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第5話 奇妙な男


 深い紺碧の瞳。ちゃめっけたっぷりの笑顔。ジョセフ・ブラッドリー。
 最後に口を開く者がそうであるように、彼はたちまちテーブル全員の注目を集めた。自信に満ちた場違いなほど明るい口調が、私たちの気持ちを強く引きつけた。
「ウィッカム、君は結婚に対して夢想が過ぎる」
 彼は不躾で無思慮なトーマス・ウィッカムを、聞き分けのないやんちゃ坊主をたしなめる年長者の眼差しで見返した。
「結婚は男にとっても女にとっても終着点ではない。そこからが始まりなんだ。そこに至るまでの労苦より、そこからの苦難の方がはるかに厳しいものなんだよ。女性が母になる義務があるように、男には父になる義務がある。しかしそれは、女性が母になることより難しいのではないかな?」
 三文喜劇のように結婚一週後に夫に駆け落ちされた私と違い、挙式の一ヶ月後に不慮の事故で妻を亡くした男の言葉は重みが段違いだった。
 ジョセフ・ブラッドリーの笑顔とまるで対照的なテーブルの面々の冷ややかな無言の非難にようやく気付くと、のろまなトーマス・ウィッカムは黙り込んだ。
「あぁ、ウィッカム、私は君の奥方に会うのが今から楽しみだ」
 ジョセフ・ブラッドリーの快活な笑顔がさらに輝いた。
「きっと美しく聡明で貞淑で夫に心から従順で、女としても妻としても母としても一点の欠点もない淑女に違いない。そして君は夫として父親として妻と家庭に忠誠を誓い、生涯に渡って完璧に義務を果たしていくことだろう。素晴らしいことだ。私はこれまで二十八年間生きてきたが、いまだそんな女にも男にもお目にかかったことがない」
 トーマス・ウィッカムは頬を引きつらせた。
 私は驚いた。この軽薄な男にも、自分よりはるかに男前で商人としての評判も上々なジョセフ・ブラッドリーの痛烈な皮肉に気付けるだけの知性があったのだから。

「ミスター・ブラッドリー、本日は私の不作法を助けていただきありがとうございます」
 レイノルズ家からおいとまする間際、壮麗なゴシック様式の玄関ホールの端っこで、私はこっそり彼に声をかけた。
「いや、私もまったく同感だったからね」
 ジョセフ・ブラッドリーは気安げに言った。
「まぁ! あなたも二度と結婚しないと決めていらっしゃるの?」
 なんてもったいない、という気持ちは、きっと表情に出ていただろう。
 ジョセフ・ブラッドリーが、私に一歩踏み出した。むきたての瑞々しい柑橘類、甘く焦げた葉巻の煙、それに極上のブランデーが混じった重厚な香り――夜の庭で、私を優しく包み込んだあの男らしいスパイシーな匂い――が、私の鼻先を優しくくすぐった。
 父と兄、かつての夫をのぞいて、私はこれほど男性に顔を近づけられたことはなかった。ジョセフ・ブラッドリーの瞳の色が一様ではないと分かるほど、彼は私と近づいた。彼の瞳は虹彩の外周がコバルトブルーでふちどられていた。浅黒い肌のなめらかな肌理や、きれいに剃った髭が少し伸びかけて影をつけている顎を、これほど間近に見たことはなかった。これは明らかな社交界の規約違反、不適切な振る舞いだ。
 いきなりこんなふうに近づくなんて、ジョセフ・ブラッドリーは実はひどく礼儀知らずで無礼な男なのかもしれない。いかにも真面目で誠実な青年実業家といった風情だけれど、裏ではとんでもない女ったらしなのかも。年長者ぶって私を弄び、内心愉しんでいるのかもしれないわ。
 ジョセフ・ブラッドリーのいい匂いにうっとりするまいとして、私は十三歳の小娘だったときの反抗的な気構えを思い出そうと試みた。
 全然うまくいかなかった。
 あまりに一瞬で心臓がうるさくなったので、森を歩いて不意に狼に出くわしたらこんな気分になるのかしら、と今度は場違いな空想で騒々しい鼓動を誤魔化そうとした。

「俺が女だったら、あいつとは決して結婚しない」
 とびきりの秘密を打ち明けるように、ジョセフ・ブラッドリーは悪戯っぽく私に微笑んだ。なみはずれて鮮やかな紺碧の瞳が人懐っこくきらめいた。太陽を照り返して輝く海のように眩しく、美しい瞳。やや粗野なくだけた口調さえ、彼の唇から発せられれば、その知性や快活さを彩る鮮やかな絵の具になることを私は知った。
「それはこれから伸びゆく若木を、暖炉の炎の中に投げ捨てるようなものだ。その点で、まったく君と同感だったんだ」

 正直に公言するのははばかられるけれど、ジョセフ・ブラッドリーと議論を交わすのは時間を忘れるほど楽しかった。

「本当にあの古代都市へ行ったのですか?」
 ある晩の舞踏会、彼が大学を卒業した直後、対岸の大陸の諸国を旅したときの話に私は夢中になっていた。「円形競技場や地下水道、それに大聖堂もご覧になったの?」
「私は水上都市のほうが気に入りましたね」
 私の矢継ぎ早の質問に答えながら、彼は私を珍種の小鹿でも眺めるようにおかしそうに見やっていた。「ミス・ローズデール、あなたもいつかぜひ行ってみるといい。南端の共和国も素晴らしかった。あれほど高い文化と歴史がある国なのに、土地も人々もどこか素朴な風情を残している。内海に浮かぶ東端の島がとくに野趣豊かでね。かつて栄えた高度な文明が滅びてしまったという点から見て、かの古代哲学者が唱えた神話の大陸のモデルになったと言われている」
「ミスター・ブラッドリー、あなたはその神話の出来事が実際起こったとお思い?」
 私は勢いづいてまくしたてた。「最近、帝立協会に提出された何点かの論文に、その神話が事実だった可能性があると指摘するものがありました。とくにスタンブリッジ大学のプラクストン教授の論文は非常に興味深い内容でした。でも、到底信じがたいものでした。はるか遠くにある火山の噴火による衝撃で巨大な波が生じ、都市国家がまるごと海に呑み込まれ沈んでしまったなんて。それこそ神の仕業のほかに起こりうるのでしょうか?」
 ジョセフ・ブラッドリーの並みはずれて鮮やかで深い青の瞳が、いくらか驚いた様子で見開かれた。はっと我に返ると、そのときすでに私は優雅な微笑みと冷ややかな視線に取り囲まれていた。
「まぁ、ミス・ローズデールはなんて博識でいらっしゃるのかしら」
「帝立協会の論文を読むなんて、まるで学識を積んだ殿方のようですわ」
「私たちはふだん、古典やロマン主義の詩集しか読みませんもの」
 淑女たちは同意の微笑みを交わし合い、紳士たちは彼女たちを称えるようにうなずいた。あら、驚いた! あなたたち、社交界名鑑以外の文字を読めるの!? いいこぶりっこの女たちに内心悪態をつきながら、私は唇を噛んだ。
 あぁ、またやってしまった。
 こうして場もわきまえず殿方に質問や議論をふっかけたりするから、私は礼儀知らずの出しゃばり女と煙たがられるのよ。私は数人の紳士や淑女たちの異物を眺めるような冷笑を浴びていた。離婚をしてから、大勢の人が集まる社交の場でこうした振る舞いを控えるよう心がけてきたのに。
「あいにく私は考古学の専門家ではないが、実に面白い仮説だと思います」
 ジョセフ・ブラッドリーが私に微笑みかけた。「みなさんのおっしゃるとおり、ミス・ローズデールは実に博識だ。教養の豊かさは淑女が最も誇るべき美点です。難解な論文を読み理解できる知性は天より賜った贈り物であり、彼女自身が磨き上げた貴重な財産だ。私は昔から議論を交わすのが大好きなのです。だから、ミス・ローズデール、ぜひまたあなたの意見をお聞かせ願いたい」
 不満と困惑、なにより驚きを隠せない様子で、紳士と淑女たちは彼を見た。頭の切れる商人である彼がそれに気付かないはずはなかったけど、彼は自分に向けられた感情を意に介す様子はなかった。

 また別のある日のこと。
 私は母方の伯父夫妻が所有する東海岸保養地の屋敷に招かれていた。
 まだ日が昇りきらないうちから、伯父を始めとするマス釣りに目がない数名の招待客たちは、裏のテラスで大急ぎで朝食をとり、ツイードや硬いあや織りのリネンで仕立てられた釣り用の服を身につけて川へ繰り出して行った。眠そうな目をした召使いたちが、マスのいる小川まで紳士たちの供をし、釣り竿やびく、それに毛鉤(フライ)等の道具が入った木の箱を運んだ。男たちがこうして午前中の大半を釣りをして過ごす間、女たちはたっぷり朝寝坊するというわけ。
 私以外の女はね。
 私は子供の頃から釣りが好きだった。でも、殿方たちの釣りの仲間に入れてもらうのは極めて難しいだろうと経験上わかっていた。ローズデール家が北東部に所有する牧場周辺の川によく祖母と釣りに行ったものだけど、あいにくここに祖母はいなかった。
 ひとりでそそくさと朝食を済ますと、お気に入りの釣り竿を持って、伯父がたくさんマスを飼っている人工池に向かった。
 美しい初夏の朝だった。やわらかな空気を胸一杯に吸い込むと、あふれんばかりに咲き誇る花々の上品な甘い香りに包まれた。きれいに刈り込まれた草地を横切り、桑の大木を回ったところで、思いがけない音が聞こえてきた。口笛だ。静かに耳を傾けると、聞き覚えのあるメロディーだった。春先に街で流行っていた『夜明けを待てず』という歌だった。
 朝の澄んだ空気に目を凝らすと、川のほうから誰かがこちらに歩いて来ていた。その人は手にびくを持ち、つばの大きな帽子を目深にかぶっていた。釣り用のツイードの上着とざっくりとしたズボンが、彼の肉体のたくましさをより一層際立たせていた。
 私の姿を認めると、彼は口笛を途中でやめて立ち止まった。彼は人懐っこい微笑みを光らせると、帽子を取って私に挨拶した。たっぷりした黒髪が朝の陽射しを受けて、濡れたカラスの羽根のように輝いた。
「おはよう、ミス・ローズデール」
 ジョセフ・ブラッドリーは軽快な足取りで近づいてきた。
「ミスター・ブラッドリー、おはようございます」
 彼はからかうように私を見つめ返した。
「淑女の朝はゆっくり始まるものだと聞いていたが?」
 ジョセフは私の釣り竿を確認すると、わざとらしく私をからかった。なんという不届き者だろう。でも、彼の親しみと礼儀正しさを感じさせる不思議な愛嬌を目の前にすると、いつも口元がにんまりしそうになる。これを誤魔化すのはなかなか大変なのよね。
「早朝、散歩に出かける淑女なんて、尼僧のように慎ましそうで素敵でしょう?」
 私はこれみよがしに釣り竿を持ち上げた。「ところで、あなたはどうしてみなさんと釣りをしていないの?」
「もうすでに、びくが一杯になるほどマスを釣ってしまったんだ。あんまりたくさん釣りすぎると、ほかの人に悪いだろう?」
「まぁまぁ、ずいぶんと親切で礼儀正しいこと」
 私は意地悪な笑みを作ってジョセフ・ブラッドリーを見返した。「竿がないようだけど、どうなさったの?」
「君の伯父上に貸した」
「なぜ?」
「あの竿は、北東部の森で暮らしていた頃から使っていたものだ。しなやかで強靭なヒッコリー材の竿で、先は柔軟なアッシュ材でできている。現地の木こりたちが伝統的に愛用しているものを参考に作らせた。リールはマルチプライングリールでバランスクランクハンドルがついている」
「マルチプライングリールはすぐ釣り糸が絡まるわ」
 私は物知りぶって言った。「だから私の釣り竿はクランプフットリールなの」
「最近、急速に改良が進んでいるよ。俺が巻き付けから直接釣り糸を投げているのに気づいた君の伯父上は、有無を言わせず俺から竿を取り上げた。彼は今、これまでにないほどマス釣りを満喫しているだろう」
 伯父が流行や新しいものに目がないことを知っていたので、私はジョセフ・ブラッドリーに憐れみの目を向けた。
「大事な釣り竿を奪われて可哀相に、ミスター・ブラッドリー」
 ジョセフ・ブラッドリーは余裕しゃくしゃくの様子でまぶしそうに目を細めた。
「釣り竿を持った淑女を前にこのまま屋敷に戻れるほど、俺は不作法者ではない。哀れな俺を釣りの供にどうだい? リディア」

 私たちは美しい人口池のほとりで、のんびりとマス釣りに興じることにした。私が池に釣り針をたらしている間、ジョセフは黄色いキンポウゲや薄ピンクのセンノウの花が絨毯のように覆う草地に悠々と寝転んでいた。
「ねぇ、ジョセフ、ゆうべからずっと聞きたかったんだけど、スズカケノキ協定について教えてもらえないかしら?」
 この前の晩、彼や若い商人たちは、「最短輸送経路の確保」だとか「販売流通網の不足」だとか「生産量当たりの利益」といった言葉が含まれる議論に熱中していた。そうした議論に参加することを決して許されない、私たち女がすぐそばにいるにもかかわらず。だから、私たち女は懸命に闘っていた。私以外の淑女たちは油断すれば表情に現れる退屈と。私は好奇心のままに質問を投げかけたい欲求と。
「君は俺たちの議論に参加するのを懸命にこらえていたね」
 ジョセフ・ブラッドリーはくつろいだ調子で指摘した。「俺はいつ君が俺たちに奇襲を仕掛けてくるか楽しみにしていたのに、残念だったよ」
「紳士の世界に淑女を手引きするなんて、協定に反する裏切り者よ」
 私は笑いをこらえながら言った。「急いで社交界の紳士全員にお知らせしなきゃ」
「俺のような不出来な紳士には共犯者が必要なんだ。リディア、君のような共犯者が」
 優しいそよ風が、可憐な花々と豊かに波打つ黒髪を揺らした。
 一瞬――だったはず――の沈黙は、元気なマガモの鳴き声で破られた。
「スズカケノキ協定というのは、自由貿易同盟証券取引所の発端となった取り決めなのよね?」
 頬の微熱を追い払うように、私は早口でジョセフ・ブラッドリーに問いかけた。
「そのとおり。証券仲立人が徴収する最低限の手数料を決め、一切の割引を行わないことを約束したんだ」彼は穏やかに微笑んだ。「続けて料金体系妥協案の説明をしても構わないかな?」
「私でも分かるようにかみくだいて話してもらえると助かるわ」
「君に、市場動向の不均衡が十五年前の暴落の原因になったという俺の説明をぜひ聞いてほしい」
 ジョセフは悪戯っぽい微笑みを放って言った。「世界中の乳母の誰よりも素晴らしい子守唄だと、人によく言われる」

 と、そのとき、釣り竿の先がものすごい力で引っ張られた。私はつんのめり、あと少しで池に転げ落ちてしまうところだった。
「脇をしめろ。竿を引いて垂直にするんだ」
 耳の真後ろでジョセフの声がした。彼は私を援護するように背後に立ち、力を分け与えるように両手を私の手の上に重ね合わせた。「よし、リールを巻こう」
「すごい力よ! 本当にマスなの?」
 不安に駆られ、私は叫んだ。
 マスはせいぜい大きくても三〇センチ、重さも七〇〇グラム程度のはず。まるで三匹同時にかかったかのような引きの強さだった。
「これは大物だな。平和な池の底でずいぶん大きく育ったようだ」
 ジョセフは少年のように愉快そうな声を上げた。「今日の夕食はマスのムニエルで決まりだ。屋敷中のみんなに食べさせてやれそうだな」
 私の肘と脇が離れないよう、ジョセフはがっちりと手を添え、頼りない私の代わりにリールを巻こうとハンドルに手をかけた。
「やめて! 私の獲物よ! 私が釣り上げるの!」
 慎みとわきまえを忘れて私は叫んだ。
 とんでもなく無礼な暴言だったけれど、このときの私は目の前の獲物を我が手で釣り上げることに必死でそれどころではなかった。
「へっぴり腰になっているぞ。もっと両足に力を入れろ。竿は垂直に。それ以上寝かせたらもっていかれるぞ」
 ジョセフは愉快そうに高揚した声で私を鼓舞した。
 私は自分の力で懸命に粘り強くリールを巻いた。肩や腕が痺れ、釣り竿とリールハンドルを握る手がこすれて痛かった。膝はぶるぶると震え、太ももはがちがちに固まっていた。少しでも油断すると、池の底に引きずり込まれそうだった。
 そのときは不意に訪れた。竿を引っ張る力が一瞬、弱まった。「今だ!」ジョセフが声をあげるよりも早く、私は勢いよくリールを巻いた。ジョセフが釣り竿ごと私を引き上げるように後ろに抱き寄せた。その拍子に私は彼の上に落下するように倒れ込んだ。

「リディア、怪我はないかい?」
 ジョセフの声は真横から聞こえた。私たちは二人並んで草地の上にしりもちをついていた。そして、大きさが一メートル弱、重さは二キロはありそうな、見たこともないほど巨大なマス――らしき魚――が、私のスカートの上で元気一杯に飛び跳ねていた。
「えぇ、平気よ…… ところで、これは本当にマスなの?」
 私は呆気にとられてつぶやいた。
「信じがたいが、俺のびくに入っているマスを大きくしただけのように見える」
 さすがのジョセフもぽかんとした顔をしていた。
「この子はあなたのびくに入るかしら?」
 淑女のスカートを汚すという暴挙を続けるマスを見つめながら、私は彼に尋ねた。
「からっぽでも、せめて半分に切らなければ無理だ」
 巨大なマスはジョセフに抗議するように大きく跳ねた。
「この子は私が釣り上げたのよね」
 目の前で威勢よく跳ねる巨大な魚を自分が釣り上げたとは、到底信じられなかった。
「そうだ、リディア。君が釣り上げた君の獲物だ。淑女に手を貸そうとして、これほどきっぱり拒絶されたのは初めてだよ」
 ジョセフは拗ねたように私を非難したけど、その眼差しは見紛うことなく愉快そうにきらめいていた。
「あぁ、ジョセフ、ごめんなさい」
 声が震えて口元がほころびそうになるのを、私は懸命にこらえた。「私ったら宝物を独り占めしようと企む強欲な女海賊みたいだったわね」
「まさにそのとおりだ。君ほど強欲で見事な海賊はいない。あっぱれだよ!」
 たっぷり振られてからコルク栓を開けられた発泡ワインのように、私たちはあたりにはばかることなく盛大に笑い声をあげた。私は分厚い絨毯のような草地にあおむけに倒れ込んだ。ジョセフも私の真横にあおむけになった。新緑の木々の葉を揺らすそよ風、アカゲラの愛らしい鳴き声、私のスカートの上で飛び跳ねる巨大なマス。朝の太陽の光がジョセフの上を滑っていき、長い睫毛を照らし、目尻から放射状に広がる深いしわをとらえ、大きく開いた口からのぞく白い歯を輝かせた。海よりも深い彼の瞳の青さは、日に焼けた肌にはっとするほど映えていた。彼のなめらかな頬に触れ、長い睫毛をなで、彼がもっと笑うのを見たかった。心臓がどきん、どきん、と何度か大きく鳴って、それからすごい速さで鼓動しはじめた。
 こんなふうにお腹の底から声を上げて、心から笑ったのはいつ以来だろう?
 草地の上で気が済むまで笑い転げると、私たちは慎重に巨大なマスから釣り針をはずし、池に帰してやった。
「あいつのせいでずぶ濡れの泥まみれだ」
 文句を口にしても、ジョセフはまるで困った様子が見られない。
「使用人用の入り口から屋敷に忍び込まなきゃならないわね。こんな姿を見られたら、お母様からしばらく家の外に出してもらえなくなるわ」
「俺も一緒に戻ろう」
 乱れた黒髪を帽子に押し込み、びくを右手に持つと、ジョセフはエスコート役を申し出るように左肘を差し出した。「ついでにこの屋敷の使用人用の入り口を教えてもらえるとありがたい。今後のためにね」

 ジョセフ・ブラッドリーは私が出会ったことのない奇妙な男だった。
 私が質問をしたり議論を投げかけても、ほかの紳士たちのように無視したり、黙らせたり、追い出そうとしたりしない。
 臆面もなく私を名前で呼び、私から名前で呼ばれることを歓迎する。
 私を非力でひとりではなにもできない弱き者として扱わない。きっと私が頼めばすぐさま手助けや力添えをしてくれるだろう。彼が直接手を下すほうが、よほど手っ取り早く楽なはずだ。それでも、粘り強く、忍耐強く、のろまな私がみずから獲物を獲得する様を見守ってくれる。
 ほかにも社交界の暗黙の規約のいくつかを平然と破っているにもかかわらず、私と違って決して評判は下がらない。謎だらけの不思議な紳士だった。

 予感は確信に変わった。この男とはウマが合う。
 そしてそれは的中した。勘の鈍い私にしては珍しい大当たりだった。



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