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第4話 昼食会


「リディア、そんなに袖を強く引っ張らないでちょうだい。レースが伸びてしまうわ。あなたってときどき南部の馬乗り女のように荒々しくなるわよね」
 幼馴染みの女友達、紡績会社を経営するレイノルズ家の娘メアリーが私に文句をたれた。甘くまろやかな声。男の耳元でささやけば、さぞや奉仕と献身の欲求を湧きあがらせるだろう。
 しかし、あいにく私は女だ。彼女の抗議を聞き入れるつもりは毛頭なかった。私はメアリーをにらみつけた。
「今ならどんな暴れ馬も乗りこなせそうよ」
 このとき、私はレイノルズ家の屋敷の裏に広がる庭園にいた。結婚が決まったメアリーを囲んでの昼食会の予定だった。内輪の女友達だけの気楽で和やかなランチ・パーティーのはずだったのよ。少なくとも、私への招待状にはそう書いてあった。ところが、蓋を開けてみれば男女が四人ずつ、しかも私以外の女友達は最初からそのことを承知していたという。これは明らかな策略よね。
「メアリー! 私の招待状には、あんたが来月に婚約を発表する前に、女だけで気安いお祝いの昼食会をしましょうと書かれてあったわ。なのに、どうして八人のうちの四人が殿方なのか簡潔に説明なさい」
 両手を腰に当て、両足でふんばり、私は頭ひとつ分小柄なメアリーを問いただした。
「あら、チャールズは四人の中に数えないでちょうだい。私の婚約者なんですからね。私だけの恋人よ」
 彼女は私の詰問に怯んだ様子もなく、そのうえベタ惚れし合っている婚約者に関する苦情までのたまってくれた。
「じゃあ言い直すわ」
 私はうなった。「男は四人中あんたの婚約者を除く三人が、女は四人中あんたを除いて私を含む三人が、それぞれれっきとした独身。この昼食会の目的は何なの? 正直におっしゃい!」
「あなたに恋人をあてがうために決まっているじゃないの」
 メアリーはしれっと白状した。「知っていると思うけど、ジェシカとケイトにはすでに恋人がいるから、あなたはチャールズ以外の三人の殿方全員と仲良くしていいのよ」
「よくない!」
 私はメアリーの奔放かつ無責任な提案に頭を抱えたくなった。
「あの子たちの恋人に今日のことを知られたらどうするつもり?」
「友人知人で食事をするだけじゃないの。大げさねぇ」
 メアリーは愛らしい声で私をなだめた。「リディア、あなたって舞台女優のような派手な顔に似合わず本当にお堅いわよね。いかにも殿方に好かれそうな身体つきをしているのに、まるで男っ気がないんだもの。私たち、あなたに女色の趣味でもあるのかと心配していてよ」
 まったくもって余計なお世話よね。
 これでもメアリーやこの日集まったジェシカ、ケイトは、離婚で評判を落とした私にも変わらぬ友情を示してくれた数少ない大切な友達だ。
 私が実家に引きこもっていた一年間、熱心に励ましと慰労の手紙を送ってよこし、時間をみつくろっては手造りのパウンドケーキをお土産に私を訪ねてきてくれた。私と仲良くしていることで、多かれ少なかれ社交界で居心地の悪い思いもしたことだろう。それでもこうしておおっぴらに私の友達でいてくれた。
 彼女たちは、私にはもったいないほど素晴らしい淑女たちだ。
 色恋沙汰に少々奔放すぎるところが玉に(きず)だけれど。
 彼女たちの恋愛談議に付き合っていると、ときどき異世界に迷い込んでしまったような感覚に陥ることがあった。前置きもなくあられもない男女の睦み事が飛び出し、深酒した晩の翌朝のような頭痛を覚えることもしょっちゅうだった。
 良い子たちなのよ。裏表のない、すごく良い子たちなんだけれどね。

 いや、私だって彼らがただの独身男だったらここまで動転しなかった。
 よりにもよって、私の惨めすぎる失恋の一部始終に居合わせたあの人がいるなんて!

「どうして今日、ミスター・ブラッドリーがいるの?」
 意を決して私はメアリーに尋ねた。
「まぁ、リディア!」
 メアリーは春の青空のように澄んだ瞳を期待できらめかせた。「ミスター・ブラッドリーに興味津々なんて、あなたもやっぱり社交界の女ね。あの方、チャールズと大学時代からの友人なんですって。そうだ! 今度お母様が主催する晩餐会で、あなたと彼、二人っきりでお話しできるように取り計らってあげるわ!」
 途端に意気込んだ彼女を私は大慌てで食いとめた。
「そんなこと絶対にしないでちょうだい! 彼には、その、先日ちょっと迷惑をかけてしまって…… かなり気まずいのよ」
 舞踏会の日の晩、庭の茂みの奥で彼に抱えられ、その後慰められた挙句、彼の腕の中で大泣きしてしまったことを思い返すと、羞恥心で顔から火を噴きそうになった。
「そんなこと気にするものではなくてよ、リディア」
 まるで庭園のすみっこに咲いていた花を一本手折ってしまったと打ち明けた子供をなだめるように、メアリーは慈愛たっぷりに私に言った。
「あなた、あの方を押し倒して幅広のネクタイ(クラバット)を抜き取ったわけじゃないんでしょ? チャールズが “あいつほど気前がよく気持ちのいい男はいない” って褒めていたくらいだから、あの方、あなたのちょっとした迷惑なんて覚えてもいないわよ」

 メアリーの言葉を頭から信じたわけではないけれど、いつまでも主催者を連れ出して昼食会の座を空けているわけにもいかなかった。私は彼女とともに屋敷の中庭に用意されたテーブルに戻り、席に着いた。
 青々と若葉が茂る中庭の木陰に、素朴な木綿のクロスがかけられた長方形のテーブルが置かれていた。悪戯好きな妖精のように木漏れ日がまだら模様を描き、ほがらかな田舎の春のピクニックといった風情だ。
 私の隣に座るのは、偶然にもジョセフ・ブラッドリーだった。
「やぁ、ミス・ローズデール。キャボット夫人の舞踏会以来ですね」
 野性の狼のような男らしさと、しつけの行き届いたジャーマン・シェパード・ドッグのような穏やかな知性。その絶妙な混合比で形づくられた凛々しい顔立ちが、にこやかに私に向けられた。
「ごきげんよう、ミスター・ブラッドリー」
 緊張と不安でそわそわしていただけに、彼の含むところのない柔和な表情にほんの少しばかり安堵した。あの晩、彼が私に交わしてくれた約束を思い出した。
「忘れます。明日の朝には、私は今のあなたの姿を忘れます。だから心配なさらないでください」
 私たちはキャボット夫人の屋敷で催された舞踏会で会った、それ以上のことは何もなかった、とジョセフ・ブラッドリーの礼儀正しい態度が雄弁に物語っていた。彼は記憶喪失者のように極めて礼儀正しく振る舞ってくれた。自分と私の間に秘密にするべき出来事など何も起こらなかった、とテーブルの面々に知らしめるように。彼があの約束を覚えてくれていたとわかり、私のなかで彼への感謝と信頼の気持ちがふくらんだ。

「善き春の日と、愛の花咲ける我らが友に捧げる。乾杯!」
 ジョセフ・ブラッドリーの掛け声とともに、テーブルに明るい乾杯の声が上がった。甘口の白ワインが注がれたグラスが掲げられ、軽やかな音が中庭に響いた。
テーブルはすぐさま陽気なおしゃべりで盛り上がった。ここには口元を扇子で隠して微笑むような “正しい淑女” はいなかったので、私も気兼ねすることなくしゃべり、声を上げて笑った。
 長方形のテーブルの上には洗練された東洋趣味の白磁の皿が並べられ、燦々と降り注ぐ春の陽射しを受けて金色の縁模様がきらきら輝いていた。レイノルズ家の調理人が腕をふるった料理の数々は気取ったところがなくとても美味しかった。招待された男たちも社交界で見かけるときよりだいぶ砕けた調子で、肩肘張らずに楽しげな様子だった。
社交界もこうであったらいいのに、と思わずにはいられなかった。
「ミスター・ブラッドリー、あれから山か海にでも出掛けられましたの?」
 数杯のワインと美味しい料理、テーブルの楽しい雰囲気にすっかり気をよくしていた私は、慎重とは程遠い心構えでジョセフ・ブラッドリーに声をかけた。
「なぜそのように?」
「気のせいかしら? キャボット夫人の舞踏会でお会いしたときより、日に焼けていらっしゃるようにお見受けしますわ」
 彼はなぜか――あの晩と同じように、またしても――少し眩しそうに私を見ていた。

 青より深く、紺色より鮮やかなジョセフ・ブラッドリーの紺碧の瞳。
 こうして太陽の下で見れば見るほど不思議な色だった。ローズデール家の貿易船の舳先から眺めた海のように、もっと奥まで、その奥底にあるものをのぞき込みたくなる神秘的な色。
 彼は首をわずかにかしげて顔ごとこちらを向いていた。私も彼の方に顔を向けた。陽射しを受け、彼の頬に松の葉のような長い睫毛の影が落ちていた。

 目が離せなかった。
 いま思えば、とても短い一瞬の間だけだったのだろう。
けれどこのとき、私は彼とひどく長い間見つめ合っているように感じた。神様の悪戯で時間を止められ、まばたきひとつできなくなったかのように。周囲のおしゃべりが遠のき、春のそよ風に揺れる木々の葉音も、梢に響く鳥たちのさえずりも、すべて私の耳をすり抜けていった。
「昨日、森の視察から戻ってきたばかりなんです。三日間木こりたちと森を歩きまわっていたので、帽子をかぶってはいたのですが、かなり日に焼けてしまいました」
 そう言って、ジョセフ・ブラッドリーはうっすら小麦色になった頬を軽く叩いた。微笑んだ口元の白い歯がまぶしい。まるで秘密の遊び場に行っていたことを打ち明ける少年のような、人懐っこい笑顔だった。
「ミスター・ブラッドリー、あなたは今でもご自身で森を視察なさるの?」
 女であるにもかかわらず、殿方の仕事について好奇心を抑えられないのは私の悪い癖だ。そのせいで社交界で “出しゃばり娘” の悪名をほしいままにしてきたというのに、このときも私はジョセフ・ブラッドリーの仕事への興味を押し殺すことができなかった。
「勿論です。私は幼い頃から森で遊ぶのが大好きな腕白坊主で、それが高じて材木商になったようなものですからね」
 彼は私の問いかけに疑問や不快感を覚えた様子もなく、昨晩読んだ本の題名を教えるくらい気安げにごくごく自然に答えを返してくれた。
「まぁ! 私も森で遊ぶのは大好きです」ふと、引用が口をついて出た。「“幸せなるかなその人、願いは父親より譲られた、僅かばかりの森に限られる”」
「まさに “森には時計などない” ですね」
「えぇ、この街の日常とはまったく違った時間が流れています。街での暮らしはいつも “この世は舞台、男も女もみな役者” です。でも、森で生きる者たちの暮らしは “雨の本性は濡れること、火は燃えること、夜の一大原因は太陽が見えなくなること、まぁそれくらい”」
「だからこそ、森は街で生きる私たちを引きつけてやまないのでしょうね」
 粋がって古典詩を引用する小娘の生意気な振る舞いを受け流すでもたしなめるでもなく、彼は悠然と私とのおしゃべりを楽しんでいた。ジョセフ・ブラッドリーの三十歳手前の若い紳士らしからぬ寛大さと鷹揚さに、私は少なからず驚き、そしておおいに感銘を受けた。

「ミス・ローズデール、もしよければ幼い頃のあなたが森でどんなふうに遊んでいたのか教えていただけないだろうか」
 鮮やかな紺碧の瞳が好奇心と挑発できらめいた。「淑女として差し支えない範囲で構わない」
「もちろんですわ」
 彼の期待に応えるべく、私はつんと澄ました顔を作った。「我が家が北東部に所有する牧場のすぐそばに小さな森があります。そこでよく兄や近所の子供たちと木登りをしたり、泉で釣りをしたり、いかだを作って川で流したりしていました」
「いかだは川に流すだけだったのかい?」
「いいえ。私は海運貿易商の娘ですもの。女船長を気取って我先に乗り込んでいました。そうしていかだに乗って遊んでいると、私はいつも誰かを川に落として怒られてばかりいました。船長失格ですね」
「なるほど。君を川に落とすような不届き者はいなかったようだね」
「えぇ、ありがたいことに。幼くもみな立派な紳士でした」
 何度かドレスの裾を引っ張られて一緒に川に落ちたことがあったけれど、彼らと私、双方の名誉のために黙っておくことにした。
「ですから、私は彼らに敬意を表したくて、彼らと同じ紳士の服装で屋敷を抜け出したことがたびたびありました。嵐に遭い、陸に打ち上げられた娘の振りをして」
「夏の夜の妖精たちもあなたにはお手上げだ」
 ジョセフ・ブラッドリーの名高い笑みが弾けた。「私も木登りや釣り、いかだ遊びが大好きです。母や乳母に止められても、あれだけはやめることができなかった。私もしょっちゅういかだから落とされたが、おかげですこぶる泳ぎが得意になれた。あなたに川に落とされた憐れな子供たちは、今ごろあなたに感謝しているに違いない」
 ジョセフ・ブラッドリーの紺碧の瞳には非難や批判は見当たらず、親密な同意と共感が惜しみなく私に向けられていた。
「お母様や乳母を困らせてばかりの腕白坊やだったのですね、ミスター・ブラッドリー。今のあなたからは想像もできませんわ」
「あなたのおっしゃるとおりだ。あの頃の私は、自分が自由貿易同盟の商工会議所や証券取引所に出入りするような男になるなど考えもしなかった」
「それならどんな殿方になろうとお考えでしたの?」
 好奇心のままに私は尋ねた。「船乗り? 木こり? それとも猟師かしら?」
 この三つなら、ジョセフ・ブラッドリーに最も似つかわしいのは猟師かしら。毛皮をまとい、猟銃を肩にかけて森を闊歩する。しなやかな狼のような狩人。
 猟師にしては、優雅で男前すぎるのが難点ね。

「海賊です」
 ジョセフ・ブラッドリーは深い笑みを浮かべて言った。「みずから海賊船を率い、世界中の財宝を独り占めしたいと密かに画策していました」
「まぁ! 名を上げる商人は幼い頃から欲張りなのね」
 弾む心を隠せず、私は声を上げた。「今のあなたは海賊そのものですわ」
 ジョセフ・ブラッドリーが首をかしげた。「今の私が?」
「えぇ、あなたはあなたの海賊船の船長です。ブラッドリー家の鉄鋼業という陸から飛び出し、みずから船を率い、自由貿易同盟という港から魔物が巣食う世界中の海へ航海する海賊」
 彼の瞳の中に “続きを話せ” という夜空の明星のような好奇心が輝いた。物珍しさに気分が高まって、私は思わず自重を忘れてしまった。
「あなたは北東部の森という宝島で財宝を見つけたのです。素晴らしい木材という財宝を。でもあなたが普通の海賊と違うのは、手に入れたその財宝をそれを求める人々に卸し売り、称賛と名声を手に入れていることですね」
「なるほど。私は夢を叶えて強欲な海賊になり果てたというわけか」
 片方の唇をつり上げ、ジョセフ・ブラッドリーは挑発的に微笑んだ。
 階級の最上位を商人が占める自由貿易同盟において、強欲という評価は賛辞であることがままある。成功者への嫉妬の裏返し。負け犬の遠吠えには感謝の礼を返す。それがここの商人たちの流儀だ。
「海賊ってとても野蛮で、それでいて同じくらい魅力的ですわ。あんなふうに自由に海を航海できたら、どれほど楽しいかしら」
「海は危険がつきものです」
 ジョセフ・ブラッドリーは真面目くさった表情で言った。「岩礁、嵐、それに魔物。冒険の楽しさは死と常に隣り合わせなのですよ。怖くないのですか?」
 彼のいかにも冷静で年長者ぶった物言いに、私の生意気な反抗心がうずうずした。
「怖いですわ。でも、嵐の波が防波堤をいともたやすく乗り越えるように、強欲は恐怖などものともしません」
 彼の顔をのぞき込むように見上げた。「だからあなたも私も、落とされる、水を飲んで鼻が痛くなると分かっていていながら、何度でも川に浮かべた船に乗り込まずにいられなかった。そうでしょう?」
 すると、ジョセフ・ブラッドリーの海のように深く青い目が、なにかとてもまぶしいものの正体を突き止めようとするように細まり、一呼吸分ほど長く私を見つめた。彼の表情から不思議なぬくもりと親密さが醸しだされた。
「認めがたいが…… そのとおりだ、ミス・ローズデール」
 ジョセフ・ブラッドリーの笑顔には、ひとを元気づける魔法がかけられているのかもしれない。メアリーに詰めよっていたときの動揺はどこかへ消えて、私はこの中庭の昼食会を心から楽しんでいた。
 このとき、雲間から射し込む太陽の陽射しが霧を散らすように、いつの間にか私を蝕んでいた不安や緊張が消えてなくなっていたことに気がついた。

 しかし、そんな私のほがらかな気分は長続きしなかった。

「ローズデール家はいまや飛ぶ鳥を落とす勢いだ」
 心底畏れ入った様子で私の真正面に座る男が言った。「そしてその家のひとり娘であるあなたは、空を飛ぶどの小鳥よりも溌剌として美しい」
 誰かこの男を黙らせてよ! 私は今にも叫びそうになった。
「これほど派手な赤毛の小鳥など、私は熱帯鳥温室でしか見たことがありませんわ」
 なるべく穏便な口調を心がけたつもりだった。しかし、ちらっと目に入ったメアリーのすがめられた目元から判断すると、どうやら失敗したようだった。
「君の情熱的な赤毛を前にしては、国中の小鳥たちは自らのみすぼらしさを恥じ入って木の巣穴に隠れてしまいそうですね」
「それでは赤毛の小鳥は憩う巣穴を見つけられそうにありませんわね」
 社交界での現状そのまま、小鳥の私は空でも仲間はずれってわけね。拗ねた皮肉を心の中でつぶやきながら、つい罵声が飛び出すのを防ぐために、私は鴨肉の香草焼きをひときれ口の中に放り込んだ。
「それなら我がウィッカム家で憩えばいい。どっしりとした大木で、いくらでもひな鳥を育てることができる。女にとってこれほど幸福なことはない」
 ぞっとした。
 鳥かごの中に閉じ込められ、ただ子を産むだけの奴隷。私はそんな自分の姿しか想像できず身震いした。
「赤毛の小鳥はまだまだ巣立ちをしたばかりですわ。ひな鳥の母になるにはとてもではありませんが早すぎます」
 真正面に座る男に言い聞かせるように、ゆっくりと一言一句はっきりと応えた。「それにまだつがいと出会ってさえいないのですから」
「おや? 赤毛の小鳥のつがいは今、目の前にいるではありませんか。大きな翼を広げ、美しい赤毛の小鳥がやってくるのを心待ちにしている金髪の雄鳥がね」
 金髪の男はすぐさま、愚かな幼子に種明かしをする手品師のように言った。
 この男は、自分が世界で最も魅力的な男だと催眠術をかけられているのだろうか。
 酔っぱらったスズメのように、頭痛と胸焼けがお腹の中を上下にかき回している。不快感を押し戻すべく、私はワインをぐいっとあおった。効き目はまったくなかった。

 このトーマス・ウィッカムのとめどない巧言令色にテーブルの誰もがうんざりしていた。うわべだけ愛想よくとりつくろった口先だけの軽々しく空疎な言葉。剥がれ落ちた金めっき。ローズデール家への媚びへつらいばかりか、見えすいたへりくだりとお追従は、彼自身の傲慢さや私に対する軽視をかえって際立たせていた。“この私が結婚相手に名乗りを上げているのだから、出戻り女のお前はすぐさま了承してしかるべきだ” と言わんばかりの厚かましい態度。あぁ、忌々しい。
 私も随分と忍耐強くなったものだ。離婚前の私だったら、間違いなくただちにトーマス・ウィッカムの下手くそで下らない比喩を罵倒し、さっさと私の目の前から消えろと命じていただろう。なぜならこの愚か者は、私の大事な女友達が私のためにせっかく設けてくれた席で厚顔無恥な振る舞いをした。私の幼馴染みとその婚約者の顔に平然と泥を塗った。許せない。
「ウィッカム、ミス・ローズデールは先日もある紳士に熱心に結婚を申し込まれて、彼への対応にそれは苦慮されていたんだぞ」
 見るに見かねたメアリーの婚約者チャールズが、トーマス・ウィッカムが執拗に私に結婚を迫るのをたしなめた。
「なんだって? それでは私はなおさら彼女が心安らかでいられるよう努めなければならないな」
 しかし彼は能天気に笑顔を浮かべ、親切な友人――というより、彼を除くテーブル全員――の真意に気付かない体たらくだった。
 主催者のメアリーは表情こそ微笑みの体裁をつくろっていたが、眼差しはなぜこんな男を連れてきたの? と婚約者チャールズを激しく非難していた。チャールズは彼女への申し訳なさと面目をつぶされた怒りをたぎらせ、トーマス・ウィッカムをにらんでいた。
楽しいはずの中庭の昼食会は台無しになりかけていた。ひとりの間抜けな男の独り善がりな振る舞いのせいで、靴紐のほどけたスケート靴で薄氷の上を猛スピードで滑っているような緊張感が漂っていた。
「やはり、ミス・ローズデール、あなたが今日私と出会ったのは運命だったようです」
 軽薄なトーマス・ウィッカムは場の張り詰めつつある空気に気付く様子もなく、さも私が彼との結婚を望んでいるかのように厚かましい発言をやめようとしなかった。
「あら、それはなんともドラマチックですこと。ですが幸いにも私はまだ二十歳ですし、今はこうして友人たちとともに時間を過ごすのが一番楽しいのです」
 ただし、その中にあんたは含まれていないけどね。
 心の叫びがトーマス・ウィッカムに伝わるよう、私は祈るように彼を見返した。
「だが、君はいつかはまた結婚しなければならないだろう? とくに女の場合、結婚は早ければ早いほどいい。女は男と違って子を産み母となる義務が――」
「私、二度と結婚はいたしませんわ」
 とうとう我慢ならず、たしなみを捨てて彼の言葉を遮った。宣戦布告を告げる矢のように、私の発言と同時にテーブルに沈黙が落ちた。私はまるで、自分が泥棒をしでかしたことを理解できない子供に罪状を言い渡す裁判官のような心地だった。
「結婚など生涯一度きりで充分です。私は決して再婚いたしません。どなたとも、もちろんミスター・ウィッカム、あなたとも」
 不快感を隠さず、驚愕と屈辱で顔を赤らめたトーマス・ウィッカムを見据えながら、ふとテーブルの空気が凍りついているのに気がついた。
 遅ればせながら、私の心は羞恥と後悔の穴に転落した。
 あぁ、なんてことなの。せっかく私のためにメアリーたちが催してくれた昼食会だったのに、私自身が決定的に台無しにしてしまった。これではトーマス・ウィッカムを責められない。どうしよう。どうしたらいいの?

「私もミス・ローズデールに同感だ」
 快活だが自然と空気を和ませるような穏やかな声が響いた。



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