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第6話 肩書き


 ビアンカとの婚約からほどなくたった六月。
 首都にあるケアリー家の屋敷で、僕たちの婚約披露舞踏会が執り行われた。婚約披露舞踏会には国中の名だたる貴族が招待され、その豪勢かつものものしい顔ぶれはビアンカを驚かせ、僕をうんざりさせた。
「なんて豪華絢爛な顔ぶれかしら。眩しくて目がくらんでしまいそう」
 ビアンカが無邪気におどけて僕に耳打ちした。
 たしかにこの日の我が家の大広間は、大粒の極上の宝石たちが溢れんばかりに詰め込まれた巨大な宝石箱のようだった――もっとも、今も昔も、僕は宝石にはほとんどまったく興味がないけれど。

「婚約者どの、この後、僕ら二人だけであらためて祝宴を挙げないか? こんな仰々しい場では、ワインの味も楽しめたものではないからね」
 絶え間ない挨拶、親しげな笑顔とその真下に隠された品定めの眼差し。そのほんのわずかな隙をついて僕はビアンカに囁いた。華やかでありながら愛らしい淡いバラ色のドレスをまとった彼女を今すぐ自分のものにしたい、という親しみ慣れた強い欲望と闘いながら。
「まぁ、ケアリー子爵」
 わざとお上品ぶった口調で、ビアンカは芝居がかった驚きの表情を浮かべた。灰色の瞳を猫のように細め、幼馴染みらしい屈託のない笑顔を光らせた。
「私も同じことを考えていたのよ、クリス。奇遇ね」

 この日、コンラッド男爵夫妻や彼らの息子たち、もちろんビアンカも賓客としてケアリー家の屋敷に泊まることになっていた。舞踏会が跳ねて自室に戻ると、僕はすぐ居ても立ってもいられなくなった。ワインを用意させたり、寝巻にガウンをはおった姿で部屋の中をうろうろ歩き回ったり、欲望を鎮めようとある高名な聖職者の著作を開いたりした。たまたま開いたページのある一節が、僕の目に飛び込んできた。
 “人生はしばしば、善よりむしろ悪の選択をわれわれに提供する”

 と、そのとき、ビアンカと僕だけの秘密のノックが聞こえた。
 約束どおり、彼女はこっそり寝室を抜け出して僕の部屋までやってきた。
 洗いざらしの濃い茶色の髪を肩に下ろし、ネグリジェにガウンをはおっただけの、生まれたばかりの仔猫のように無防備な姿で。

「待ちくたびれたよ、ビー。誰にも見つからなかった?」
 ドアを開けて彼女を迎え入れながら僕はさりげなく聞いた。誰でもいいから彼女が僕の部屋に入って行くのを目撃していますように、と願って。
「多分ね。でもここはケアリー家の屋敷ですもの。私がひとりで廊下を出歩いていたって誰も気にしないわよ」
 無邪気なビアンカが僕の脇をすり抜けた瞬間、湿ったバラのような甘くいい匂いが鼻先をくすぐった。 たちまち僕は、ビアンカに触れたい――あらゆる場所を――という思いで頭がいっぱいになった。
「ほら、そんなところに突っ立ってないで、こっちにいらっしゃい」
 すでに部屋の長椅子に腰かけ、まるで自分の部屋に僕を招いたかのような調子で、ビアンカは自分の隣に座るよう僕を手招きした。
「かわいい奥様、仰せのとおりにいたします」
 彼女に飛びつきたい気持ちを懸命にこらえながら、僕はゆっくり長椅子に近づいた。
「未来の旦那様、わたくしたちはまだ結婚しておりませんわよ」
 幼馴染みに婚約者という肩書きが加わっても、ビアンカの生意気な物言いに慎み深さが加わることはなかった。そのことが僕をたまらなく喜ばせたのだから、僕は男として特殊な嗜好の持ち主なのかもしれない。

「ねぇ、私たち本当に婚約したのよね」
 デキャンタからころんとした脚のないグラスに何杯目かのワインを注ぎながら、すでにほろ酔い加減のビアンカがつぶやいた。「いまだに信じられないわ。まるで夢を見ているみたい」
「夢じゃないよ、ビー」
 より暗示を強力にしようと呪文を唱える魔術師のように僕は言った。「君は僕と結婚するんだ。君はケアリー子爵夫人に、何年か後にはダンレイン伯爵夫人になるんだ」
「そうなのよね。だからこそますます信じられないわ」
  グラスをテーブルに置き、ビアンカが僕の肩に頭をもたせかけた。
 僕の心臓が大きな音を立てて鼓動した。あまりに大きな音だったから、左肩にもたれかかっているビアンカに気付かれないかと気が気ではなかった。
「どうして? その肩書きを欲しがる女性は少なくないと聞くよ?」
 僕の苗字、僕が受け継ぐ爵位や財産、僕の一族との姻戚による恩恵。それらを求め愛してやまない女たちはホワイト宮殿にわんさかいた。鬱陶しい雌狐たち。
「そうね。その肩書きを不要だとはねつける女は、そういないでしょうね」
「君はあまり価値を見出していないようだね」
「あら、そんなことないわよ。ただちょっと荷が重いと感じているだけ」
 ビアンカが小さく溜め息をつき、やわらかく微笑むのが見えた。
「肩書きなんて――クリスの妻――それだけで充分よ」

 こめかみで熱が弾けた。

「クリス?」ビアンカが不思議そうに顔を上げた。
「何も言わないで」僕の声はひどくかすれていた。
「でも――」僕を見つめるビアンカの表情に困惑と怯えが見えた。
「黙って」
 荒々しく言うと僕はビアンカを抱き寄せた。彼女のやわらかな乳房が僕の硬い胸に押しつけられた。彼女の首筋に鼻先を埋めると甘い匂いにくらくらした。
 僕の腕の中に捕えられた彼女は、なめらかなミルク色の頬を紅潮させ、罪悪感を覚えるほどいたいけだった。しかし、僕を見上げる灰色の瞳は子供のそれではなかった。男の欲望に戸惑いながらも、嫌悪したり怖気づいたりはしていなかった。無知でも幼稚でもない、若くとも大人の女の眼差しだった。僕は分かった。
 ビアンカも僕を欲しがっている。

 彼女の唇はやわらかくて熱かった。摘みたてのサクランボのように甘く美味しくて、僕は無我夢中で貪った。欲望は強烈で生々しく、身を焦がすようだった。
 ビアンカは大胆だった――日常的に口づけを交わしていた頃よりずっと。僕の口付けに反応し、驚嘆しながら唇を動かし、探るように僕と舌を絡めた。ねこじゃらしと戯れる仔猫のように好奇心旺盛で、男を喜ばせる女らしい媚態に満ちていた。
 僕らはすぐにまっすぐ座っていられなくなり、クッションに倒れ込んだ。僕はビアンカにのしかかった。
「ビアンカ、君が欲しいんだ――欲しくてたまらない」
 彼女の小さくやわらかい耳たぶを優しく噛みながら、吐息をふきかけるようにささやいた。ビアンカはくすぐったそうに首をすくめた。
「ほら、わかるだろう?」
 ビアンカの膝を割り、硬くなった自分自身を彼女の下腹部にぐいぐい押しつけた。痛いほどの高まりを彼女に思い知らせたかった。ネグリジェの薄いシルク越しに僕を感じ取り、ビアンカは怯えるようにぎゅっと目をつむった。
 剥き出しの欲望は鋭く研ぎ澄まされ、求めても求めても満足できそうになかった。彼女のすべてが欲しかった。ありとあらゆる方法で欲しかった。彼女を貪り尽くしたかった。愛おしみ、味わい、賛美したかった。
 熱情で膨らんだ自分自身をビアンカの中に沈め、彼女と溶け合いたかった。

「クリス、だめよ…… 私たち、まだ結婚していないのよ……」
 唇が離れたわずかな隙に、息も絶え絶えのビアンカが弱々しく僕に抗議した。僕は両の手のひらに感じる彼女の乳房のやわらかさにうっとりしながら、ビアンカの顔を真上からのぞきこんだ。
「いずれ結婚するじゃないか」なだめるように僕は言った。
「でも今はまだしていないわ」潤んだ灰色の瞳が僕を非難していた。
「そうだね」
「こんなことをしたら…… わたし……」ビアンカは不安げに睫毛を震わせた。

 こんなことをしたら、君は僕以外の男と結婚できなくなる。
 それの何がいけないんだ?

「君を抱きたい」
 そうしたら僕は地獄に堕ちるだろう。でもその前に束の間の天国を味わえるはずだ。自分で御しきれないほど強烈に、熱く、執拗に彼女を求めていた。欲望を越えていた。
「今すぐ君を抱きたいんだ、ビー」
 長椅子から降りるとビアンカを抱き上げ、そのまま寝室に向かった。彼女は身じろぎもせず、抗いもしなかった。彼女のぬくもりと匂いはうっとりするほど心地よかった。
「クリス、私、どうしたらいいの?」
 助けを求めるように僕のガウンを握り締め、ビアンカがささやいた。
「僕から離れないで」
 ずっと、いつまでも、僕のそばにいて。

 ビアンカの額、瞼、鼻筋、頬、唇の順に唇を這わせながら、優しく、彼女をベッドに横たえた。彼女は僕のガウンから手を離そうとせず、そのいたいけな仕草がますます僕を煽ることも理解できていないようだった。
 僕はビアンカの身体の上に覆いかぶさり、彼女のガウンのひもをほどき、ネグリジェをどんどんめくりあげた。やわらかい生成り色の布を頭から抜き取ると、しなやかな曲線で形作られた肉体とまばゆい肌が現れた。
「ビー、きれいだ…… すごくきれいだよ」
 両手で、唇で、舌で、彼女の身体のあらゆるところを撫で、掴み、揉み、吸い、舐めた。その間、ビアンカは僕の手に自分の手を重ねたり、髪をつかんでひっぱったり、僕の頭をなでたりした。男と女の結びつきにおいて、在りえる全ての方法で彼女を僕のものにしたくてたまらなくなっていた。
 きっとこのとき、僕は獣のような眼をしていたことだろう。女が男に対して最も恐怖心を覚える猛々しい表情でビアンカを見ていたはずだ。でも、彼女はそんな僕から視線を逸らしたり、身体を隠そうとしたりはしなかった。
「怖くないの?」
 僕はビアンカに問いかけた。
「…… 怖いに決まってるでしょ」
 いつも悪戯好きで生意気な仔猫のように僕を見上げる灰色の瞳が、突然の驟雨に打たれたように濡れていた。
「でも、いいの」
 僕は凍りついたように動けなくなった。彼女の身体から手を離し、固く握り締めた。この期に及んで、彼女を傷つけまいか、痛めつけてしまわないかと怖くなった。アレックスのような手慣れた手練ならそんな心配は無用だった。ところが僕は、二十一歳にもなっていまだ女を知らない青二才で、あろうことかこの瞬間までその事実をすっかり失念していた。
「クリス、お願い。もっと触って」ビアンカがささやいた。
「君を傷つけたくないんだ」今さらのように、僕はくぐもった声をこぼした。
「大丈夫。私は大丈夫よ」
 身体を起こし、ビアンカが両手で僕の頬を撫でた。僕が彼女にしたように、僕の額、瞼、鼻筋、頬、唇を、彼女のやわらかな唇がおずおずとたどっていった。それから握り締めた拳をほどくようになでさすり、僕の頭を優しく胸に抱き寄せた。思わず彼女の背中に両腕を回した。温かな肌、やわらかな胸、なだらかな背中、華奢な腕、心地よく甘い匂い。
「クリス、ね? お願い」
 熱っぽく濡れた灰色の瞳が、優しく、ぎこちなく、僕に微笑みかけた。その健気で情熱的な懇願に、僕の躊躇はあとかたもなく打ち砕かれた。
 ビアンカを力の限りに抱き締めて激しく口づけしながら、僕は飢えた獣のように彼女をベッドに押し倒した。



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