「私の娘を妻に決めることができない理由は何なのだ? この子は若く美しい。もちろん家柄も持参金も申し分ない。この子以上にいい相手がいるとでも思っているのか? ミスター・ブラッドリー、君が何を求めているのか私はさっぱり分からんよ」
ジョセフが女に何を求めているのか分からないように、彼は自慢の愛娘にすでに恋人がいることも分かっていなかった。
そして彼の隣で、こんな場所からは一刻も早く逃げ出したいという顔をした彼の愛娘ジェシカ・ワイナーが「ミスター・ブラッドリーだろうと誰だろうと、あの人以外の男とは絶対に結婚しないわよ!」と私たち幼馴染みの女友達に息巻いていたことなど、知る由もなかっただろう。
ジョセフが壁際にいた私を見つけ、一緒に友人たちの集まりに連れて行こうとした矢先、運悪く、以前から彼に娘を妻にするようしつこく迫っていたミスター・ワイナーに捕まってしまった。彼はジョセフが誰と一緒にいようが、彼がひとりでいるようにしか見えないというふうに振る舞う類の男だった。
「あなたのご息女、ミス・ジェシカ・ワイナ―は素晴らしい淑女です」
細い糸の上を歩く綱渡り師のように、ジョセフは慎重に答えた。
「ですが、もし万が一もう一度結婚するなら――願わくば――何十年も共に過ごすわけですから、この人と共に生きたいと確信できるまでは急いで結婚する必要はないと考えているだけです」
「ミスター・ブラッドリー、君はそんなことを気にしているのか! 寝室は暗いから女などみな同じさ」
娘を伴いながら、ミスター・ワイナーはその名のとおりワイン樽のようにまんまるく張り出したお腹を揺らして笑った。どうやら彼は、私はもちろん、自分の真横にいる娘がその女であることを完璧に失念しているようだった。
「夜のことより朝のことを心配しているんです」
穏やかな表情を懸命に保ちながらジョセフは言った。「朝食のテーブルについたとき、まず心から愛する人の笑顔を見たいですからね」
「それなら愛人をこしらえれば済むことじゃないか」
ミスター・ワイナーはコーヒーに角砂糖を入れるほどの気安さで言った。「午前中はその女と過ごせばいい。これで万事解決だ。さて、我が娘なら朝も夜も君に喜びを与えてやれるぞ。実に楚々として美しいだろう?」
自分の隣にいる娘とその友人が不快感と嫌悪感の限界を訴え、淑女らしからぬ眉間の縦じわで苦痛を表現していることに、彼はまったく気がついていなかった。もっとも、ジョセフに自分の娘を妻にと勧めておきながら同時に愛人を作ることを奨励するような男だ。娘や私のそんな
彼は二十年以上もの間、次から次へと女優や娼婦を愛人にしてきた。この社交界のほかの男たち同様、彼も自分のその行動に何の罪悪感も抱いていないようだった。その証拠に、奥方が急逝したこの頃、臆面もなくさっそく自分の娘ほどの年齢の愛人を舞踏会や晩餐会に連れてくる見事な面の皮の厚さを披露した。この晩の舞踏会でも、その愛人が目立たない場所――と彼女は思っているようだ――から彼をじっと見つめていた。
ミスター・ワイナーと彼の娘ジェシカが立ち去ると、ジョセフは一瞬だけ、出し殻で入れた濁ったお茶を飲まされたような苦々しい顔になった。
「リディア、君は君の父上のもとに娘として生まれたことを神に感謝しなければならないな」
「もうとっくにしているわ」
私は即座に返した。ジョセフが唇の端だけでにやりと笑った。このときほど、父のありがたみを実感した瞬間はなかった。
ジョセフと私が、彼の友人やその妻、婚約者が陣取っていた大広間の一角に行くと、一斉に同情の眼差しが彼を出迎えた。
「我らの友人は今宵も嵐の中から無事生還できたようだ!」
彼の男友達のひとりは明るくそう言うと、帰還を祝う乾杯のように手にしていたワイングラスを持ちあげた。「いやはや、いつものことながら特大の嵐だったな。ブラッドリー、我々は君が溺死させられなかったことに心から安堵しているよ」
「ありがとう。このとおり、頼もしい操舵士が一緒にいてくれたからね」
ジョセフは私の手を引いて長椅子まで連れて行ってくれた。「ミス・ローズデールがいなければ、私は今頃海の藻屑と化していただろう」
扇子の裏で忍び笑いを漏らす淑女たちを横目に、いまさら社交界で上品ぶる徒労を払う気などなかった私は、長椅子に腰を下ろすと扇子をたたんだまま口元を歪めた。
「ミスター・ブラッドリー、あなたって社交界では踊っているか溺れかけているかのどちらかよね。哀れな人」
私の生意気な物言いに、数名の紳士と淑女から咎めるような視線が矢のように飛んできた。
「ミス・ローズデール、私はこれでも水泳は得意なんだ。ただそれは穏やかな海に限る。いかなる荒波をも鎮める
当の本人、ジョセフは飄々としたものだ。
「まぁ、可哀相に。大いなる海の中ではジョセフ・ブラッドリーもただの人ね」
いくら鉄鋼王ブラッドリー家の御曹司で辣腕の材木商とはいえ、社交界ではジョセフはまだ若輩者のひとりでしかなかった。
「私はまだ二十九歳の若造だからね。大海を懸命に泳ぎ回る稚魚のようなものさ」
ジョセフは私の揶揄などものともせず、いかにも年長者ぶった微笑みを返した。
「できることなら、健やかに太陽の陽射しを浴び、帆をふくらます貿易風が吹く海を航行したいものだ。時間を奪われたように凪いだ海でも、命懸けで舵取りをしなければならない時化た海でもなく」
「まぁ、情けないこと。ミスター・ワイナーとその女友達は、海が凪いでいようと時化ていようと、幸福極まりない航海を続けているというのに」
上機嫌で愛人の腰をさするミスター・ワイナーを遠目に一瞥して私は言った。
私の視線を追ったジョセフの眼差しは、海面に浮かぶ藻屑を見る水兵のものだった。
ジョセフが風に恵まれた穏やかな海を望むのももっともなことだ。
時間を奪われたように凪いだ海――例えば、果てしなく延々と続く淑女とのおしゃべり――や、命懸けで舵取りをしなければならない時化た海――彼女たちの父親から娘の夫になるよう迫られているとき――など、たとえ百戦錬磨の海の男であっても、避けられるなら避けて通りたいはずだ。
まだ二十九歳の男なら言わずもがな。
「ミスター・ワイナーとあの方、とてもお似合いですわ」
私の近くにいたひとりが、いかにも心根の優しい淑女といった声色で言った。
「奥様を亡くされて寂しいでしょうし、あの方がミスター・ワイナーの心を慰め励ましていらっしゃるのでしょうね」
もうひとりの淑女が続けて言った。若い紳士たちはわざとらしく感心した様子でうなずいた。私は白けた退屈を隠さず鼻を鳴らした。
彼女たちはつい先日、柱の陰で女たち数人で彼らを “ガマガエルとナメクジ女” と嘲笑していた女たちと同じ顔をしていたけれど、私の記憶違いだったのかもしれない。
「えぇ、そりゃあそうでしょう」
皮肉と侮蔑を隠さず私は笑った。「オールのない舟のように行き先を定められず海を行き来する男と、舟から滑り落ちて波間を漂うオールのような女。これ以上、似合いの二人はいないわ」
ジョセフや、彼の男友達数人までもが笑い声を上げた。礼儀と遠慮をわきまえない私の言葉に、淑女たちはかまととぶって口元の扇子を揺らし、男たちは訳知り顔で目配せをし合った。
「もっとも」
今にも氷柱の矢で射殺さんばかりに父親の愛人をにらみつけるジェシカの様子に気を揉みながら私は続けた。「彼があの若い女友達を妻に迎えるには、まだ多少時間がかかりそうだけれど」
ミスター・ワイナーの愛人が、彼の後妻の座を狙っているのは火を見るよりも明らかだった。私の大切な幼馴染みジェシカにとって、“お前の父が生きている限り、平和のあらゆる希望を諦めよ” なんてことになりませんように。
「では、ミス・ローズデール、君ならどうすればいいと思う?」
斜向かいの肘掛椅子に深く背中を預け、ジョセフは明らかに期待をこめた眼差しで私を見ていた。「一日でも早く、あのオールが舟とひとつになるためには」
乳母や家庭教師を長年嘆かせてきた私の率直すぎる不作法な物言いにも笑みを崩さず、むしろ面白がって次を促す奇特なこの紳士は、これまで私が出会ったことのない奇妙な男だった。
「よそへ行けばいいのよ」
そのまま帰ってくるな、と願わずにはいられなかった。
「よそへ?」
ジョセフが首をかしげた。彼の友人たちも訝しげに私を見返した。
「そう。東海岸保養地ではだめ。もっと遠く、たとえば、南部の保養地とか国外の療養地とか、ここから遠く離れた場所ならどこでも構わないわ。彼には療養に行くと言伝を残すの。彼との先の見えない関係を悲観して死にそうになっていると思わせるのよ」
「それで、その後は?」
「そうしたら彼は彼女をずっとそばに置いておきたくなるわ。あとは彼女の思うがまま。そのために彼女がすべきなのは」
いったん言葉を切ってジョセフに微笑むと、私は周囲を見回した。彼らの目に、“生意気で小賢しそう” または “男をたらしこむ娼婦のよう” と評判の挑発的でかわいげのない笑顔が映っていたことだろう。
「ここに戻ってきたとき、自分がこの自由貿易同盟の社交界で最も教養豊かで、最も機知に富み、最も美しく、最も魅力的で、どんな男でもたちまちに魅了できる最高の女だというふうに振る舞うことよ」
ジョセフとその男友達、彼らの妻や婚約者までもが言葉を失い、一様に冷ややかに女優崩れのあの愛人の姿を思い返していた。
「私も彼女には荷が重すぎると思うわ」
私は澄まして言った。「でも、途中までは来ているじゃないの。なんといっても今、女として選ばれているのだから。男を繋ぎとめるちょっとしたコツさえ学べば、彼女は明日にでもミスター・ワイナーの妻になれるわよ」
妻の身分を手に入れたところで、しょせんそれは彼女の肩書きが愛人ではなくなるだけだ。そして彼女が今いる場所に、彼女に代わって愛人という肩書きを得た新しい女が居座るようになる。
ヴァイオリン奏者が同じ音楽を演奏するのにいくつかのヴァイオリンを必要とするといわれているように、男は四六時中、ひとりの女を愛しえない、というようなことが、どこかの作家か哲学者の本に記述されていたもの。
それほど現実からかけ離れた指摘ではない。
少なくとも、この自由貿易同盟の社交界においては。
「ミス・ローズデール、ご高説のわりにずいぶん簡単に片付けてくれるじゃないか」
右隣から不満の声が上がった。
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