婚約破棄ではあちらにも領民にも示しがつかない」と厳格な家長らしいことを言ったものの、ビアンカに対する不満は一言も口にしなかった。母に至っては「ビーが娘になってくれるなんて楽しみだわ」と僕を非難したことなどけろりと忘れ、僕よりも婚約披露舞踏会の下準備に張り切る始末だった。

 こうして僕が二十一歳、彼女が十八歳を迎えた晩春、僕らは正式に婚約を交わした。

「まさか私があなたと婚約することになるなんてね。いまだに信じられないわ」
 ビアンカは大した感慨もなさそうに僕にそう言った。
 “ダンレイン伯爵家からの婚約の申し込み” だから断れず、両親が了承した以上、彼女はそれを受け入れるしかなかったのだ。感動も歓喜もあるはずがなかった。
「そうかい? 僕たちなら明るく楽しい家庭を築けると思うよ。ほら、仲の良いマンダリン鴨のつがいのようにね」
 ビアンカから言外に無関心を突きつけられ、僕は落ち込まずにいられなかった。しかし、そんな気弱な素振りを見せて彼女に失望されたくはなかった。明朗闊達な皇太子殿下を意識し、僕はむりやり鷹揚な男ぶった返事をした。
「そうね。クリスなら、私は夫のことを “旦那様” なんて呼ばずに済むものね」
 日向でまどろむ猫のように、ビアンカはくつろいだ様子で顔をほころばせた。

 ビアンカが微笑んでくれるだけで、落ち込んだ気持ちがたちまち雨後の青空のように晴れやかな心地になった。我ながらずいぶんと簡単な男だ。
 僕と婚約したことで彼女が幸運と思えることが、たとえ夫に対する気楽さだけでも構わないじゃないか。彼女は僕の妻に、僕は彼女の夫になる。そうしたら僕は彼女に好きなだけ愛の言葉を捧げることができる。僕は自分で自分を励ました。
 このとき僕は、ビアンカとの婚約という目の前で美しく輝く現実にすっかり目がくらみ心奪われていた。なんとか検問をすり抜け新天地に到着したコソ泥が束の間の安堵にひたるように、幸福の絶頂にいた僕はそれまで自分が仕出かしたことを都合よく忘れていた。

 しかし、そんな僕の厚かましい酩酊は長くは続かなかった。
 時間が経過し婚約の興奮が鎮まってくると、僕は再び事実と向き合わねばならなくなった。大きな歓びと達成感の輝きに隅へ押しやられていた罪悪感が、沼に潜んでいた蛇のようにじわじわと再び姿を現し始めた。
 沼から顔を出した蛇が僕に言った。
「お前は善良なコンラッド家の人々を我欲のために欺いた。唾棄すべき卑劣な詐欺師だ。ビアンカや彼らが見返りを求めずお前に与えてくれた厚意と親切と友情を、お前は最も卑しい手段で裏切ったのだ。そしてビアンカの人生まで奪った。お前の独り善がりな行いのせいで、彼女の人生は狂わされ滅茶苦茶になった」

 僕は真綿で首を絞められるような日々を過ごしていた。
 正式に婚約を発表するまでの数日間、ホワイト宮殿でビアンカとすれ違い、彼女からこっそり微笑みを投げかけられるたび、喜びより苦しみの方が勝った。
 そのたびに、わずかに残っていた僕の理性的な部分が声を荒げた。
「今すぐビアンカやコンラッド家の人々に全てを打ち明けて謝るべきだ。お前は彼らに対して正直かつ誠実でありたいだろう?」
 しかしすぐさま利己的な部分が大声でそれを打ち消し、僕に耳打ちした。
「いや、だめだ。そんなことをすれば婚約破棄されかねない。まだ正式な発表はおろか、皇帝陛下に報告すらされていないんだ。万が一、コンラッド家が強く出れば、あちらに同情的で負い目を感じているお前の両親は彼らの意を汲んでしまいかねないぞ」

 そんなことは受け入れられなかった、絶対に。
 こうして秘密と嘘を抱えたまま、僕は皇帝陛下より祝辞を賜り、宮廷にビアンカとの婚約を発表し、公然と彼女と婚約者同士として振る舞う資格と権利を得た。
 しかし、この期に及んで、僕は不安だった。いつ自分の秘密と嘘が露呈し、ビアンカが僕を見限るかと怯えていた。そこで僕は逆説的に考えることにした。

 それなら、ビアンカが僕以外の男と結婚できないようにすればいい。

 幼い頃から、僕は息を吸うようにビアンカと口づけをしていた。ダンレイン城の中庭、厩の裏、かくれんぼの最中の茂みの中、田畑に積まれた干し草の上で。
 子供が甘いマカロンを愛するのと同じ気持ちで、僕たちは互いの唇を重ねていた。
 当初、僕は今のようにビアンカに抑えがたい欲望を抱いてなどいなかったし、その行為はただ親密と友愛の証明でしかなかった。
「クリス、私たち、もうこういうことをしちゃいけないと思うの」
 僕が十三歳、ビアンカが十歳の頃のあるとき、いつものように森の木陰で彼女のやわらかい唇を堪能しようと顔を近づけたところ、彼女の両手によって阻まれてしまった。
「どうして?」
「私、結婚できなくなっちゃうもの。だからもうやめましょう」
 ビアンカは不安を訴え、僕に懇願した。
「大丈夫だよ。ビーは僕の妻になればいい」
 ずっと幼い頃に交わした口約束を盾に僕はビーに迫った。
「だめよ。私じゃクリスと結婚できない。クリスはダンレイン伯爵家と同じくらい偉い貴族の娘と結婚しなきゃいけないのよ」
 やけに大人びた口調でビアンカが言った。悲しんでいるというより、面倒事を回避するために苦心している、というような苦笑いを浮かべて。
 物心ついた頃から、僕は将来、彼女と結婚するものだと信じ込んでいた。しかし彼女はそうではなかった。手酷い裏切りだと感じた。それが僕の短気を突き動かした。
「そうだね。ビーの言うとおりだ。男爵家の君と伯爵家の僕では結婚するのは難しいね。君の名誉のために、もう君にはキスしないと約束するよ」
 ハッと我に返った。彼女の身分を見下すことを口にしてしてしまった。ビアンカは寂しげに睫毛を伏せた。僕の中にたちまち後悔が広がった。
「よかった。じゃあ、約束ね」
 焦るばかりで弁解のひとつも言えない僕に、ビアンカは仔猫のように生意気そうな笑み――強がっているときによく見せる表情だ――を浮かべた。
 こうなったらもう、僕は彼女の要求をそっくりそのまま受け入れるしかなかった。このときから、僕たちが唇と唇で友情と親愛を確認し合う習慣は途絶えた。

 ビアンカは当然のことを言ったまでだ。
 男と違って、女は結婚前に異性と戯れることは許されない。あくまで噂の域であっても、火のないところに煙は立たない、と疑惑の目を向けられる。するとたちまち名誉に傷がつき、悪い評判が広まり、ふしだらな女の烙印を押される。そうなると、名家の令嬢か大きな財力を持つ家の娘でもない限り、結婚相手を見つけるのが困難になる。
 ビアンカはそのどちらでもない。そして貴族の娘は早ければ十四、五歳で結婚する。だからなおさら、たった十歳を越えたばかりにもかかわらず、彼女は慎重にならざるを得なかったのだろう。

 しかし、相手がすでに結婚を約束した男なら話は別だ。
 結婚前の若い娘が、ベッドの上で布切れひとつ身に着けず、同じ格好をした男と足や腕を絡め合っていたとしても、それが彼女の婚約者なら大した問題にはならない。
 決して褒められる振る舞いではない。しかし珍しいことでもない。相手が周知の婚約者なら、結婚前に愛を確かめ合う行為に走ったとしても、よほど厳格な修道士でもない限り、堪え性のない者たちだと苦笑して目をつぶってもらえるものだ。
 そしてそのことを周囲に知られれば、その娘は、例えその婚約者がどんな卑怯で卑劣な男であろうと、彼と結婚せざるをえなくなる。

 ビアンカと僕だけがその例外になる、ということはないだろう?

 僕は案外、宮廷向きの性格なのかもしれない。我欲を満たすためなら、家族や恩人のみならず、愛する人にさえ策を講じることを躊躇しないのだから。

 こうして、僕の不誠実はいよいよ救いの余地を失っていった。



This Story Index | Novels | Home


Copyright © 雨音 All Rights Reserved.

inserted by FC2 system