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第11話 ステラ


「お祖母様! こちらにいらしていたのですか?」
 憧れの淑女として幼い頃から敬愛してやまない祖母ステラを前に、私ははしゃいだ声を上げ、ばあやは椅子から立ち上がり上品に膝を折ってお辞儀をした。
 祖母はハーブ小屋の扉から顔をのぞかせ、にこやかに微笑んでいた。銀色になった豊かな髪を結いあげた祖母は、春爛漫のハーブ園の景色を背に、年齢を重ねた淑女だからこそ醸し出せる重厚で優雅な気品に満ちあふれていた。
 祖母のほっそりした手を取ると、私ははやる気持ちを抑えながらゆっくりと小屋の中に招き入れた。
「こちらの作業小屋はいつ来ても心なごむわね。別邸の作業小屋もいいけれど、ここのほうがこぢんまりと愛らしくて好きだわ」
 長椅子に腰をおろし小屋の中を見回すと、祖母は笑みを一層深めた。
「お祖母様、いらっしゃるときはお手紙をくださいといつもお願いしているのに」
「リディ、私はお前を驚かせてやるのが大好きなのよ」
 祖母は少女のように茶目っ気たっぷりに微笑んだ。
 五年前に祖父が亡くなってから、祖母は自然豊かな東海岸保養地の別邸で庭仕事をしながら悠々自適な余生を送っていた。ときおりこうしてふらりと街に戻ってきては、私のハーブ小屋に顔を出してくれる。私が離婚したときも、いつものように気が向いたので街に戻ってきたという態度で、何事もなかったかのように、私を問い詰めたり責めたりせず、ただ私と一緒にハーブの世話をしてくれた。
 このハーブ園は、もともと祖母がみずから手入れしていたものを私が譲り受け拡張させたものだ。私がハーブを好きになったきっかけは、祖母が毎日丹精込めてハーブを育てていた楽しそうな姿を見て育ったからだもの。
「お前は魔法使いのように色々な石鹸やクリームを作っているからね。私はそれを見るのが楽しみなのよ。さぁ、今は何を作っているのか教えてちょうだい」
 優しい笑みをたたえた瞳が、棚に並べられたガラス瓶に向けられた。
「今日はワイルドストロベリーのエッセンシャルオイルを混ぜたクリームです」
 私は意気揚々と説明を始めた。「ワイルドストロベリーには、春の不安定な気温と夏の暑さで弛緩してしまいがちなお肌をきゅっと引き締める効果があります。入浴の後、冷たいハーブ水でお肌を整えてからこれを薄く延ばすように塗ると、春の吹き出物も夏のほてりも、チャイブの匂いに逃げ出すアブラムシのように一瞬でなくなるんですよ。でも、心配ご無用。このクリームはチャイブのように鼻をつく鋭い匂いなんて全然しません。ワイルドストロベリーの果実を漬けた蜂蜜の甘い香りで、どんなに繊細な淑女も春の野を舞う蝶々の心地を満喫できます」

 ここまで私が張り切る理由は、ひとえに祖母が私の作ったハーブの石鹸や蜜蝋のクリームを愛用してくれているからにほかならなかった。
 とくに、カモミールを煮詰めた抽出液、細かくすりつぶしたアーモンドの粉末、オリーブ・オイル、オレンジの花の精油、蜂蜜などをこね合わせて作った石鹸は、祖母の一番のお気に入り。「これは若返りの魔法がかけられているのかしら?」と何度も繰り返し使ってくれているのよ。
 祖母の優雅で気品あふれる美しさを私が支えているなんて、あぁ、感無量よね。

 そうそう、言い忘れていたけど、実はこの一年ほど前から祖母はもちろん、母やメアリーたち女友達数人に、私が作った石鹸やクリームを愛用してもらっているの。母のお友達の何人かにも差し上げていて、これがかなりご好評いただいているのよ。
「このクリームのおかげで、私のお肌は人魚みたいな潤いよ」
「今まで使っていたサロンのものよりずっと良いわ」
「リディア、あなたって天才よ! ハーブの魔術師ね」
 お世辞含みなのは重々承知している。でもね、私は生来おだてに弱い単純な娘だから、ハーブ製品で女商人として一旗挙げてみようかしら、なんて野心が芽生えてしまうのも致し方ないことよね。

 石鹸を差し上げたひとたちの笑顔を思い返すと、自然と頬がゆるんでしまう。彼女たちから感謝やお礼の言葉をもらえるとそりゃあ嬉しいし、こんな私でも多少は人の役に立てるのね、と満足感や喜びで胸が躍った。
 だから、時間と手間のかかるハーブの抽出液作りも、良質なエッセンシャルオイル探しも、材料を細かく砕いたり擂り鉢ですりつぶし時折手首の感覚が麻痺する下準備も、木べらで混ぜ込み腕ががちがちに強張る煉り作業も、不思議とまったく苦痛を感じなかった。

 こんなふうに家にいるときはハーブ小屋にこもってばかりの私に、父や兄は「田舎農婦の真似ごとはやめろ」とことあるごとにいちゃもんをつけてきた。彼らは私を一秒でも早く名家に嫁がせたくてやきもきしているのだ。
 でも私はもうすでに彼らに素直に従う従順さなんて持ち合わせていなかったから、仔牛にハープを奏でて聴かせることくらい何の効果もない無駄なことだった。彼らの説教を聞くときの私は、まさに春風に何も感じない仔馬と同じだった。

「リディアは博識で説明もわかりやすいから、話を聞くのがとても楽しいわ。おまけに善き魔女の呪文のようにとても素敵で魅力的に聞こえるの。ハーブのことを話しているときのお前は、まるで『南十字航路物語』のステラのようね」
 久しぶりに祖母、両親、兄、私の五人がそろい、その日は賑やかな晩餐となった。
 その席で昼間の私の熱弁を引き合いに出し、祖母は私のハーブの知識や丁寧な仕事ぶりを、それを “田舎農婦のようだ” と好ましく思わない父や兄の前で褒め称えてくれた。
「嬉しい! 私、あの話の中でステラが一番好きなんです。彼女は私の憧れなの!」
 私はまたしても年甲斐もなくはしゃいだ声を上げてしまった。
 真正面に座っていたアーサーの端整な顔に冷淡な微笑みが浮かんでいて少し肝が冷えたけれど、祖母という無敵の味方がいるので私はいつものように怯んだりしなかった。
「あらあら、我が娘なら船に乗って航海に飛び出しかねないものね。ばあやと一緒に目を光らせておかないと。でも、あたくしも『南十字航路物語』のステラは大好きよ」
 母も上機嫌で私の味方についた。ローズデール家の新旧女主人が相手では、さすがの父と兄も私をたしなめるのを控えることにしたようだ。
 いつもこれくらい賢明な判断をしてくれると助かるのだけれど。

 『南十字航路物語』はこの国で最も読まれ人気のある海洋冒険譚だ。幻の香辛料と伝説の秘宝を求めて、南十字航路という海路を旅する海賊商船の物語。
 祖母と同じ名前を持つ登場人物のひとりステラは、中でも主人公の船長ジョッキー・ダンと並ぶ人気者。彼の最も重要な仲間のひとりで物語のヒロインだ。その豊富な薬草や毒薬の知識、海千山千の海賊や商人たちを翻弄する巧みな話術と駆け引きで航海を支える聡明で美しい女商人。

 きっと、“ステラ“ と名付けられた女は星のように輝く運命にあるのだ。
 祖母や『南十字航路物語』のステラのように。
 一応、私の二番目の名前も “ステラ“ なのよ。祖母にちなんでつけられたの。でも、やっぱり輝く星の加護を受けるには、一番目にその名前を授けられないとだめみたいね。

「かわいい妹よ、お前ならそのドレス姿のまま貿易船に飛び乗り、南洋にでも東洋にでも行ってしまいそうだな」
 躾のなっていないポニーにうんざりした厩番のような目で私を見やってから、アーサーはにこやかで礼儀正しい笑みを浮かべて祖母に向き直った。
「ところでお祖母様、リディアがハーブ小屋でこそこそこしらえたものをずいぶん前から使っているそうですが、使い心地はいかがですか? その輝く真珠色の肌を見れば一目瞭然ではありますが」
「まぁまぁ、お前のような男前に褒められるのはいくつになっても嬉しいものね」
 兄のうすら寒い賛辞を受け、祖母は優雅に目元をほころばせた。
「リディアが作ってくれる石鹸もハーブ水もクリームも、とにかくすべてが素晴らしいのよ。魔法にかけられたようにお肌が潤ってしっとりするの。ねぇ、イーディス?」
「えぇ、お義母様(おかあさま)のおっしゃるとおりですわ」
 母はすぐさま祖母に賛同した。「スミス家のジェーンやコール家のアン、それにホルト家のマギーもとても気に入ってくれているのよ」
 母は、私の作ったハーブ製品を繰り返し愛用してくれている友人の名前を挙げた。
「あぁそうだわリディア、ステファニーがぜひあなたの石鹸を使ってみたいとおっしゃってくれたの。明日キャボット家にうかがうから、急で悪いのだけれど、今夜中に箱に詰めてもらえる?」
「まぁ! キャボット夫人が?」
 私は驚きと同時に、社交界の大恩人に手作りの石鹸を差し上げるという緊張に襲われた。「わかりました。お母様と同じボダイジュとカモミールの石鹸でいいかしら? お気に召していただけるといいんだけれど……」
「そうしてちょうだい。彼女も私とお肌の質が似ているから、きっと合うはずだわ」
 ボダイジュは肌を柔らかくして皺を取り除き、カモミールには潤いを補給する効果がある。母やキャボット夫人のような四十代半ばの女性にはぴったりだろう。
「お前、そんな素人がこしらえたものをほいほいと差し上げていいのか?」
 ここでようやく、私の離婚以来、それまでにも増して母にすっかり頭が上がらなくなった父が彼女をたしなめるように口をはさんだ。
「よろしいじゃないの。あちらだってそれを承知でおっしゃっているのでしょ?」
 祖母は息子の杞憂を笑い飛ばした。「現にあたくしは以前愛用していたサロンのものとは比べ物にならないほど肌に合うから、あちらはすっかりご無沙汰よ。あらやだ! あたくし今頃、顧客名簿から名前をはずされてしまっているかもしれないわ」
「まぁ、大変! お義母様(おかあさま)、あたくしたちの名前を載せる新たな顧客名簿を探さなければなりませんわね」
 祖母も母もまったく困った様子を見せず、発泡白ワインが注がれたフルートグラスを片手に上品な笑い声を上げた。
 その場ですぐ “私がサロンを作れば、その新しい顧客名簿にお祖母様やお母様の名前を載せることができるわよ” と口走らなかったのは、私が熟考というものを身につけたからと前向きに解釈していいはずよね。

 その日の晩、ベッドにもぐりこんだ私は枕を抱えて考え込んだ。
 私は父や兄のように生涯の生業として商売に携わりたいのかしら? ほんのちょっとだけ玄人はだしの趣味を周囲にちやほやされて浮かれているだけ? もし私が “自分が作ったハーブ製品で商売を始めたい” と打ち明けたら、家族はどうするかしら?
 考えるまでもない。結果は火を見るよりも明らかだ。嵐の晩、港に出かけるようなものだ。私は時化た荒波に呑まれて海底に沈む。家族は全員、反対するだろう。
 私は家と幼い跡取りを守るためにやむをえず亡夫の跡を継ぐ未亡人じゃないし、我が家は私が働かなきゃいけないほど困窮しているわけじゃない。むしろ、私が働いたりしたらローズデール家はそうせざるを得ない状況なのかとあらぬ疑いをかけられて、信用と評判に傷が付き、順風満帆な今の商売が円滑に進まなくなってしまうかもしれない。

 星々と星座が真っ暗な夜空に昇ってゆくように、私は女商人になる輝かしい夢を頭の中に描いた。けれど、私を取り巻く家族や社交界といった環境が夜明け前の太陽のように姿を見せ始めると、星々の輝きは薄まり、星座たちは水平線の向こう側に逃げ込んでしまった。

 けれど、その翌晩もさらにその翌晩も私は同じことを考えた。
 日を追うごとに、私の中の星々は夜空を覆い尽くすように広がってゆき、星座たちはステラやジョッキー・ダンたち旅の仲間を正しい航路に導くように、力強く輝きを増していった。

 矢も盾もたまらず、私は密かに行動を開始した。
 街に繰り出しては用もないのに女商人が取り仕切る店をのぞいてみたり、白亜の神殿のように巨大な公共図書館でこそこそと商業に関する法律を調べたり――商工会議所に問い合わせするのが一番手っ取り早いんだけど、さすがの私もそこまで図太くはなかった――、ハーブ製品の衛生管理や品質保証に必要な認可や手続きを確認したりした。
 地味で野暮ったい木炭色のドレスを着て、年寄りじみた流行遅れのボンネットをかぶり、年若い家庭教師(ガヴァネス)のふりをして調べ物をするのは、思いのほかわくわくして楽しかった。まるで異国で身を潜めて行動する間諜のように、私はハーブ製品の商売を始めるための情報を集めていった。

 でもそんなことをすれば、ますます野望ってふくらむものよね。

 こうして私の心の中に秘密の航海図が描かれていった。
 その航海図を一緒に眺めるのは、不思議なことに父でも兄でも、母でも祖母でもばあやでも、メアリーたち女友達の誰でもなかった。



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