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第9話 朴念仁


 毎晩、毎晩、ビアンカからの返事が届くのを待った。
 しかし、ホワイト宮殿の西の翼棟の僕の部屋に届けられるのは舞踏会や晩餐会の招待状、顔も覚えていない既婚女性たちからの鬱陶しいラブレターばかり。手紙を仕分けた後、失意や孤独に押しつぶされてベッドの中にもぐりこむと、独り寝の侘しさがことのほか身にしみた。

 あれこれと言葉を尽くして手紙をしたためても、ビアンカは返事を寄こしてくれない。音沙汰ひとつない。そんな夜を十日も過ごせば、僕の罪悪感は居直りへと姿を変え、焦燥感は身勝手な怒りに変質した。
 僕は馬鹿な振る舞いをしてビアンカを傷つけた。でも今はその過ちを悟り、悔い、こうして彼女に許しを乞おうと誠心誠意尽くしている。それにもかかわらず、ビアンカはどうして僕を無視するんだ。許すにしても許さないにしても、一言くらい返事をくれてもいいじゃないか。
 そうだろう?
 僕はこれでも、彼女の婚約者なんだ。

 十一日目の朝、僕は怒りをたぎらせてホワイト宮殿の庭にいた。
 皇太子殿下が泊まりがけで狩りに出掛けるので、それにともない僕も皇室の狩猟場の森があるリーゼル城への同行を仰せつかったからだ。
 遠乗りや狩りで馬を駆ることは好きなのでこうした誘いはいつでも歓迎だが、今回はとくに願ったり叶ったりだった。ベルフォレスト公妃も皇太子殿下に付き従うので、その彼女に仕えるビアンカも必然的にこの狩りに同行する。彼女と仲直りする絶好の機会だ。これ以上、彼女に僕を無視させるわけにはいかない。

 厩舎から引き出され馬たちの足下を、興奮した猟犬たちがやかましく吠えながら駆け回っていた。従僕たちは猟犬たちが貴婦人たちや侍女たちの方に向かわないよう目を光らせていた。しかし彼女たちは彼らがそうすることを当然だと思っているようだ。少しでも身分の高い貴公子の目に留ろうと懸命だった。アレックスや僕に期待のこもった眼差しを送ることに余念がなく、自分たちの安全のために労をはたいてくれる者たちのことなど気にもかけず、その場から動こうとしない。
 ビアンカなら、従僕たちに余計な仕事をさせまいと壁際に引くだろうに。

 その予想どおり、ビアンカは彼女の葦毛の馬と一緒に壁の近くにいた。仲の良い同僚のミス・アロースミスは一緒におらず、ビアンカは彼女の姿を探しているのか、きょろきょろと辺りを見回していた。
 彼女に気付かれないよう、そっと背後から彼女に近づいた。十日ぶりに間近で見る彼女にたまらない気持ちになり、僕は彼女の腰に思わず手を回した。 彼女はびくりと驚いて振り向いた。
「ビアンカ、僕だよ」
 僕を認めると、鎧戸を下ろすようにビアンカはばちんと目をつむった。とっさの拒絶に傷つかずにはいられなかった。しかし、あと少しで僕の腕の中にすっぽり収まり密着するほど近くに彼女がいた。彼女の匂いに胸が高鳴った。
「ビー、僕の手紙を読んでくれたかい?」
「お願いだから離れてちょうだい」
 愛しい女からの冷たい命令。それを受け入れなければならない苦しみ。
 僕が半歩下がると、ビアンカはあからさまにほっとした表情になった。
「ビー、僕たちはきちんと話をするべきだよ。僕は君にどうしても言わなければならないことがあるんだ」
 そんな彼女に心が折れそうになったけれど、僕は果敢に彼女に立ち向かった。
「馬に乗りますので下がっていただけますか、ケアリー卿」
 しかし、ビアンカはいつも以上に素っ気なかった。冷酷といってもいいほどだった。まるで僕の言葉など何ひとつ聞こえない、聞きたくない、といわんばかりに。
「どうぞ私の手におつかまりください、ミス・コンラッド」
 僕にも意地があった。宮廷の人間しかいないこの場では彼女が断れないことを承知で、 僕は彼女に手を差し出した。

 手袋越しにビアンカの手が重なっただけで怒りは溶けて消えた。
 ただ胸を締め付ける切なさと愛しさばかりが溢れた。
 鞍に乗った彼女を引きずり降ろし、抱き締めて口づけをしたくてたまらなかった。

 ビアンカが鞍頭に脚を掛けると、僕は彼女のドレスの裾を引っぱり、彼女の小さな足首をそっと包み込んだ。彼女は居心地の悪そうな表情で僕を見下ろした。怖気づく心を鼓舞して、僕は意を決して問いかけた。
「手紙のことだけれど……」
「読んでおりません」
 馬上から降ってきたのは、雹のように冷たく硬い言葉だった。

 ビアンカは僕を見てくれなかった。
 言葉を話せない犬が懸命に想いを伝えようと主の足元に鼻先を押しつけるように、僕が彼女の足首に力を込め、その痛みと不快感を示すためにようやく僕を見下ろすまで。ビアンカの視線が、気まずげに、居心地悪そうに僕の顔の周りをさまよった。

 認めざるを得なかった。
 生意気でちょっと意地悪で、でも親密とぬくもりのこもった眼差しが僕に向けられることは、もうない。僕がビアンカの心を傷つけてしまったから。共に過ごしてきた時間の長さと婚約者という関係に甘え、僕は彼女を蔑ろにした。これはその代償だ。

 皇太子殿下の愛馬がいなないた。彼はすでに鞍に深く腰を下ろしており、まだ騎乗していなかった者たちが大慌てで我先にと鞍にまたがった。
 動きたくなかった。たとえ嫌われていても、目を逸らされても、ビアンカのそばから離れたくなかった。
 しかし、僕は帝国臣民であり貴族であり近衛騎士だ。皇太子殿下をお待たせするわけにはいかない。
「僕も行かなければ。それじゃあ」
 自分の声にこれほど名残を惜しむ未練がましさがこもらなければいいのにと思った。
 愛馬まで一直線に突進し騎乗した。振り返る勇気はなかった。
 僕がいなくなって安堵しているビアンカも、僕以外の誰かに微笑んでいるビアンカも、どちらも見たくなかった。

 鹿毛の馬にまたがると、列の隙間を縫って皇太子殿下の斜め後ろに控えた。
「ケアリー、そなたの不忠は最近目に余る」
 皇太子殿下が愉快そうに僕に言った。「余の元に参じるより、婚約者の脚をなでることに重きを置いているのだからな」
 やはり知謀の闘将でもある殿下の目を誤魔化すことは出来なかったようだ。
「殿下、ケアリー子爵は婚約者への情熱と奉仕の精神が人より突出している点を除けば、正真正銘、誉れ高き帝国騎士のひとりと言えましょう」
 すかさずアレックスが殿下の揶揄を継いだ。
「ケアリー子爵、私は貴殿のことをうらやましいと思っているよ」
 対応に困って僕が押し黙ったとでも思ったのだろう、温厚なアンドーヴァー公が僕に助け舟を出した。「あのように仲睦まじい婚約者はなかなかに得難いものだ。それが古くから互いを知る、親密で心置けない幼馴染み同士ならなおのこと」
「アンドーヴァー公、あなたのおっしゃるとおり、その点について私は自らの幸運を認めないわけにはいきません」
 僕はエディに調子を合わせた。「互いに心を分かち合う伴侶とは、乾いた荒野に咲くプリムローズのように、なお一層美しく価値あるものです」
 僕の返事にアレックスはうんざりと呆れ、エディは照れたように苦笑し、皇太子殿下は声を上げて笑った。周囲にいた廷臣たちは殿下に倣ったため、陽気な笑い声が僕の周囲で沸き上がった。
 僕まで一緒に声を上げて笑いたくなった。
 その仲睦まじい婚約者からちょうど見限られたばかりなのに、なぜ僕はいかにも幸福の絶頂にいる男のように振る舞っているのだ。手紙さえ読んでもらえず、謝罪さえ受け入れられず、嫌われ、軽蔑されたというのに。馬鹿馬鹿しい。惨めにも程がある。
 だいたい、貴様らに何がわかる。ビアンカのことなど、彼女と僕のことなど何一つ知らない貴様らなんぞに! 恥じ入ってはにかむ男を演じながら、悪意なく陽気に笑う男たちに心の内で八つ当たりをぶつけていた。
 ベルフォレスト公妃だけが、凍えた虫けらを睥睨する氷の国の女王のように、そんな僕を冷ややかに見つめていた。

「取次役のサー・ジェームズ・ドルトンがミス・コンラッドに話しかけているな。ずいぶんと熱心な様子だ」
「ミス・コンラッドはミス・ル・ドワインと何やら楽しそうに笑っているな。まるで黒ネコと白ネコがじゃれあっているようだ」
「あの気難し屋のスクリヴァー卿が自ら声をかけるとは驚きだ。ミス・コンラッドはなかなか侮りがたい女だな」
 アレックス、それ以上余計なことをしゃべり続けるなら、今すぐ君を馬上から蹴落とし、その忌々しい口を地面に叩きつけて黙らせるぞ。
 心の声が届くよう、顔中に深く、深く、彫刻刀で刻み込んだように深い微笑みを貼り付けてアレックスをにらんだ。
「どうした、ケアリー子爵。そんな狂戦士のような顔をして。キツネや鹿を狩るときまで騎士の本領を示すとは、あなたはまったく真面目が過ぎるな」
 僕の本音を把握したうえで、アレックスはいつもこうしてしらばっくれる。
 リーゼル城の周りに広がる森の中で狩りをしている最中、皇太子殿下が仕留めた鹿を侍従が馬にくくりつけているわずかな合間、アレックスは声を潜めて僕を嘲笑った。
「あぁ、そうさ。僕はどうせそれしか取り柄のないつまらない男だよ」
 だからビアンカに見限られたんだ。めめしく拗ねた口調は我ながら聞き苦しく、もういっそのことリーゼル城の部屋に引きこもりたかった。

「そうだな。私が女なら間違ってもお前のような朴念仁は愛さない」
 僕を励ますことなど勿論なく、アレックスはけんもほろろに言い切った。
「だが、ミス・コンラッドは私ではない。そして彼女は私ほど人を見る目があるわけでも趣味が良いわけでもない。先日の遠乗りでの会話、どうせお前も聞き耳を立てていたのだろう? まったく、あれほど可愛げのない女はいない」

 アレックスは人目が逸れているのをいいことに盛大に顔をしかめた。
 それから彼の澄んだ水色の瞳が、どこか愉しそうに僕を見返した。



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