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第8話 善き男友達


 “自由に実家を出たり入ったりしながら気ままに生きている”

 そんなはずないじゃない。
 戻りたくて実家に戻ったわけじゃない。できるものなら、一生ずっとヴァンダーグラフ家でアンドリューと一緒に居たかった。でもそれができなくなってしまったから、実家に帰らざるを得なかったのよ。
 どうしてみんな、私が不貞を犯して追い出されたように嘲笑うの?
 私の容姿が派手派手しく男好きに見えるから? この軽薄そうな赤毛がいけないの? 物珍しいエメラルドグリーンの瞳がいけないの?
 生意気で慎みもなく男とおしゃべりをするから?
 だから「どうせ愛人と駆け落ちした夫ともお互い様だろう」なんて陰口を叩くの?
 そんなふうに私を嗤う人たちを問い詰めたかった。
 そして身の潔白を証明したかった。結婚するまで手紙を交わす程度の恋人すらいたこともない。屋敷の使用人を寝室に連れ込んだこともない。私は夫とベッドを共にするまでずっと “正しい淑女” として生きてきたのよ!
 でも、出来なかった。それ以上、さらに自分の評判を貶められるのが怖かった。心ない言葉に傷つきたくなかった。自分を弁護すればするほど、暗く冷たい海底に引きずり込まれるのが社交界という場所だ。だから私は、碇をおろして帆をたたみ、風がどの方角から吹いてこようと決して動くことのない船のように泰然自若を装うしかなかった。
 そうでしょ? ほかにどうしたらよかったの?
 男に従ったところで、最後まで守り通してくれない。
 夫だって父だって兄だって友達だって、結局は私より愛人や商売や評判を優先した。
 だからもうこれからは自分のことは自分で守ると決めた。それだけよ。
 でも、女が自分で自分を守るのってなかなか大変よね。それが二十歳そこそこの私みたいな世間知らずの小娘ならなおさらね。
 幸い社交界ではヴァンダーグラフ夫人やキャボット夫人が親身に私の面倒を見てくれた。それに、メアリーやジェシカ、ケイトといった女友達がいなかったら、時化た海に放り出された小ウサギみたいに、私は孤独の海に溺れて沈んでいただろう。

 あの三文喜劇のような離婚以来、私をかばったり私のために怒ってくれたり私の味方になってくれた男友達はいなかった。みんな小馬鹿にされる私を遠巻きに眺めて冷笑を浮かべていただけ。かつて友人だった男たちは、“正しい淑女” たちがささやく根拠のない陰口や中傷を真に受けるばかりで、誰も否定するどころか疑うことさえしてくれなかった。

 ジョセフだけだった。
 最初から私に非があると決めつけて馬鹿にせず、私を励まし、社交界で冷やかに笑われていた私と友達になってくれた殿方は彼だけだった。私がどれほどありがたい気持ちでいっぱいだったかわかるわよね?
 神の教えにはところどころ反感を抱かずにはいられない部分もあるけれど、彼のような善き男友達と巡り合わせてくれたことを感謝しない日は一日もなかった。

 そして私は学んだ。
 そんな善き男友達を持つ女は、その男を愛する女たちから好かれることなど決してありえない。

「ミス・ローズデール、あなたは本当に壁際がお似合いですこと」
 また別の日の舞踏会にて、私は父の友人の老紳士となごやかに世間話をしていた。その彼が立ち去った直後、見慣れた顔触れが私をぐるりと取り囲んだ。
 ジリアンは遠目から眺めている分には地上に舞い降りた天使のごとき美しさだった。豊かに輝く金髪、陶器のようにしみひとつない白い肌、小さな卵型の顔、優美でつぶらな水色の瞳。社交界の若い娘たちがジリアンの美貌を羨み、憧れる気持ちはよく分かる。ところが、こうして間近で彼女を見ると――いつものことなのだけれど――途方もなく残念な気持ちが私を支配した。
 彼女の顔立ちは非の打ちどころがないほど完璧で美しいのに、その表情はお腹をすかせたキツネのような貪欲さと意地の悪さばかりが際立っていた。ジリアンほど恵まれた若い娘の顔にこの類の表情を見つけると、私はたちまちいたたまれなくなる。嫌悪感を覚えはしない。その代わり、何か腹を満たすものを与えてやらなければという憐憫を催すのだ。そのような感情を抱くのに最も不相応な場所で、不相応な相手に。これほど居心地の悪いことはない。
「ミス・ピアース、ごきげんよう。喉は乾いてない? ワインを召し上がる?」
 返事は分かっていたけれど、一応聞いてみた。
「結構よ。そのワインを飲んだら、明日私は棺桶に寝そべらなきゃならなくなるもの」
 ジリアンとその取り巻きたちは忍び笑いを漏らした。
 もしかして、場を和ませるためのジョークのつもりだったのかしら? 私はまったく笑えなかった。だって、この晩の舞踏会の主催者は自由貿易同盟最大のワイン卸問屋の奥方だったのよ。ジリアンのこの発言は、彼女のもてなしと彼女が用意させた選りすぐりのワイン双方を貶めたと取られかねない。
 でも案の定、彼女たちはそのことにはまったく考え及んでいないようだった。その証拠に、私たちのすぐそばに控えている給仕係がかなりあからさまに彼女たちを一瞥したのにも気付いていなかった。まだ彫像のように振る舞う術を体得しきれていない若い使用人の表情は、はっきりとこう語っていた――なんて無礼な小娘たちだ。自分より恵まれ甘やかされた娘たちの名誉を重んじ、同僚に彼女たちの軽率な発言を吹聴しない若い使用人がいるだろうか? いるわけないわよね。
 あぁ、先が思いやられる。

「あなた、出戻り女の分際でミスター・ブラッドリーに付きまとうなんて、どうしてそこまで破廉恥に振る舞えるの?」
 いつものようにジリアンが先陣を切ると、彼女とその取り巻きたちは次々に私に罵声を浴びせた。まるで春のピクニックに出掛ける馬車の中で歌を歌う女の子たちのように活き活きと楽しそうな表情で。
「ミスター・ブラッドリーのご厚意を勘違いなさらないほうがいいわ」
「あの方は不憫なあなたを憐れんで親切になさっているだけなんですからね」
「あの方を敬称もつけず名前で呼ぶなんて、なんて無礼で馴れ馴れしい」
「あなたのような出戻り女があの方の妻になれるなんて、万が一にもありえないのよ」
「まぁ、愛人にはもってこいよね。高級娼婦さえうらやむほどの身体つきですもの」
「ミスター・ブラッドリーをたぶらかすことくらい、赤毛のアバズレのあなたなら口紅を引くくらい簡単にやってのけるでしょう?」
 若い娘たちの忍び笑いが、海辺に藻屑を打ち上げる波のようにさざめいた。
 そんな彼女たちの小さな顔の前で揺れる色とりどりの扇子を横目に、私は大広間の東側の一角を眺めていた。なぜなら彼女たちの発言に注意を払う必要がなかったから。だって、ジリアンたちに限らず、こういうジョセフに関する苦情はたいていいつも同じような内容なんだもの。すでに私の耳の内側に一言一句違わず印字されていると言っても過言ではない。
 脚本でも用意されているのかしら?
 そう疑いたくなるほど、彼女たちは似たようなことしか言わない。脚本がどれほど素晴らしい芝居でも、毎日毎晩繰り返し観ればさすがに飽きる。その脚本が楽しくも面白くもない場合、初演すら最後まで鑑賞するのは非常な忍耐を要する。
 ところが、私は社交界の女として充分な忍耐が備わっていない。
 だから、退屈な脚本の芝居が終わるまでほかの芝居で気を紛らわせるというわけだ。
 もっとも、もうひとつの芝居もあまり変わり映えはしないのだけれど。
 ジョセフはアンダーソン家の自信満々の娘とその両親をかわしたものの、あっさりと寄宿学校時代に世話になったらしいカーマイケル家の若き当主に捕まり、社交界にデビューしたばかりの妹を熱心に紹介されているところだった。
 彼が右の眉だけをくいっと吊り上げて微笑んだ。苛立っているのを誤魔化そうとしているときの癖だ。彼の一見穏やかな眉間は、今にも忍耐の限界を訴えんばかりに引きつっているのだろう。豊かな黒髪はポマードを塗っていないのか、今にも一房こぼれ落ちてしまいそうだ。
 私はジョセフの前髪をかきあげてあげたくなった。

「ちょっと聞いているの!?」
 と、そのとき、歯ぎしりしそうなジリアンの低い声が私の耳を突き抜けた。
 驚いた。ほかの芝居にかまけて、目の前の芝居の幕切れに気付かないのは初めてだった。
「え? あぁ、聞いているわよ」
 私はあわてて彼女に返事をした。「つまり、あなたたちは、ミスター・ブラッドリーが私にたぶらかされる程度の愚かで哀れな男だと思っているんでしょう? よくわかったわ。彼の花嫁選びの参考になりそうなご意見だから、是が非でも彼に教えて差し上げなくちゃね」
 王女殿下のみならず、ジリアンは自分を大司教様か何かだと思い込んでいるのだろうか。宗派を問わず多くの国民から畏敬され、説法を拝聴するため敬虔な信徒が大聖堂に大挙して駆けつけるような存在だとでも? 大司教様のありがたい説法は私に天の啓示を授けてくれるかもしれないけれど、ジリアンのつまらないヒステリーがこれまで私に与えたものといえば苛立ちと退屈と疲労だけだ。
「まぁ! 告げ口をするなんて!」
「なんて恥知らずなの!」
「卑怯者!」
 彼女たちは自分たちの振る舞いを棚に上げ、口々に私を非難した。多勢でよってたかってひとりを責め立てるのが卑怯じゃないなら、その誹りも受け入れてあげたんだけれどね。まぁ、告げ口、と自ら表現したくらいだから、自分たちの振る舞いが褒められる行為ではないと自覚はあるようだった。たいした品格の持ち主だ。
 私がわざわざ報告するまでもない。温厚で穏和な笑顔の下に、冷徹な知性と鋭い洞察を備えたジョセフなら、この子たちの底の浅い本性なんてとっくに見抜いていただろう。
 もちろん、こんな下らない女たちの戯言をいちいちジョセフに言いつけたことは一度もない。両親や兄にもね。メアリーたち幼馴染みの女友達にだけは、逐一報告し合ってお互いお腹を抱えて笑い合っているけれど。
 ジョセフは大切な男友達だ。自分のせいで私が苦労していると彼を悩ませたくなかった。私は尊敬すべき友人に罪悪感を植え付けるような薄情者じゃない。
 だいたいね、いくら自分本位な私とて、年がら年中たいして私のことを知りもしない女たちからこうして謂れのない誹謗中傷や見当違いな罵詈雑言を浴びていれば、人並みにつらいし落ち込むのよ。
 まったく心が痛みを覚えないほど鈍くはないし、いつまでも彼女たちに対して優しく寛大な気持ちでいられるわけじゃない。そのためには、七つの海を制覇し王国の礎を築いた女王アレクサンドラ一世並みに、自尊心と忍耐を奮い起さなければならないの。
 それに、反論もせず黙っているのは、何もこの軽率で頭がからっぽの娘たちに怯えたり怖がっていたからじゃない。彼女たちの欠点なんて、両手両足の指じゃ足りないほどいくらでもあげつらえた。それを面白おかしく言い放ち、彼女たちを社交界の笑い者に仕立てることくらい簡単だった。けれど、そんなことは頼まれたってするつもりはない。
 いくら評判の悪い出戻り女とて、そこまで落ちぶれるつもりはなかった。

「だって私は赤毛のアバズレ女なんでしょう?」
 唇をわずかに突き出し、“娼婦みたいで吐き気がする” とジリアンが毛嫌いする笑みをわざとこしらえた。「あなたたちのように高潔な心根なんて持ち合わせていないのよ。ごめんあそばせ。あら、あちらでミスター・ブラッドリーと歓談しているのはミス・アビゲイル・カーマイケルね。あのひと、洗練されていてとてもきれいよね。彼の好みにぴったりの淑女だわ」
 ジョセフと自分たち以外の女が一緒にいると聞いて、ジリアンたちは航路を示された年若い船乗りのように私の視線を追った。
 アビゲイルは歴史あるカーマイケル家の娘だ。対岸の大陸の王国に留学していて教養もあり、美しい容姿に加えて身なりから仕草まで優雅で洗練されていた。穏和な気質で女友達も多く、社交界の独身の男たちから妻として引く手あまたの人気者だった。
「ミスター・ブラッドリーは彼女のように知的で洗練されたな淑女が大好きだもの。それに彼女は金髪だから最高ね」
 元夫との婚約期間中、晩餐会などで何度か顔を合わせた彼の亡き妻の姿――たしか小柄で金髪で、読書と刺繍が好きそうな深窓の令嬢といった雰囲気だった――を思い起こしながら私はジリアンたちに言った。
「ミス・ピアース、そういえばあなたも見事な金髪ね。おまけになんて親切なのかしら」
 扇子の奥からアビゲイルをにらみつけていたジリアンに、私は微笑んで言った。
「なんですって?」
 彼女は訝しげに私を見据えた。
「だってこんなところで私とおしゃべりをして、わざわざミス・カーマイケルにミスター・ブラッドリーと仲良くなる時間を差し上げているんだもの。なんて優しいのかしら。驚嘆に値するわ。あなたは社交界の聖女ね」
 ジリアンの白い頬がまだら模様に紅潮した。
 どうやら “私に絡んでいたってジョセフの妻にはなれないわよ。おまけにわざわざ恋敵にチャンスを与えてやるなんて、とんだ間抜けね” という私の本音をくみ取ったらしい。珍しいこともあるものだ。
 今にも呪詛をかけようとする魔女のような顔で、ジリアンが私をにらんだ。けれど、いつぞやのバルコニーのときのように金切り声を上げて私を罵ることはしなかった。
 それもやむをえなかったのだろう。なぜなら、壁際とはいえ場所は舞踏会の大広間。いつの間にか、すぐそばで社交界デビューしたての娘たちの集団が私たちのやりとりに聞き耳を立ていた。若く美しく家柄も申し分ない彼女たちは怖いもの知らずだ。彼女たちが私ではなくジリアンの評判を落とす材料をつけ狙っているのは明らかだった。
 だって、彼女たちにとって、とっくに花嫁市場の競合相手として脱落しつつある私を追い落とすより、最前列にいるジリアンを追い落とす方が、敵を減らすという意味で利益が大きかったもの。
 そんな状況では、さすがのジリアンとて私を罵倒することはできかねたようだ。この一年で驚くほど思慮深くなった。そしてこれ以上私のそばにいることの無意味さをようやく悟ったのか、いかさまの淑女の微笑みを貼りつけて「ごきげんよう」と私の前から立ち去って行った。

 小さな嵐が去ると同時に、大広間の東側の一角からこちらに向かってくる黒い頭が見えた。草原を歩く狼のように、少しでも目立たぬように、ぴんと張った背をやや屈め、うつむき加減でこちらに近づいてきた。無駄なあがきだ。
 私は通りかかった給仕の盆からワイングラスをふたつ、さっとつかんだ。大広間を後にして廊下に出ると、人目につかないようそそくさと西側の端まで行き、右に折れた先にある階段に腰をおろした。
 背後の踊り場から小さなランプの灯りがこぼれていた。明るさは抑えられ、辺りは日没直後のような落ち着いたオレンジ色に染まっていた。
 次のワルツの演奏が始まったようだ。管弦楽の音色が大広間から漏れ響いてくる。
 この夕焼け色の薄暗い廊下のすぐそば、目の前の角を曲れば、灯りに照らされた廊下が続き、昼間のように明るい大広間へたどり着く。
 明るい場所から暗い場所へ。暗い場所から明るい場所へ。
 ふたつの場所は、昼と夜よりよほど近く、簡単に行き来できるほど背中合わせだ。
 足音もなく、廊下から影が伸びた。すぐさま長身の男が姿を現した。廊下の光を背負った男の顔は逆光でよく見えなかった。
 男は一直線に私のいる階段に近づいてきた。頭からつま先まで、日没直後の水平線の色が長身の男を包み込んだ。男は私の前で立ち止まった。不用意に私の名前を呼んだりせず慎重に私の顔を確認すると、彼はほっとした様子で目元をくしゃりと崩した。忌々しい仮面を投げ捨てるように、品よくつくろっていた “温厚な紳士” の微笑みが憐憫を催させる苦笑いに変わった。男の深いため息が、静かに空気に溶けた。
「ごきげんよう、ミス・ローズデール」
 嵐の海に放り出され命からがら陸に泳ぎ着いた船乗りのように、ジョセフは私の隣に腰を下ろした。



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