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第7話 蛇とネズミ


 あら、話しかけてくるなんてずいぶん久しぶりじゃないの。
 思わずこぼれそうになった言葉を呑み込んでから、私は彼の方に顔を向けた。

「そんなものですわ、ミスター・ホフマン。彼は所詮、ただの男ですもの」
「言葉には気を付けるべきだ、ミス・ローズデール」
 自分たちの性別を軽くいなされ、私の右隣に座っていたローランド・ホフマンは顔全体に私に対する冷笑を浮かべた。
「我々男が今の地位にいるのは偶然ではない。君のような美しい女という誘惑に耐え、命を賭けて冒険に挑み、航路を作り交易を結び、大いなる恩恵と権力を選び取ってきたからだ。その力を利用し、そこに留まるための法と仕組みを作ってきたからだ。我々男は過酷な道のりを耐え歩み進んできたからこそ、今の栄誉があるのだ。君のように自由に実家を出たり入ったりしながら気ままに生きている女とは違うのだよ」

 ローランド・ホフマンは勝ち誇ったような表情で私を見た。
 彼の母親はジョセフの父親の妹だ。従兄弟なのに、彼はジョセフとほとんど似ていなかった。ローランドはホフマン家の容姿を受け継いでいるのだろう。ジョセフより身体つきも顔つきも若干細身で、髪の色は黒ではなく金茶色、青みがかった灰色の目はジョセフよりだいぶ色が淡い。
 木こりたちと一緒に森の中を歩いたり、ましてや衣服が濡れるのを承知で川に浮かぶいかだに飛び乗るような振る舞いは決してしない。東海岸北部にある名門大学の巨大な図書館で革装丁の文献をひもといたり、高等裁判所の判事席でふんぞりかえっているのがお似合いの、いかにも博識で頭が切れそうな若者だった。
 私は目だけでさっと周囲を見回した。
 多くの目線が私に注がれていた。籠の中に蛇を投げ込まれたネズミが、必死に逃げ惑う様を心待ちしている目。ジョセフだけが眉根を寄せ、唇を引き結び、拳を固く握り締めていた。
 どうやら、ローランド・ホフマンの発言が私への非礼に当たると見なしているのは、この場でジョセフただひとりだけのようだった。男たちはおろか、彼らの妻や婚約者までもがローランド・ホフマンの言葉を支持していた。
 なるほど、女は黙って男に従っていればよろしい、というわけね。
 教典でもそう推奨されている。
 『聖ティモシーの手紙、書簡第二巻』の第十一節のあの部分よ。

 “女、汝つねに静かにあれ。よく頼る心をもって教えを受けよ。女が教え、男を支配することは許されぬ。女よ、汝ただ静かに男に従いたまえ。”

 冗談じゃないわよ。

「おっしゃるとおりですわ、ミスター・ホフマン」
 腰をねじって身体ごとローランド・ホフマンの方を向き、私は意識して唇の両端を吊り上げた。
「でも今は高度な政治や貿易の話をしているのではありません。ミスター・ワイナーの話です。歴史を振り返れば、ベッドの中で国を動かす一大事が起こったこともたびたびあります。ですが彼はそのときの国王陛下や権力者ではありません。ただ歳を取っただけのドラ息子です。少なくとも私はそう見なしています。でもあなたはそうではないご様子ね、ミスター・ホフマン。あなたは、彼がこの国を動かすほどの権力と才覚を持つ偉大な男だと考えていらっしゃるようだもの」
 ローランド・ホフマンも彼を支持していた男たちやその妻たちまでもが、唖然となって私を見返していた。どうやら彼らは、私があのまま黙りこくると決めつけていたようだ。

 そんな中、ジョセフだけが驚いた様子もなく私に苦笑いを向けていた。
 しかし、それはすぐさま怖いほど真剣な表情に変わった。“厳格” とか “峻烈” と表現できるほど冷徹な眼差しだった。
 まるで、森の調和を乱す愚か者に襲いかかろうとする狼だった。
 並はずれて深い紺碧の瞳が、静かにローリーを見据えていた。

 私はなぜか危機感――なにかとんでもなく恐ろしいことが起こりそう――に駆られて、慌てて閉じかけていた口を開いた。
「私は、あなたやミスター・ワイナーのように “大いなる恩恵と権力を” 持つ偉大な殿方ではありません。ただ “自由” で “気ままに生きている” だけの憐れな出戻り女です。ですから、私はあなたほど奇特でも謙虚でもないのです。家柄と親が残した財産しか取り柄のない好色な中年にまで敬意を払える、ミスター・ホフマン、あなたほどにはね。彼の娘ミス・ジェシカ・ワイナーは私の大事な幼馴染みのひとりです。彼女は私にとって信頼と敬愛に値する素晴らしい友人ですが、そんな友人の父親が父親として、ひとりの紳士として、同じように尊敬に値する人間であるとは必ずしも限らないのです。私は、ミスター・ホフマン、あなたのようにすべてのあらゆる殿方に敬意を払えるほど寛大な心を持ち合わせておりません。私は狭量で礼節を欠く未熟な女です。ミスター・ワイナーと同じく輝かしい栄誉にあずかっていらっしゃるミスター・ホフマン、不躾で愚かな私をどうぞご容赦くださいませ」
 私は目尻と唇の端をくっつけるように深く微笑んだ。
 毒蛇の頭髪を持ち、自身を見た者を石に変える神話の魔女にでも出くわしたように、ローランド・ホフマンは私を凝視したまま石像のように微動だにしなかった。私にぶつけた言葉をもじられ投げ返され、そのうえあの厭らしいミスター・ワイナーと並んで扱われた屈辱や、友人たちの前で過剰な賛辞まで浴びせられた羞恥のためだろう。

 これでも、結婚するまで、彼とはそこそこ仲のいい幼馴染みだったというのに。

「ローリー、あなたのその偉そうな口ぶり、子供の頃から全然変わらないわね」
 私はローランド・ホフマンに顔を近づけて耳打ちした。額と額が触れ合いそうな距離で、青みがかった灰色の瞳が驚きに見開かれ私を凝視した。不快感や苛立ちとは異なるえもいわれぬ感情が見え隠れしたけれど、すぐ彼から目を逸らしたので正体を突き止めることはできなかった。彼がむきになって反論を仕掛けてくる前に、私は長椅子から立ち上がった。
「私はそろそろ失礼いたしますわ」
 ところがほぼ同時に、なんとも間の悪いことにオーケストラがワルツの出だしを演奏し始めた。演奏中に大広間を出ていくのは最低のマナー違反のひとつだ。
 でも、これ以上この場に居るのは耐えられそうになかった。
 すぐさま私の隣に大柄な黒い人影が静かに歩み出た。
「ミス・ローズデール、私と一緒に踊りましょう」
「まぁ、ミスター・ブラッドリー、お誘いいただけて嬉しいわ」
 差し出されたジョセフの手にこれ幸いと自分の手を乗せ、私たちは大広間の真ん中の踊りの輪に滑り出した。春らしい軽快なワルツの旋律に、色とりどりのドレスの裾がそよ風に揺れる花びらのようにひらめいていた。

 もっとも、私の胸の内はかろやかな春爛漫というより、色褪せた晩秋の木枯らしがぴったりだったけれど。

「不愉快な思いをさせてすまなかった」
 踊りながらジョセフは気まずげにささやいた。
「あなたが気にすることじゃないわ」
 私は肩をすくめた。もうさんざん慣れているから、と付け足すと、かえって彼の罪悪感を煽りそうだったのでやめておいた。
「そういうわけにはいかない。あそこに君を連れていったのは俺だし、ローランドは俺の従弟だ。ただ、あいつは昔堅気で頭が固いけれど、根はとても真面目で善い奴なんだ」
「知っているわ。幼馴染みだから」
「そうなのか?」
 ジョセフは意外そうに言った。「このあいだ、俺が紹介したときが初対面なのかと思ったよ」
 間抜けな失言に私は内心悪態をついた。

 そりゃあそうでしょうよ。彼も私もそういうふうに振る舞ったもの。
 ローリーだけじゃない。幼馴染みだった数人の男友達との友情は、あの離婚で憐憫と冷笑に取って代わられてしまった。彼らと私の間で築かれていた友情は、浜辺に作った砂の城が波にさらわれるように、一瞬で崩れて消えた。あっけないものだった。

「ジェシカ・ワイナーもそうよ。彼女とは同い年なの」
 幼馴染みにかこつけて、私は話題を逸らした。
「レイノルズ家でメアリーが催した昼食会にも来ていたでしょ? あの娘、気立てがよくてすごく優しい子よ。母親似だから」
 ただし、大人しく夫に従順だった母親と違って、情熱的な彼女なら密かに付き合っている恋人と駆け落ちしかねないけれど、と心の中で懸念をつぶやいた。
「そうだろうと思った。まったく、あの樽腹男め、自分が神であるかのようにあれこれ好き勝手なことを言いやがって」
 ジョセフが忌々しげにつぶやいた。
「ああいう奴に出くわすと、この社交界から消えて逃げ出したくなるよ。誰も俺のことを知らず、誰も俺に期待したり無茶な要求をしてこないところへ」

 この頃になると、私たちはすでにだいぶ気安い間柄になっていた。彼がちょっとくだけた地の口調で私にこっそり愚痴をこぼし、私は彼を人前で敬称もつけず名前で呼ぶ程度に。
 四六時中未婚の娘とその親に追い回されている彼にしてみれば、彼を自分を幸せにしてくれる結婚相手ではなく、あくまで気の合う男友達としか見なさない私は気楽で居心地が良かったのだろう。
 それこそ、 “自由” で “気まま” な私だから。

 あんなことを言われたら、私だってこの社交界から消えて逃げ出したくなるわよ。

「リディアが自由に気ままに生きているとは、俺は思っていない」
 不意に微笑みを打ち消し、ジョセフがひどく真剣な顔で私にささやいた。
「もし君とあいつと俺の三人だけだったら、俺はあいつにつかみかかって無理矢理黙らせていた。さっきは――すまない――怒りを抑え込むのに必死で、君に何も言ってやることができなかった」
 ジョセフの面差しに、かすかな怒りと色濃い後悔が見て取れた。
「いやね、ジョセフ。そんな怖い顔をしないで。さっきはついカッとなってしまったけど、もう本当に気にしていないのよ」
 私は努めて元気な声で言った。しかし今度は、感情的に言い返してしまった自己嫌悪と、ひどい言葉を投げつけてしまったローリーへの罪悪感が湧き上がってきた。

 私はいつもこうだ。
 後先考えず口先ばかり達者で、思慮深く慎重に言葉を選ぶことができない。
 それでいつも誰かを傷つけ、嫌われてしまう。

 帽子を海に落とした船乗りのように下を向くと、突然腕を引っぱられた。私は危うくジョセフの胸に顔からつんのめりそうになった。何事かと顔を上げると、不満げで、どこか苦しそうに私を見下ろす紺碧の瞳とぶつかった。みずみずしいレモンやライムの香りがふんわりと私を包みこんだ。
「気にしろ」
 ジョセフは決然と私に命じた。「後で俺からあいつによく言い聞かせておく。もう二度と、君にあんな無礼なことは言わせない。決して俺が許さない。君に約束する」

 心臓が跳ねた。身体中の血液がうねり、全身の肌が波だった。
 ジョセフの眼差しが、あまりに強く、苦しげで、真剣だったから。その瞳の色と同じ海の波のように、いじけて拗ねた私の心を優しく撫で、激しく揺さぶったから。まるで波間をさまよう残骸をさらうように、私の心を覆う悲しみと喪失感を遠くへ遠くへと追いやってくれるようだった。

「まぁ、ミスター・ブラッドリーったら何て頼もしいのかしら。ありがとう」
 私は茶化すように明るい声を上げた。
 でも、本当はこのとき、嬉しくて泣きそうになっていた。



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