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第3話 夜の庭


「……もしや、アンドリュー・ヴァンダーグラフのことですか?」
 いっそう声を低め、ジョセフ・ブラッドリーは私に問い返した。慎重に、探るような眼差しで私を見つめた。
「はい、そうです。あなたはあの方と幼馴染みで親しい間柄でしたし、今でも連絡を取り合っているのではないかと思いまして……」
 元夫アンドリューは、例の駆け落ち以来ずっと行方知れずとなっていた。といっても、恐らく私の耳に入らないよう周囲が気遣ってくれているだけで、実際ヴァンダーグラフ家は彼の居場所を把握しているに違いない。
 彼の母親であるヴァンダーグラフ夫人は社交界で孤立しがちだった私に責任を感じ、キャボット夫人とともになにくれとなく世話を焼いてくれた。彼女が積極的に私の面倒を見てくれたからこそ、私は社交界から完全に追放されずに済んだようなものだ。ヴァンダーグラフ夫人は、私の前で “息子” という単語すら口にしないよう気を配ってくださるほど。そうなると、ただの好奇心だけで私が元夫の消息を確かめるのは、その心配りを無碍にすることになるのではばかられた。

 ジョセフ・ブラッドリーは、私の真意を測りかねたように沈黙した。
 それはそうだろう。あんな無様な形で離婚したというのに、その元夫の消息を気にかけているなど、破れた結婚に囚われた愚かな女そのものだ。誰も教えてくれないから単に気になっているだけだ、と本音を言っても、それはそれではしたないと眉をひそめられるだろう。
「申し訳ありません、ミスター・ブラッドリー。あなたを困らせるような質問をしてしまいました」
 ジョセフ・ブラッドリーの困惑と沈黙に耐えられなくなり、私は自分の軽率な振る舞いに恥じ入りうつむいた。
「……ここでは話しづらいので」
 少し迷った様子を見せたものの、ジョセフ・ブラッドリーは私に言った。
 白い手袋に包まれた彼の大きな手のひらが、当然のように私の肩をそっと押した。さりげなくも不躾な振る舞いに、淑女として文句のひとつでも言うべきだったのに、このときの私は元夫の消息に気を取られてすっかりそれを失念していた。彼に促されるまま、私はそっと大広間を出た。
 階段を下りて庭に抜け出した。まるい満月のやわらかな光のおかげで、キャボット夫人ご自慢の庭園は花の種類を判別できるほど明るかった。静謐な穏やかさが漂っていた。二階の大広間からワルツが漏れ聞こえて、そのおかげで気の置けない雰囲気を保つことができた。

 噴水脇の木陰のベンチに腰を下ろすと、彼が少し気まずそうに話し出した。
「どうやら有り金ごと彼女に逃げられたようです」
 額に手を当て、ジョセフ・ブラッドリーは心底嘆かわしそうに頭を横に振った。
「彼女にはもともと別の男がいたようで、あいつと関係を持っていたのも、その男に貢ぐ金欲しさだったようです。あいつはほうほうの態でヴァンダーグラフ家に戻ったものの、ヴァンダーグラフ夫妻は門前払いを食らわせたそうです。彼らはすでに彼を勘当していて、先日お会いしたときも “我が家に息子はアーネストしかいない” とまで言っていました。あの一件で、ローズデール家はもちろんですが、ヴァンダーグラフ家もかなり評判に傷を負いましたからね」
 ざまぁみろ、と思ったものの、性質の悪い女にひっかかり全財産を奪われた挙句、実家から勘当されたアンドリューがさすがに可哀相になった。
 彼は生粋のお坊ちゃん育ちで、使用人がいない生活なんて想像すらしたことがないに違いない。生家を追い出され、お金もなく、自分の世話をしてくれる人もいないとなれば、彼のこれからの人生はどうなってしまうのだろう……
「それで、彼は今どこに?」
「ヴァンダーグラフ家が植民地に所有するコーヒー農園の農場主に収まっているようです。焼け焦げるような陽射しに苦労しているようですが、手紙を読む限り、それなりに楽しく暮らしている様子です」
 それを聞いて、私はどこかほっとした。いくら私の人生と評判をめちゃくちゃにした男でも、路頭に迷い野垂れ死にされては夢見が悪すぎる。
 ジョセフ・ブラッドリーがまじまじと私を見ていたのに気付いて、私は顔をそちらに向けた。
「ミス・ローズデール、あなたは優しい方なのですね。あんな仕打ちを受けた男の行く末まで心配してやるなんて」
 皮肉も揶揄もなく純粋に驚いた様子で、彼の真っ青な瞳が私を凝視していた。
 遠回しに「お前はなんてお人好しなんだ」と指摘されたようで恥ずかしくなった。
「心配などしておりません」
 私は慌てて否定した。「私が心配なのはアーネストです。アンドリューはあの子にとってたったひとりの兄だったのですから、彼の身を案じて不安がっていないかと気になっていただけです」
 アーネストが心配なのは本当だった。
 たった一ヶ月とはいえ義弟だった彼は、離婚当時、まだ一三歳になったばかりだった。利発で陽気な彼は兄アンドリューととても仲が良く、私のことも “五人目の姉上” と素直に慕ってくれた。元夫は私にとって最低の男でも、アーネストにとっては大切な兄だったはずだ。
「私にも兄がおります」
 私はジョセフ・ブラッドリーに言った。「ご存じでしょう? 一部の同業者から “ハゲタカ” などと呼ばれているあこぎな人ですし、妹の私にとって善良で思いやり深い兄ではありません。私は毎日、彼の高慢で無神経な言動に腹を立てています。それでも私にとって彼は、幼い頃、乳母や家庭教師にしでかした数々の悪戯の共犯者、いざというときは頼りになる仲間のままなのです。つまり、まずまずの兄ということです。兄弟というものは――すべてがそうとは限りませんが――そういうものなのではないでしょうか」

 言い終えてから、なんだか自分がとんでもないお兄ちゃんっ子のようで気恥ずかしくなってきた。呆れさせたかしら、と恐々とジョセフ・ブラッドリーを見返すと、そこには私の予想とだいぶ異なった表情を浮かべる彼がいた。
「あなたは本当に優しい人なのですね。まったく、あいつも馬鹿なことをしたものだ」
 彼は、夜にもかかわらず紺碧の瞳を眩しそうに細めて私を見つめていた。
 そのほろ苦い微笑みから視線を逸らすことができず、自然と私はジョセフ・ブラッドリーと見つめ合う形になってしまった。

 と、そのとき、複数の足音が私たちの耳に届いた。
 同時に、私はジョセフ・ブラッドリーに赤ん坊のように抱え込まれ、ベンチの後ろの茂みの中に押し込まれた。
「静かに! 誰か来たようだ……」
「ミスター・ブラッドリー、突然こんなことをなさるなんて……」
 ベンチの肘置きで腕を打った痛みに悶えつつ、私はひそひそと彼に抗議した。
「申し訳ない。だが、このような場所で私と二人きりでいるのを見られたら、あなたの評判に障りかねない」
 私を抱えたまま、彼は声を低めて私の耳元でささやいた。

 これ以上、悪くなりようがないわよ。
 内心で不貞腐れながら、だんだん近づいてくる足音とかすかな話し声に息を潜めた。もぞもぞと首を伸ばし、ジョセフ・ブラッドリーの肩口からそっと茂みの向こうを見やった。ふたつの影がすぐそばまで近づいて止まった。
「あぁ、デレク!」
 繊細な女性のささやきが聞こえた。
「愛しい人」
 震える小声が聞こえてきた。月明かりが、デレクの顔をくっきりと照らしだした。
 彼と一緒にいたのは、豪奢な美貌で名高い織物商人の後妻だった。濡れて肌に貼りついた絹のように、ぴったりと彼にしなだれかかっていた。

 デレク? どうして? なぜあのひとと一緒にいるの?
 私は彼らから目が離せず、耳をそばだててしまった。

「あなた、あの下品な赤毛娘と結婚するつもりなの?」
 すがるような声色で織物商人の後妻が言った。「私たちはどうなるの? この情熱と愛をどうしたらいいの?」
「私が愛しているのはあなただけだ。だが、家を継いだ兄が病弱で子供を残せそうにない。跡取りが必要なのに…… だから、家族を安心させるためにも、私が結婚し子供を儲けなくてはならないんだ」
 この張りのある美しい声。たしかにデレクだ。  
「それはわかるけれど……」
「愛しい人、今はどうか抱かせてくれ。毎晩見る夢が現実になったと思わせてくれ。あなたは私のもので、こんなふうにこそこそする必要などないと」
 衣擦れの音がした。それから沈黙が落ちた。
 やがて唇を貪るような、あるいは吸うような音が聞こえてきた。それらの音は、私に初夜のベッドでの出来事を思い起こさせた。

 ジョセフ・ブラッドリーの手が、私の肩に食い込んで少し痛かった。
 彼が私の耳を塞ぐように私の頭を抱き込んだ。私は身動きひとつできなかった。

「あぁ、デレク! 私たちが結婚していたらよかったのに」
 織物商人の妻は哀切たっぷりに甘えた声を出した。
「あぁ、私たちが結婚していれば、毎晩あなたをこの腕に抱くことができるのに。今こうしているように」
 デレクは織物商人の妻に優しくささやいた。そして今度は口汚く罵った。「あなたの夫の健康が忌々しいよ!」
「えぇ、本当に忌々しい人!」
 織物商人の後妻も言った。「あんな老いぼれ、さっさと――」
「シーッ!」
 デレクが止めた。哀れな織物職人には気の毒だが、どうやら彼の自慢の愛妻は今すぐにでも彼に死んでほしいと思っているようだ。
「どうしたの?」
 織物商人の後妻が不安そうに聞いた。
「誰かこちらに来るようだ」
 ほどなくしてもうひとりの足音が近づいてきた。足音が止まった。
「まぁ! マーサー少尉とミラー夫人」
 明らかに驚いた様子だった。その澄んだ美しい声から会計役人の妻だとすぐ分かった。彼女は三人の子供の母親とは思えない清廉な雰囲気をまとい、汚れを知らないスズランのように清楚な社交界の華だ。
「ノーマン夫人、こんばんは」
 デレクは何食わぬ調子で会計役人の妻に言った。今さっきまで熱い抱擁などしていなかったかのように。
「エイミー、気分が悪くなって外の空気を吸いにきたの?」
 いかにも心配そうな様子で織物職人の妻が会計役人の妻に聞いた。
「えぇ、なんだか人に酔ってしまったみたい」
 会計役人の妻の声は細くはかなげだ。「そういえば、ミスター・ミラーがあなたを探していたわよ、パティ」
「え? 彼が来ているの?」
 織物商人の妻の声は驚きと不満が混じっていた。「今夜は出席する気分じゃないと言っていたのに」
「あなたに会いたがっていたわよ」
 会計役人の妻はやわらかく優しい調子で言った。「あなたの居場所を知っているかと尋ねられたから、食事をしにテーブルのところに行ったのでは、と言っておいたのだけれど、ごめんなさい、ここにいたのね」
「まぁ、ご親切にありがとう」
 織物商人の妻は続けて言った。「マーサー少尉、星座のことを教えてくださってありがとうございます。わたくしはそろそろ大広間に戻らせていただきますわ」
「まぁ! マーサー少尉、わたくしにも星座のお話を聞かせてください」
 会計役人の妻が無邪気にねだった。「まだ気分が優れないので、もうしばらく外の空気を吸っていたいですし」
「えぇ、もちろん」
 デレクは礼儀正しい調子で了承した。「よろこんでお話しいたします」
「それでは、わたくしは失礼しますわ」
 明らかに不満で気の進まない様子でこう告げると、織物商人の妻とおぼしき足音が遠のいていった。

 しばらくしたらデレクと会計役人の妻も後に続くだろう。そうすればジョセフ・ブラッドリーと私も茂みの陰から抜け出し、大広間に戻れる。
 でも、私は安堵の溜め息をつくことはなかった。
 草むらに隠された罠にかかって身動きが取れない無知な子ギツネのように、混乱と困惑と失望と怒りが私を凍りつかせていた。

「ねぇ、デレク、彼女の用はなんだったの?」
 会計役人の妻がデレクに尋ねた――非常に親しげに。
「俺との逢引に決まっているだろう」
 デレクは悪びれた様子もなく彼女に言った。
「まぁ、悪い男」
 会計役人の妻は少女のようにくすくすと笑いをこぼした。
「お前ほどじゃないさ」
 織物商人の妻よりはるかに親密で砕けた調子から、デレクと彼女の仲の深さがうかがい知れた。
「最近仲良くしているあの娘はどうするの?」
「リディア・ローズデールか?」
「えぇ。あの娘、見た目は派手だけどとてもいい娘よ――私なんかよりよっぽど」
 会計役人の妻は、社交界で私に親切にしてくれる数少ない淑女のひとりだった。
「お前が言うならそうなんだろうな」
 衣擦れと同時にデレクの声が聞こえた。
「それに……あぁ、デレク…… ローズデール家は成り上がりだけど、自由貿易同盟でも指折りの大金持ちよ」
「だからあの小娘と結婚するのさ」
 デレクは蔑みもあらわに言った。「持参金がなければ、あんな見た目しか取り柄のない小娘と誰が結婚するか」
 間違いなくデレクの声だった。
 私はジョセフ・ブラッドリーの腕の間から首を伸ばした。
 なんてこと! 私は悲鳴を上げそうになった。庭にいるというのに、デレクは会計役人の妻の胸をあらわにし、あろうことか手のひらでもみながら派手に音を立てて吸いついていた。
 彼は私が知る穏和に微笑む海軍士官の彼ではなかった。
 目の前の美女を舐めるように見つめる酷薄そうな若い男。
 私の知らない男。
 黒っぽい影が急にひざまずくと、会計役人の妻のドレスのスカートの中に消えた。
「だめよ、ベッドじゃなきゃいやよ」
 木にもたれてかすかにのけぞり、会計役人の妻は無邪気な少女のように声に笑いをにじませた。

 ジョセフ・ブラッドリーは黙って私を茂みの奥へ引きずっていった。やがて小道に引きずり出されると、彼は私に前を向かせ、押し出すようにして足早にその場から離れた。そのまま庭園の反対側まで歩いていくと、噴水の近くのベンチに私を座らせ、慎重にその隣に自分も腰を下ろした。
 ずんぐりむっくりした噴水の女神像のように、私は動くことも話すこともできなかった。
 衝撃の大砲が私を撃ち抜き、怒りや悲しみが巨大な錨となって私に巻きつき、真っ暗な失望の海底に私を――またしても――沈没させていくようだった。

「ミス・ローズデール、あなたは何も悪くありません。あなたにはなんの落ち度もないのですよ」
 慰め励ますように、ジョセフ・ブラッドリーはずっと私の肩を抱いてくれていた。
「忘れます。明日の朝には、私は今のあなたの姿を忘れます。だから心配なさらないでください」
 彼の腕の中で私は声を殺して泣いていた。
 元夫に駆け落ちされたときに涸れたと思っていた涙が、嵐の晩の運河のように私の頬を流れていった。
 ジョセフ・ブラッドリーの手のひらのぬくもりだけが、朽ち果てた灯台のように今にも崩れ落ちそうな私を支えてくれていた。身内でもない殿方の腕の中で赤ん坊のように泣きながら、私は自尊心も恥じらいも構う余裕はなかった。むきたてのレモンやライム、葉巻の煙、それと熟成されたブランデーの混じった彼の男らしい匂いに包まれながら、私はただ怒りと失意と悲しみの涙を流し続けた。

 こうして私の二度目の恋も呆気なく、結婚と同じように惨めに終わりを告げた。

 翌日、私はデレクに手紙を送った。
 庭には誰がいるかわからないので十分注意するようにという忠告、彼が私の持参金を手に入れることはこの先一生ありえないこと、そして自分の評判を守る意思があるなら二度と私に近づかないことを、極力感情がこもらないようにしたためた。
 彼から返事は来なかった。

 たいていの商人の家の女は、富か一族に良い縁故をもたらしてくれる男と結婚する。選り好みして、男の好みにうるさいなんて愚かな娘のすることだ。
 でも、私はそれでも自分は幸せになれると信じていた。
 だって最初の結婚――富があり一族に良い縁故をもたらしてくれるであろう男との結婚――が失敗した後、私が信じられるのは愛に基づく結婚だけだったから。
 しかし、愚かで幼い私は、私ではなく私の持参金を求める不実な男の偽物の愛にすっかり目がくらんでいた。幸いにも彼の正体を見破る機会に恵まれたけれど、あれがなかったら私は自分の人生と家族が日々働いて稼いだお金を、デレクという薄汚い下水道にむざむざ投げ捨てるところだった。私だって腐っても商人の娘だ。家族や従業員が汗水たらして稼いだお金をばらまいてやるほど気前は良くない。

 もう男なんて信用しない!
 ひとりで生きていく!
 私はそんな馬鹿馬鹿しいことを無様に喚くような愚かな女じゃない。惨めな悲劇の女主人公を気取って、不遇に浸るなんてまっぴらごめんよ。
 けれど、これ以上男たちに私の心を好き勝手にいじりまわされるのは我慢ならない。

 離婚と失恋で私が手に入れたもの。
 男の好意を無条件に信用し舞い上がったりしない慎重さ。
 その裏や影に潜んでいるものを確かめようとする疑り深さ。
 彼らのどんな小さな粗や下心も洗い出そうとする意地の悪い観察の眼。
 二十歳そこそこでここまですれっからしになるとは、一八歳で社交界にデビューした頃は想像すらしていなかった。

 同じように、キャボット夫人の屋敷での舞踏会の一週間後、あんな形で彼と再び顔を合わせるハメになるなんてこともね。



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