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第10話 ハーブ園


 そういうときの最善の対処策は、裏庭のハーブ園で心を落ち着かせることだった。

 街屋敷(タウンハウス)だと私有地の別邸(カントリーハウス)のように広大な庭園をしつらえることはできない。それでも私が八歳のとき五番街に建てられた我が家には、サラダ菜や異国の野菜を植えた家庭菜園と、リンゴや桃、プラムや洋ナシといった果樹を育てる温室、そして私のハーブ園がある。この庭は、端から端までまっすぐ歩いてもせいぜい三十歩くらい。四つに区分けされた畑には色々なハーブがこんもり茂り、ささやかな畦道には白い丸石が敷き詰められている。もともと母の家庭菜園のために父が設計させた裏庭だったのだけれど、私がわがままを押し通して十三歳の誕生日プレゼントとして拡張整備してもらったのだ。
 そのハーブ園のすみっこに、納屋と作業場を兼ねた小さな離れがある。屋根は田舎風に赤茶色の薄焼き煉瓦を並べ、白漆喰の壁は木の柱がむき出しになったハーフティンバー。童話の絵本の挿絵に描かれていた、森の小人たちが暮らす家を真似して建ててもらったのよ。

 実家に出戻った当初の半年間、私はここにこもりっぱなしだった。大量に摘みとったハーブや花からほんの数滴のエッセンシャルオイルを抽出するのに熱中し、その精油を使った蜜蝋のクリームや石鹸を朝から晩までこしらえながら、退屈を紛らわせ、傷ついた自尊心を慰め、俗世での名誉や栄光を捨てた尼僧のように過ごしていた。
 ところが、最初はただの手慰みに始めたハーブ製品作りだったんだけど、これがことのほか楽しくて食事を忘れるほど夢中になってしまった。早起きしてハーブを摘んだり、なかなか手に入らないエッセンシャルオイルを探し求めたり、材料の配分を試行錯誤したり、かまどの熱で汗だくになりながら鍋をかきまぜるのは一苦労だけど、“楽しんでやる苦労は苦痛を癒すものだ” と昔から言うでしょ?
 そのうち、我が家の庭師がこれ以上私の面倒を見きれないと白旗を揚げたので、私は勇気を振り絞って両親を懸命に説得し、南東部のハーブ農家に住み込みで教えを乞いに行くまでに至った。
 従者と召使いそれぞれ一人と私だけの三人、初めて自由貿易同盟以外の地域で生活を送った。南東部は小島が浮かぶ内海の恩恵を強く受ける温暖な地域で、この国内でも有数の農業地帯。とくにハーブの一大産出地なのよ。石灰質の白土の大地に広がる淡い青のラヴェンダー畑は、まるでおとぎの国の湖のように美しいの!
 南東部のハーブ農園で暮らしていた間、私は化粧もせず、現地の農婦たちと同じように野暮ったい頭巾をかぶり、木綿のスカートを履いて畑仕事に勤しんだ。雌鶏の鳴き声とともに日の出前に目を覚まし、冷たい水で顔を洗い、朝食用の牛の乳を搾る。朝露が光る野菜を摘み、乾燥させたタイム、セージ、フェンネル、ローレル、ローズマリーを練り込んだバタースコーンを焼く。チーズをけずり、バターをこね、ハムを切り分ける。
 自分のことは自分の手でまかなう生活だ。
 生まれてからそれまで、私は毎日メイドたちの手を借り、コルセットを締められ、背中にたくさん真珠のボタンが並ぶドレスを着せられていた。農場ではそうはいかない。簡素な綿の服を自分で着たり脱いだりしなければならない。ところが、自分で自分の服を着る生活は思いのほか私の性に合った。ひとたびコルセットに胴部を絞り上げられることのない暮らしを知ってしまうと、その快適さが恋しくてたまらなくなる。

 最初は、はっきり言って農場のみんなから敬遠されていたわ。
 そりゃそうよね。父の旧知の知人で、南東部一帯で最も大きな影響力を持つ貿易商に圧力をかけられ、無理矢理私を押しつけられたんだもの。小さな町ほど広大なハーブ農園を所有する農場主のご夫婦ですら、貿易商のお嬢様がいらっしゃるようなところじゃございません、と恐縮しきりだった。
 だから、私は行動で示すことにした。
 雌鶏と先を競うように誰よりも早く起き、身支度に召使いの手は借りず、従者の懇願を無視してできるだけ大きいかごや重い荷物を持った。あの頃の私の手を見たら、社交界で生まれ育ったお嬢様とは誰も思わなかっただろう。
 そのうち農場主のご夫婦やそこで働く人々も私のやる気と情熱を認め、結局はかなり熱の入った指導をしてくれた。ハーブの育て方やその効能、効果的なハーブ製品の作り方まで、一流の専門家として、基礎から知識と技術を徹底的に叩き込んでくれた。彼らは私の恩師だ。農場主のご夫婦とは今でも手紙のやりとりをしていて、先日も初孫の誕生祝いにお気に入りのメゾンに特注で作らせた産着を贈ったばかりなの。
 三ヶ月足らずの短い滞在だったけれど、あそこで過ごした私の日々は自由と充実感で輝いていた。いま思い出しても、心満たされる素晴らしき日々だった。

「お嬢様、あたくしはこのような場所で農婦の真似ごとをなさるより、お茶会に参加したり文学や美術史のお勉強をなさった方がよろしいかと思いますわ」
 裏庭の作業小屋で私と向かい合い、乾燥させたラベンダーの花を丁寧にむしりながらばあやが私に言った。彼女は兄と私の乳母だった穏和な女性で、私が十二歳になった頃から私のお目付役(シャペロン)を務めている。
「薬草調剤管理士の資格取得に向けて日夜勉強に励んでいるわ」
 私は胸を張って応えた。勉強を始めて足かけ三年、今年こそ受かってみせると私は息巻いていた。
「お嬢様は薬草問屋の買付商人じゃございませんのよ」
 ばあや――物心ついた頃からずっとこう呼んでいたから、その癖がいまだに抜けないのよね。外ではちゃんと名前で呼んでいるわよ――は灰色になった眉尻を下げた。「そうです、ピアノの練習をなさるのがよろしいですわ。ばあやはお嬢様の『アラベスク』を聴きとうございます」
「ばあや、私の目は誤魔化せないわよ。あなたが楽譜をめくることより、ハーブをちぎることのほうが楽しいと感じているくらい、とっくにお見通しなんですからね」
 私は得意満面で言い返した。
「まぁまぁ、さすがはあたくしのお嬢様ですわ。あたくしのことはなんでもお見通しですのね。こうしてハーブの香りに包まれていると、心が安らぎますものねぇ」
 ばあやは私の指摘に慌てた様子も見せず、草原のヤギのように穏やかに微笑んだ。そしてその直後、何百回となく聞かされたお決まりの台詞が続いた。
「ですが、このような場所にこもっていては、いつまでたっても結婚相手は見つけられませんわ」
 ピアノを弾いていたって見つけられやしないわよ。
 しかし、私は賢明にもその反論が喉から飛び出す前にぐっと飲み込んだ。
「お嬢様は最近とみにブラッドリー家のジョセフ様と親密でいらっしゃいますでしょ。大変評判のよろしい方でいらっしゃいますわね。まだお若いのに商人として頼もしく、夫としても信頼の置けそうな殿方はそうそういらっしゃいませんよ」
 大いに期待のこもった眼差しでばあやが私を見つめた。
「そうね、それは認めるわ。でもね、ばあや、ミスター・ブラッドリーは誰とも再婚したくないの。知っているでしょ。今でも亡くなった奥方のことを深く愛しているのよ。理由は違うけれど、私もまだ再婚はしたくないわ。もうしばらくは懲り懲りよ。そもそも、ミスター・ブラッドリーと私が親しいのは、彼も私も互いに結婚を望んでいないからだもの」
 ただの事実を説明しただけなのに、なぜか胸の奥を小針でつんつんと刺されているような痛みが襲った。
「……さようでございますか。あたくし、目の黒いうちに、愛らしいお子様を抱っこしていらっしゃるお嬢様を見とうございますが……」
 ばあやは寂しそうに肩を落として微笑んだ。
 そんなばあやの姿を目の当たりにすると、手のつけられない腕白坊主だった兄とお転婆娘だった私を根気強く世話してくれた恩に報いたい、という使命感が間欠泉のように湧きあがってきた。
 でもこればかりはどうにもできない。
 社交界の花嫁市場では私の品評はお世辞にも最高品質とは程遠かった。そんな私に言い寄る殿方に邪まな下心――おもにローズデール家がもたらす持参金とヴァンダーグラフ家との関わり合いから得られる恩恵への非常に強い関心――がないということはまずありえなかった。
 そもそも、そういうものは商人の結婚において “邪ま” でもなんでもない。あって当然のことだ。離婚と失恋を経験していなかったら、私だって朝食のゆで卵の殻の小さなヒビほども気に留めなかっただろう。
 しかし、短い期間のうちに手痛い経験を二度も積んでしまった私は、私に求婚する男性に対して輸入税関の衛生管理官以上に潔癖で、税務官僚並みに目敏く厳格になっていた。

 離婚から二年が経ち、三年目の春、私は二十一歳になろうとしていた。
 結婚をあきらめるほどの覚悟はないのに、愚かな振る舞いをして自分が評判を落とし婚期を逃しつつあることは承知していた。けれど、それでもあんな惨めな思いを再び味わわされるよりははるかにマシだと考えていた。

「こうなったら女商人にでもなって、若く美しい情夫をこしらえようかしら。そうしたらいくらでもかわいい子供を産めるし、その子を抱っこしている私をばあやに見せてあげられるわ」
「んまぁ! お嬢様、なんてふしだらなことをおっしゃるのです! ばあやはそのようなこと、絶対に許しませんよ!」
 私の行儀の悪い冗談に、ばあやは卒倒しそうな青い顔で悲鳴を上げた。
「ねぇ、ばあや、情夫はともかくとして、女商人って素敵じゃない?」
 私は椅子から身を乗り出した。「アーサーが最近増えてきたと言っていたわ。家を守る未亡人がほとんどだと聞くけど、同じ女だもの、私だって絶対になれないことはないと思わない?」
「あたくしはお嬢様の利発さを大変誇りに思っております」
 ばあやは慈愛たっぷりに微笑んだ。「ですが、それはどうか夫となる殿方を魅了するために発揮なさってくださいませ」
 なるほど。ばあやの意見はこうだ。
 お嬢様が女商人になるなどもってのほか!
 まぁ、それも当然か。それなりの家の独身の――出戻り女だって独身は独身よ――娘が仕事をするなんて、かなり世間体がよくないもの。
 言語道断よね。
 成り上がりの海運貿易商の娘が上流階級を気取るつもりはない。でも、父の元には首都の貴族や政治家がひっきりなしに訪ねてくるし、兄は彼らの息子たちととても懇意で親密な関係を築いている。母の主催するサロンは、招待されたか否かによって社交界での地位が決まるサロンのひとつと言われている。破竹の勢いで事業を拡大し続ける海運事業主の一族として、ローズデール家は畏れられ、妬まれ、羨まれ、敬われ、憧れられる存在でなければならない。
 つまるところ、私は “名家の令嬢” らしく、美しく着飾り、品よく贅沢をたしなみ、家と社交界を行き来し、労働と無縁でいなければならない。
 商売という労働で身を立てる商人の娘であるにもかかわらず。

 ワイルドストロベリーの精油を混ぜたクリームの原液を流し入れたガラス瓶を並べながら、私はこっそり想像してみた。
 このハーブ園のハーブを使ってオイルや蜜蝋のクリーム、石鹸を作って売るの。たちまち街中の娘たちの間で評判になって、おしゃれで瀟洒なヴリーランド通りにかわいい路面店を出せたら最高よね。私は “女商人リディア・ローズデール” として名声を手に入れるの…… 独身の女商人の時点で、名声は難しいわね。批判の嵐と非難の荒波なら、思う存分浴びることができそうだけれど。
 しかし、それを差し引いても魅力ありあまる夢想だった。
 少なくとも、社交界で実にもならない退屈なおしゃべりに時間を費やし、結婚相手を捕まえるために自分を偽ってお上品ぶるより、確実に楽しく生き甲斐を感じられる人生になる。私はそう確信できた。

 と、そのとき、開きっぱなしにしていたドアをのぞきこむ人がいた。
「リディア、やっぱりここにいたのね」



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