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第2話 2度目の恋


「“リディア、僕の愛しい赤いバラ。早くあなたを私の妻に迎えたい”」
 ベッドにあおむけに倒れ、私は声に出して何度も何度も手紙の文字を追った。流れるように美しい綴り字が、しみひとつない純白の便せんに甘美な愛の抒情詩を詠っていた。恋心があふれかえるあまり息が苦しくなり、私は激しく脈打つ胸元を手紙でぎゅっと押さえた。
 赤いバラの花とともに届けられる手紙は私の歓びであり、無残に終わった結婚で傷ついた私の心を春風のように癒す優しさであふれていた。

 手紙の差出人、デレク・マーサーに私は夢中だった。
 彼は貴族の血を引く海軍将校で、社交界でも評判の美青年だった。育ちの良さを感じさせる柔和な物腰と軍人らしい真面目さが、とびきり素晴らしい紳士だった。私を見つめる彼の瞳は、いつも優しさと誠実さとひたむきさで澄みきって見えた。
 私はこの頃、社交界では蛮族の地から連れ帰った珍獣、とまではいかないものの、やはりどこか一線を引かれた扱いを受けていた。けれど、デレクはそんな私に気さくに声をかけ、ワインを飲みながら二人で楽しくおしゃべりをし、舞踏会では多くの人の前で堂々と私を踊りに誘ってくれた。
 けばけばしく軽薄に見えがちな濃い赤毛を “あなたが赤いバラの化身である証拠だ” と優しくなで、男を誘う娼婦のようと陰口を叩かれるエメラルドグリーンの瞳を “本物のエメラルドが恥じ入るほど美しく輝いている” とうっとり見つめ返してくれた。
  そして、私たちは密かに想い合う秘密の恋人同士になり、彼はこうして父にばれないようこっそり一輪のバラと愛の手紙を贈ってくれるようになった。

 デレクは軍人だ。貴族の血を引いているとはいえ、我が家の商売にほとんど利益をもたらさない家柄だから、彼との結婚を父と兄に認めさせるのは難しい。それでも私は、彼が父に私との結婚を申し込んでくれたら、何年でも忍耐強く家族の説得を試みるつもりだった。
 それほど全身全霊で彼に恋していた。

 二十歳の晩春、この日も私はキャボット夫人の邸宅に招かれ、こじんまりとした家庭的な舞踏会に参加していた。結婚相手を物色するような若い人たちやその親があまりいないからか、落ち着いてのんびりした内輪の雰囲気が居心地良かった。
「ミス・ローズデール、あなたはもう心に決めた方がいらっしゃるの? あの美男の海軍将校、マーサー少尉はあなたに夢中だともっぱらの噂よ」
 キャボット夫人は “愛のキューピッド役になるのがあたくしの生き甲斐” と公言してはばからないほど、男女の仲を取り持つことが大好きなのだ。
「まぁ、キャボット夫人。たしかにマーサー少尉はわたしくにとても親切にしてくださいますわ。誠実で礼節をわきまえた素晴らしい紳士です。わたくしの大切なお友達です」
 彼とは密かに結婚の約束を交わした恋人同士なのです、と答えたいのをぐっとこらえ、私はそつのない返事をした。
「あたくし、あなたと彼はとてもお似合いだと思うわ。心から愛し合う方と結ばれることこそ女の幸せですもの。あなたが一日でも早くそのひとりになることを、あたくし心から願っていてよ」
 満月のようにふくよかなまるい顔に優しい微笑みを浮かべ、キャボット夫人は混じり気のない慈愛の眼差しで私を見つめた。

 つねに誰かと誰かを結婚させることに心血を注ぐ社交界の重鎮は、友人の娘である私の行く末を心配して、こうしてしょっちゅう舞踏会やら晩餐会やらに招待してくれる。
 最初の頃は苦痛で仕方なかった。
 わかるでしょ? まるで自慢の庭に迷い込んできた薄汚い野良猫でも見るように、憐憫と冷笑で遠巻きに眺められるだけだったのよ。歓迎もされなければ、出ていけと言われるでもなく、ただ社交界の流儀――見たくないものは見るな。そうすればおのずと見えなくなるものだ――に則って、私はその場にいないものとして扱われた。

 でも、離婚から二年、社交界に再び顔を出すようになって一年経ったこの頃、私を取り囲む壁はわすかばかり氷解の兆しを見せ始めていた。
 キャボット夫人やヴァンダーグラフ夫人の口添えが功を奏し、ごく少数だったけれど私に声をかけてくれるおおらかな淑女や、私を踊りに誘ってくれる気前のいい殿方が何人か現れ始めた。今となっては、早いうちにこういう場に出る機会を与えてくださったキャボット夫人に感謝している。もちろん、親身に世話を焼いてくれたヴァンダーグラフ夫人にも。
 そうでなければ、私はきっといつまでも家の奥に引きこもり、世捨て人同然になっていたはずだもの。

 キャボット夫人と分かれて、デレクを探して大広間をぶらついた。この日の舞踏会には彼も参加していたけれど、踊る人々を眺めるふりをして目だけで彼を探しても、このときはあいにく彼を見つけることができなかった。
 この日の舞踏会も、私を踊りに誘ってくれる親切な殿方が数人いた。でも、私は小娘らしい潔癖さでデレクに操を立て、適当な言い訳を並べながら彼以外と踊らないようにしていた。しかし、踊りもせず話し相手もいないとなると、さすがに手持ち無沙汰だった。
 デレクがいないだけで舞踏会がこれほど退屈だなんて。
 せっかく彼好みの桃色のドレスを着てきたのに。私、こういう淡い色は似合わないし好みでもないのよね。幼稚な不満を胸に抱えながら、ちょっと小腹が減ってきたから果物でもいただこうかしら、とキャボット夫人が南部から取り寄せたオレンジに手を伸ばした、ちょうどそのときだった。

「こんばんは、ミス・ローズデール」
 深みのある甘く低い声が、背後から私の名前を呼んだ。振り向くと、思わず、あっ、と声を上げそうになった。
 意志の強そうな顎と高い頬骨で形作られた浅黒い顔は、野性的でありながら名匠が刻んだ彫像のように端整だ。自信に満ちあふれた男にいかにもふさわしい。がっしりした輪郭を豊かな黒髪がふちどり、表情は森を支配する野生の狼のように凛々しく堂々としている。瞳の色は海のように深い紺碧で、その青さは日焼けした肌との対比でよけいに鮮烈に感じられた。彼の全身からは抑えのきかない活力のようなものがにじんでおり、どことなく非凡な雰囲気があった。彼の眼差しはあまりに強烈で、私は思わず後ずさりしそうになった。
「お久しぶりです。その様子では、私のことを覚えていてくださったようですね」
 彼は微笑んだ。快活な人懐っこさと冴えた知性が光った。えもいわれぬ男臭い色気を帯びた彼の眼差しにどぎまぎしつつ、私は冷静を装ってツンとあごを上げた。
「ごきげんよう、ミスター・ブラッドリー。あなたのことはもちろん覚えておりますとも。このところ活躍目覚ましい材木商を忘れるには、社交界は賑やかで狭すぎますわ」
 私の生意気な社交辞令に、ジョセフ・ブラッドリーは温和な紳士然とした微笑みをぐっと深めた。

 ジョセフ・ブラッドリーは、私の結婚式に参列した元夫の友人のひとりだ。
 元夫と彼は十歳の頃からの幼馴染みで、寄宿学校を一緒に過ごした仲だと聞いた。婚約期間中、舞踏会や晩餐会などで私は彼とたびたび顔を合わせていたので、彼のことはよく覚えていた。
 でも、本当の理由はそれだけじゃない。
 ジョセフ・ブラッドリーは私の少し後に婚約者と結婚したものの、その一ヶ月後に不慮の事故で新妻を亡くすという、私に引けを取らず哀れなやもめ男だった。彼も私も、ことの顛末こそ違えど、結婚早々伴侶を失った。私にとって、彼の不幸は他人事とはとても思えなかった。自分本位な私とて、同じ悲しみを抱える殿方に同情を寄せるくらいの憐れみの心は持ち合せている。
 しかし、ジョセフ・ブラッドリーは哀れなやもめとはいえ、私と違って相手に逃げられたわけじゃないから評判はすこぶる良いまま。むしろ、その不幸な出来事が女たちはおろか殿方からも同情を引き寄せ、社交界は一致団結して彼に次の幸せをつかませてやろうという気運すら漂っていた。
 この待遇の差を思うと、彼に対する同情心が羨望と不満でほんの少しばかり薄まるけれど、それくらいはどうか見逃してちょうだい。

 もっとも、それは表面的なこと。
 事態はそんな単純な人情話じゃない。
 ジョセフ・ブラッドリーは、鉄鋼業で巨万の富を築き、鉄道事業に乗り出したブラッドリー家の御曹司だ。ブラッドリー家は、いまや財力では二大名家のヴァンダーグラフ家とフェアバンクス家をもしのぐと言われる大富豪。“国王陛下の御用商人” と畏敬され、陛下の名を冠し王国の威信を賭けた鉄道事業を指揮し、首都の政治家や貴族たちを顎で使える権力者だ。ジョセフ・ブラッドリーは末っ子の三男坊だけれど、兄弟の中で商人として最も辣腕なのは彼だともっぱらの評判。二人の兄ではなく彼がブラッドリー家の次期当主になるのでは、という噂まであるほど。おまけに唯一の独身よ。そんな彼が、社交界で人目を引かないようにするのは至難の業だった。彼の野性的で男らしい容姿の良さが、さらにそれに拍車をかけていた。
 なにしろ社交界のあらゆる女たちが、彼の注目を浴びようと必死だった。若いのもやや年を取っているのも、背が低いのも高いのも、太っているのも痩せているのも、美しいのもそうでないのも、とにかくどんな女たちも、ジョセフ・ブラッドリーが自分に結婚を申し込んでくれないかと切望していた。
 ただし、私はその中に含まれていなかったけれど。

「今夜はマーサー少尉とご一緒ではないのですね」
 私にそっとワイングラスを差し出すと、人懐っこく微笑むジョセフ・ブラッドリーが声を潜めて私をからかった。少し顔を近づけて、耳元でささやきかけるように。セクシーな低い声は、まるで貴婦人を誘惑をする騎士のように甘くかすれていた。
「えぇ。彼は私の素敵なお友達のひとりですが、私たちはつねに一緒にいるわけではありませんの」
 私は彼からワイングラスを受け取ると、どきまぎ戸惑う内心を隠すように、淑女らしくもったいぶった角度で一口すすった。
 失礼で馴れ馴れしいひやかしを受けたのに、私は不思議と楽しい気分のままでいられた。というのも、ジョセフ・ブラッドリーのちゃめっけたっぷりにきらめく鮮やかな紺碧の瞳が、とびきり愛らしかったからにほかならない。
 心に決めた恋人がいようと、とくにこの頃の私のように若さを持て余しているような女は、ハンサムな殿方に一定以上のときめきを覚えずにいられない。それが黒髪に深い青の瞳を持ち、野性的な色気を放つジョセフ・ブラッドリーのような紳士ならなおのこと。

「よかった。お元気そうで」
 ジョセフ・ブラッドリーは、兄のような慈愛の眼差しで私を見つめていた。本物の兄より、よほど情け深いと感じたほどだ。
 私の兄アーサーの名誉のために一応言っておくけど、彼は決して無情な冷血漢ではない。独身に戻った妹を家業拡大の重要な駒と見なしてはいるものの、いたって普通の兄だ。少なくとも、ここ自由貿易同盟の基準においては。
「あなたもお元気そうでなによりです」
 これは社交辞令ではない、紛うことなき私の本心だった。
 愛する妻を不慮の事故で亡くした悲しみは、想像するだけでもつらい。にもかかわらず、ジョセフ・ブラッドリーは友人の元妻で顔見知り程度でしかない私を気遣い声をかけてくれた。今すぐでなくとも、いつか彼が素晴らしい伴侶と再び幸福な結婚生活を営むことができますように。私はそう願ってやまなかった。

「ところで、ミスター・ブラッドリー、あなたはこの一年ほど社交界にいらっしゃらなかったけれど、森と川しかない北東部で暮らしていたというのは本当ですの?」
 好奇心を抑えられず、私は小耳にはさんだ噂の真相を確かめずにいられなかった。
 すると、ジョセフ・ブラッドリーは微笑みを深めた。私は密かに、足元にぎゅっと力を入れ、後ずさりしないようふんばった。
 彼の微笑みが、まるで縄張りに近づいてくる憐れな子ウサギを見つめる狼のように見えたから。
「えぇ、二年前に北東部に森を購入したのですが、今年の二月まで一年と少しその近くで暮らしていました」
「まぁ、一年以上も!」
 つい声に羨望がにじんでしまった。「私は南東部のハーブ農家に滞在していたことがあるのですが、たった三ヶ月でとんぼ帰りしてしまいましたわ」
 本当はもっと滞在していたかったし、そのつもりだった。しかし、母や乳母のばあや、女友達たちから私の身を案じ、私の不在を寂しいと訴える手紙を毎週のようにもらえば、いくら自分本位な私とて帰郷せざるをえなかった。
「旅行で三ヶ月も田舎の農園にいらしたのですか?」
 ジョセフ・ブラッドリーはひどく驚いた表情を浮かべた。
「旅行ではありませんわ。教えを乞いに行ってまいりましたの」
 私は得意げに彼を見上げた。「我が家の裏庭には、私だけのハーブ園がありますのよ。私、しばらく……その……家で過ごす時間があったものですから、そのときすっかりハーブ作りの虜になってしまいましたの。いよいよ庭師の指導だけでは飽き足らず、この街を飛び出して南東部にまで足を伸ばしてまいりましたわ」
「南東部といえば広大なラヴェンダー畑が名高いですね」
「夏のラヴェンダー畑をご覧になったことがあって? 見渡す限り一面に青い花が咲いていて、まるで海の中に立っているようでした。夜明けにひとりで散歩をしていると、まるで大海原を独り占めしているような心地がしました」
「夜明けにひとりで散歩とは、淑女にあるまじき振る舞いですね、ミス・ローズデール。まるで女海賊のようだ」
 年長者の紳士らしく私をたしなめる言葉を口にしているのに、私はジョセフ・ブラッドリーにまったく反抗心を覚えなかった。それはきっと、彼の眼差しに非難が見当たらず、明らかに私を面白がり、私の話を楽しんでいたからだろう。
「私、『南十字航路物語』の女海賊ステラが大好きですの。光栄ですわ」

 私は密かに思った。
 ジョセフ・ブラッドリーのような紳士を友人に持てたら、きっと楽しいでしょうね。
 私が殿方だったら、彼と一緒に世界中の海を巡る航海の旅に繰り出していた違いない。私が大好きな海賊たちの冒険物語『南十字航路物語』のように、見たことのない国々を回り、新しい世界に触れ、素晴らしい財宝の数々を手に入れる刺激的で心躍る旅。
 彼なら友人として、旅の仲間として、全幅の信頼を寄せられるのではないかしら。

 不意に、私ははっとなった。
 もしかしたら、ジョセフ・ブラッドリーならあの人(・ ・ ・)のことをなにか知っているかもしれない。

「ミスター・ブラッドリー」
 目だけで周りを見渡し、近くで聞き耳を立てている者がいないことを確認してから、私はジョセフ・ブラッドリーに声を潜めて尋ねた。
「あの方のことを、何かご存知ですか?」

 さすが最高の評判を誇る前途洋々の若手商人だ。
 “あの方” が誰なのか、ジョセフ・ブラッドリーはすぐに察しがついたようだ。



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