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第8話 自信


 品行方正な婚約者同士とは言い難いビアンカと僕の関係は、ホワイト宮殿でもすぐさま完全な秘密ではなくなった。

 当初、ビアンカは僕との情事を周囲に知られないよう苦慮していたけれど、僕がそうした隠ぺい工作の一切に非協力的だったため、彼女は自分が純潔な女であると振る舞うことを早々に諦めざるを得なかった。
 公然の秘密はビアンカに羞恥の溜め息をつかせ、僕をこのうえなく満足させた。ホワイト宮殿では皇太子殿下から洗濯場の召し使いまで、ほぼすべての人間がビアンカがすでに何度も僕に抱かれていることを知っていた。
 これならもう彼女は僕としか結婚できないだろう?

 それでも僕は満足できなかった。彼女の態度や言動は婚約前と少しも変わらず、僕は彼女の気持ちを確認する術もなく、つねに濃い朝もやに視界を遮られているように不安をくすぶらせていた。
 だから、あれほど無思慮で自分本位な振る舞いができたのだろう。

「あぁ、ベルフォレスト公妃は今日も美しいな」
 僕はことあるごとにビアンカの目の前で、彼女が侍女として仕えるベルフォレスト公妃の美しさを称えた。この日、ホワイト宮殿で催された舞踏会でもそうだった。
 ベルフォレスト公妃は皇太子殿下の愛人だ。いかにも北方出身らしい絶世の美女で、ホワイト宮殿の男たちは皇太子殿下を筆頭に、彼女の優美な麗しさと男勝りでありながらあだめいた魅力にすっかり夢中になっていた。
 といっても、僕にとって、彼女はホワイト宮殿に描かれた女神の壁画と同じだった。素晴らしさに感嘆することはあっても、それを自分のものにしたいと考えたことはなかった。卑劣な真似をしてでも手に入れたいと恋焦がれたり、荒々しい情熱に突き動かされたりはしなかった。たとえ彼女が皇太子殿下の愛人という立場にいなかったとしても、僕は同じ感想を抱いただろう。

 そんな彼女をビアンカの前で称えていた理由は、これだ。
 ひな鳥のような小さな溜め息、そのすぐあとにわずかに引き結ばれる唇。雨の雫が一滴したたり落ちたときの松の葉のように、かすかに、ほんのかすかに震える睫毛。
 僕がベルフォレスト公妃に見惚れた振りをするたび、ビアンカの取り澄ました表情に、レースのベールのようにうっすらとやきもちと哀しみの色が乗る。
 このときのビアンカの横顔を盗み見るのは、罪悪感と満足感がない交ぜとなって噴き出すような嗜虐的な一瞬だった。彼女がかわいくて愛しくてたまらない瞬間。臆病な僕が彼女の気持ちを推し量れるほぼ唯一の手段。
 とはいうものの、僕だってこんなふうにビアンカに嫌な思いをさせてはいけない、彼女を喜ばせたい、と人並みに考えてはいたんだ。
「今日のビーはとても綺麗だ」
 だから、ワルツを踊りながらビアンカの耳元でささやいた。
 この日、ホワイト宮殿で催された舞踏会で、若草色のドレスをまとったビアンカは初夏の天使のごとき美しさだった。あまりに愛らしいので僕は彼女をなかなか直視できなかった。そんなことをすれば、ただちに彼女を大広間の長椅子に押し倒しかねなかった。このつまらない一言を口に出すのも心臓が破裂しそうなほど興奮していた。
「そう。ありがとう、クリス」
 しかし、彼女は物珍しい鳥の鳴き声を耳にしたかのようにきょとんと僕を見上げ、いつもどおりの余裕しゃくしゃくの笑顔で感謝の言葉を返しただけだった。
 この程度の味気ない賛辞しか贈ることができない僕だ。これで満足しなければ。内心の落胆を悟られないよう、僕は必死に自分自身を慰めた。

「ビー、君に触れたくてうずうずしていたんだ」
 逸る気持ちを抑えられずビアンカをドアに押し付け、彼女の首筋に鼻先をうずめながら僕はささやいた。
 舞踏会の夜、僕は近衛騎士ではなく、招待客のケアリー子爵、皇太子殿下の友人のひとりとして客室を与えられることになっていた。頻度としては週に一回か二回。そういう日は、僕は朝から密かに興奮して、日が高いうちから欲望をたぎらせていた。
 深夜、客室の召使い用扉の向こう側から、僕たち2人だけの秘密のノックが聞こえた。ドアの前で待ち構えていた僕はすぐさまドアを開け、滑り込むように入ってきたビアンカを抱き寄せた。でも、彼女はくすぐったそうに忍び笑いを漏らし、手のかかる子供をあやすように僕の頭をなで、余裕しゃくしゃくでこんな挨拶をするんだ。
「あら、そうだったの。私もよ、クリス。奇遇ね」
 僕の部屋で二人きりになっても、ビアンカは他の女に目移りして見せた僕を責めたり詰ったりしなかった。あの一瞬をのぞいて、かけらほども嫉妬らしい感情を見せたことはなかった。相変わらず素っ気なく、ちょっと意地悪そうな笑顔がたまらなく魅惑的な幼馴染みのままだった。

 まぁ、それでも僕の誘いにはいつでも応じるてくれるし、彼女も内心はまんざらでもないはずだ、と僕はまずまず満たされていた。ほかの女と比較できないからよくわからないけど、ベッドの中で彼女はひどく無邪気で果敢で、服を着ているとき以上に好奇心旺盛だ。僕にとって、凶悪なほど甘く美味しいご馳走なんだ。
 婚約から一年――本来なら結婚しているはずだったんだけど、母方の祖父が急逝し、喪に服すため僕らの結婚は延期されていた――気弱な僕も、なんとかビアンカの婚約者として自信らしきものを身に着けつつあった。

 しかし、自信というものは存外脆弱だ。

 皇太子殿下とベルフォレスト公妃の遠乗りに付き従ったあの日のことは、出来ることならなかったことにしたい。二度と思い出したくもない。
 アレックスが馬の歩調をゆるめた時点で嫌な予感がしていた。あいつはビアンカの前では人当たりのよい気さくな男を装っていたけれど、その表情と本音が同じだと安堵するほどほど僕は間抜けではなかったし、この厄介な友人に対して無知でもなかった。
 案の定、アレックスは列の後方にいたビアンカにちょっかいをかけ始めた。お得意の洒脱な話術で、まるで彼女と恋人同士のような際どいやりとりをして、僕の嫉妬と苛立ちをおおいに駆り立ててくれた。
 しかも、彼らの会話を聞き取っていたのは僕だけではなかった。

「ケアリー子爵、君の婚約者どのは最近とくに評判がいいらしいね。確かに、あの様子なら納得がいく」
 僕の隣で手綱を繰っていたアンドーヴァー公が、興味津々な様子で僕に言った。馬上から身を乗り出し、親しげな笑顔を輝かせて声を潜めた。「クリス、君は相変わらず運に恵まれた男だ。彼女は実に魅力的な貴婦人だね」
「あぁ、そうだろう。彼女は素晴らしい貴婦人だ。そうだとも」
 身分や状況を無視した私的な言葉遣いを省みず、僕は早口でそう応えた。
「彼女はこの一年で別人のように見違えた。とても洗練され優雅になった。それに艶が増したようにも思う。あぁ、ケアリー子爵、安心したまえ。私はその理由を君に問いかけるほど無粋な男ではないつもりだ」
 アンドーヴァー公がしたり顔で言うと、周囲の廷臣たちや僕の横にいたノーサンバーランド公爵家の娘アデレード――父が僕と婚約させようと企んでいたひとだ――までもが忍び笑いをこぼした。

 しかし、僕はそれどころではなかった。血の気が引いていた。
 アンドーヴァー公エディは、僕の親しい友人で皇帝陛下の庶子のひとりだ。温厚篤実で人品ともに非常に優れ、父親の愛人たちが産んだ庶子たちを臣下としてしか扱わない皇太子殿下が、唯一弟として可愛がっている特別な存在だ。
 そんな男がビアンカに興味を持ってしまった。

 まずい。これは非常にまずい。
 もしアレックスのみならずエディまでビアンカに近づき、彼女が彼らに惹かれてしまったら? 間違いなく僕は彼女に見限られるだろう。彼らと僕なら、明らかにエディのほうが人間として格が上だし、アレックスのほうが男としての魅力に勝っている。
 だがしかし、ダメだ! 絶対にダメだ! そんなことは絶対にあってはならない!

 焦燥感が僕を愚行に走らせた――またしても。

 遠乗りからホワイト宮殿に戻ると、僕は人目もはばからずビアンカを西の翼棟の空き部屋に連れ込んだ。話をしたかっただけなんだ。言い訳がましく聞こえるだろうけど、ただ彼女と二人きりで話をして落ち着きたかっただけなんだ。
 でも、いざいつもどおりのビアンカを目の前にすると頭に血がのぼった。
 僕はこれほど嫉妬で苦しんでいるのに、どうしてこのひとはこうも平然としているんだ、と。
「何が “若葉薫る五月の妖精” だ、馬鹿馬鹿しい」
 アレックスと楽しげにおしゃべりをしていた彼女を、まるで不義を働いた妻を断罪するように責めた。止められなかった。あぁ、何年かぶりにビアンカと派手な大ゲンカをすることになるな、と頭の片隅で嘆いていた。
「そうね。馬鹿みたいね」
 ところが、生意気な反論をぶつけてくるという僕の予想に反して、ビアンカは静かに僕の言葉を肯定した。
「でも、馬鹿馬鹿しい振る舞いをしたのはあなたもよ、クリス。いつもいつも、私の目の前でベルフォレスト公妃に見惚れて、彼女を称賛するばかり。私のことなんてちっとも見てくれない。私が格下の男爵家の娘だから、幼馴染みで気安い女だから、何を言っても、何をしても平気だと思っているんでしょ」
「ビー、何を言ってるんだ」
 ビアンカの感情のない顔と淡々とした声に僕は激しくうろたえた。
「確かにそのとおりよね。でも私からはこの婚約をどうにもできない。今となっては破棄することもできやしないのよ」
 彼女らしくない荒んだ笑みに呼吸が止まりそうになった。
「ビー、まさか君は僕との婚約を破棄するつもりなのか!?」
「できるものならそうするべきなんでしょうね」
 ビアンカは僕との婚約解消を望んでいる。その現実に僕はすっかり動転させられた。彼女を手放すことなどできない。そんなことは耐えられない。部屋から出ていこうとする彼女を説得しようと彼女の腕を掴んだ、そのときだった。
「ビー、待ってくれ! 僕は……」
「触らないで!」
 ビアンカが叫んだ。彼女の灰色の瞳は深く傷つき、ずっと冷たい雨に打たれてこごえきった仔猫のように寂しげに濡れていた。
 彼女が飛び出して行ったドアを見つめながら、僕はその場に立ち竦んだ。
 衝撃と自責と罪悪感のあまり、指先さえ動かせなくなった。

 今ならわかる。
 正直に在るべきだった。ビアンカの心を試すなど、最もしてはならないことだった。彼女からどう思われるのかではなく、僕が彼女をどう思っているのか、ありのままの気持ちを彼女に伝えるべきだった。
 洗練された洒脱な賛辞でなくてもいい。稚拙で不器用な言葉でもいい。いつでも真心を込めて、ビアンカだけを「美しい」と称賛するべきだった。
 あの舞踏会でもそうするべきだった。ビアンカと二人で参加できてとても嬉しい、と彼女に伝えるべきだった。彼女の全てがあまりに愛らしいから、うっとり見惚れるあまり正気を保つので精一杯だ、と言うべきだった。

 ビアンカに打ち明けなければ。正直に全てを話し、懺悔し、許しを乞わねば。
 僕は彼女に手紙を書いた。これまでの愚かで幼稚な振る舞いを詫び、この婚約の経緯について話さなければならないことがあると告げ、これからは彼女に正直に誠実で在ると誓った。それから、幼い頃からずっと彼女をいかに愛しているか、心のままに素直にしたためた。
 彼女からの返事が届くまで、なけなしの勇気を振り絞って毎日手紙を送った。

 しかし、十日間、彼女からの返事は一通も届かなかった。



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