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第15話 祝福


 アーサーはそんな私に頓着せず、椅子にふんぞり返ったまま続けた。

「いつだったか、お祖母様がお前を『南十字航路物語』のステラのようだと褒めそやしたときがあっただろう?」
「えぇ、覚えているわ」
「あの後、母上の友人数人に会う機会があった。口々にお前のハーブ製品を絶賛されたよ。みながみな、以前顔を合わせたときより明らかに肌艶が増し、一回り若返って見えた方さえいた。そこで試しにお前のハーブ製品を衛生検査局で調べさせた。薬事法における安全性は極めて良好とお墨付きを頂戴した。ほら、これが証明書だ」
 羊皮紙のような厳かな風情の紙を一枚、アーサーがテーブルの上に差し出した。
 右下に装飾文字のような達筆極まりない衛生検査局局長の署名が記され、その横にこれまた仰々しい証明印が捺されていた。
「我が家の貿易事業はすこぶる順調だ。それに合わせて東洋や南洋の茶葉や薬草の取り扱いも増えてきている。それを使って新しい商売を始めるのも悪くないだろう?」
 アーサーは私を挑発するように片方の眉を吊り上げた。
「だから、私におこぼれをやろうってこと? 身内なら面倒な取引も必要ないし、提供する量もそちらが調整できる。私なら事業規模も最小単位のものだし損失らしい損失を被ることもない、と考えているの?」
 勢い込んで言葉を重ねた私に、アーサーは唇をにんまりと三日月形に曲げた。子供の頃、ごくたまに私が彼の悪戯のからくりをすぐ理解できたときの表情とまったく変わっていなかった。
「我が家は西海岸で急成長している石鹸会社と、今後積極的に事業の提携をすることが決まった。その石鹸会社は、事業拡大に伴い、ここの北西の町に工場を建てる予定らしい。国会議員の友人たちから仕入れた話が本当なら、石鹸に課せられる税が数年以内に撤廃されることがほぼ確実だ。そうなれば、石鹸は特権階級の贅沢品から市井の人々にも買える品に――日常品になる。さぁ、ここで問題だ、かわいい妹よ。日常品に慣れた市民が次に求めるものは何だ?」
「より特別なもの。嗜好品、贅沢品」
 私はただちに答えた。
「その通りだ」
 アーサーは笑みを深めた。「誰よりも先に、お前がそれを作れ。公衆衛生のためにばらまかれる日常品とは違う、手の込んだ、限られた数の、しかし懸命に腕を伸ばせば手が届く贅沢品。豊かさを手に入れた人々の自尊心を満足させる嗜好品だ。とくに若い娘やご婦人方は、お前がこしらえている匂いがぷんぷんする類のものを好むのだろう? 私は鼻がつまってむせ返りそうになるがな」
「ハーブ製品は香りだけが取り柄じゃないわ」
 彼の小馬鹿にした物言いにかちんときた。「肌の出来物やほてりを鎮めたり、体の疲れを癒したり、気分をやわらげたり、消毒や解熱の作用といったちゃんとした効能があるのよ。お医者様が処方してくださる薬剤ほど劇的な治療効果はないけど、自然の植物に由来しているから副作用や拒否反応も出にくいし、子供からお年寄りまで誰でも使えるわ。それこそ本来なら日常品として――」
「日常品として普及させるべきだな、そうだな、わかったよ」
 うんざりした様子で眉間にしわを寄せ、アーサーが私を遮った。
「リディア、私もアーサーも、もうお前に結婚を強いることはしないよ」
 だしぬけに、父がやけに神妙な面持ちで言った。「もちろん、私たちはお前が申し分のない相手と再婚することを心から願っている。しかし、かわいいひとり娘、たったひとりの妹をこれ以上悩ませ苦しめるのは、親としても兄としても本意ではないからね。よい結婚をするのは商人の娘の義務だが、義務だけが人生ではない。私たちはこの先、お前が満ち足りた人生を歩めるよう、できる限りの協力と支援を惜しまないつもりだよ」
 巨大なマホガニーの机の奥に鎮座していた男とはまるで別人だった。
 冷酷で厳格な商人である父の目尻に、深い慈愛の皺が刻まれていた。彼の父親らしい真心のこもった温かな眼差しと言葉に、私は不覚にもほろりとしてしまった。

 実家に出戻ってからの三年間。
 あの離婚からすぐ、父と兄は厚顔無恥にも際限なく次の相手を物色してきて、隙あらば私に結婚しろとせっついていた。私の再婚を望むばあやでさえも閉口したほどの無神経さだった。けれどようやく、二度と結婚しないという私の意見を尊重する気になってくれたようだ。
(詳細かつ正確な私の本音は、“二度と結婚しない” ではなく “自分が決めた人としか結婚しない” だったんだけど。でも、このときそれをいちいち彼らに説明する必要性はなかったはずだ。)

 感謝と感動が込み上げてきて、私は一生懸命に涙をこらえていた。
 お父様とアーサーが私の夢を認め、商人になることを後押ししてくれるなんて信じられない! 昨日、勇気を振り絞ってジョセフに相談してよかった。こんなふうにとんとん拍子で事が進むなんて、私は家族にも友達にも恵まれた幸せ者ね。
 あぁ、神様、ありがとうございます。
 もうこれからはあなたの息子とその信徒による教義に、文句や難癖をつけたりはいたしません――ときどき腹を立てることはあるかもしれないけれど。
 私はこのとき、自らの幸運を世界中のみんなに感謝せずにはいられない心地だった。

「お父様、アーサー、ありがとう。私、すごく嬉しいわ」
 言葉をつかえさせながらも、私は胸を満たす想いをなんとか父と兄に伝えようと顔を上げた。ふたつの寛容かつ優しい笑顔が私を迎えてくれる、はずだった。
 上空で地上の仔ウサギに狙いを定めた鷹のように、アーサーの深い緑色の瞳が傲然と輝いていた。反射的に、私の目頭の熱が干潮のように引いて冷えた。
「それはよかった」
 兄の満面の笑みほど、私を慄かせるものはない。
「お前は結婚という最低限の義務すらまともに果たす気がないのだから、ローズデール家のために商人として身を粉にするのがお前に与えられた新たな義務だ」
 感謝と感動は、海の藻屑のように流れ去った。
 アーサーがなぜ若くしてこの自由貿易同盟で “ハゲタカ” の異名を欲しいままにしているか、このとき、私は少しばかり実感できたような気がした。

 ことごとく父と兄の手のひらの上で踊らされていると悟ったものの、もうここまで来たら、それはあえて考えないことにした。
 私はそこまで高潔で誇り高い女じゃない。幸か不幸か、並はずれて自尊心が強いってほどでもないしね。自分の夢と野望を叶えることができるなら、あこぎで計算高い身内の打算まみれの後押しだろうと構いやしないわ。
 いつか必ず、彼らに “仲間” だと認めさせてやるんだから!
 そしてこの翌月、合格の最低基準点わずか七点ぎりぎりではあったものの、なんとか薬草調剤管理士の資格を受けることができた。足かけ三年、長かったわ。でもこれでようやく、最初にしてやたら巨大な難関を突破することができた。

「まぁ! リディア、あなたはいつかとんでもないことをしでかすと思っていたけど、まさかあのハーブ石鹸で商売を始めるなんて予想もしていなかったわ」
 色とりどりの小さなケーキやスコーンが盛られた銀製の三段トレイを倒しそうな勢いで、ジェシカ・ワイナ―が興奮気味にテーブルに身を乗り出した。
「私たちの友人から女商人の出現よ! なんてことかしら。これはうちの新聞で大々的に取り上げるべき大ニュースではなくて?」
 新聞社を所有するザルツバーガー家の娘ケイトは、つぶらな灰色の瞳を爛々と輝かせ、家業を取り仕切る祖父に本当に頼みかねない盛り上がりようだった。
「あなたなら絶対に面白いことをやらかすと思っていたわ。ねぇ、もう顧客名簿はできているんでしょ? もちろん、私たちを最初に載せてくれるわよね? アルファベット順だから、“Reynolds(レイノルズ)” の私が一番目よ」
 ジェシカ、ケイト、メアリーは口々に好き勝手なことをまくした。シルクのハンカチで熱のこもった目元を押さえながら、私は三人ににんまり笑い返した。
「顧客名簿はもう出来ているわ。でも、ごめんなさい。一番目はお祖母様で二番目はお母様なの。だからあなたたちは三番目からよ」

 それまで石鹸やオイルなどを差し上げていた方々に、ローズデール家でハーブ製品の事業を立ち上げることになったため、これまでのように差し上げることがかなわなくなった旨を伝え詫びた。自分の節度に欠ける振る舞いが原因とはいえ、彼女たちをがっかりさせるのではないかと戦々恐々としながら手紙をしたためた。
 ところが彼女たちからの返事は私の予想をおおいに裏切るものばかりだった。
 もちろん幸福な意味で。
 たくさんの励ましと応援の言葉をいただけた。全員に共通していたのが “これからもずっとあなたのハーブ製品を愛用し続ける” という返事だった。
 感謝と感激のあまり、私はこの頃、一日最低一回は号泣していたように記憶している。私の熱意とやる気がさらに燃え上がったのは言うまでもない。

 そして最後に、私はジョセフに事の顛末を報告した。
 どうして最大の恩人である彼が最後なんだ、と私の不義理を責めないでちょうだい。いくら彼と私が友人とはいえ、やっぱりそこは男と女。メアリーたちみたいにいつでも気軽に会えるわけじゃないのよ。まず彼は非常に多忙な商人だし、さすがの私も独身男性の彼を我が家にお招きするのははばかられた。となると、必然的に彼と会えるのは舞踏会や晩餐会くらいになる。手紙で伝えるという手もあったけど、やっぱり感謝の気持ちは手紙ではなく直接言葉で伝えたいでしょ?

 で、いつものように示し合わせて舞踏会場を抜け出し、廊下のすみで打ち明けた。
 すると彼は顔中に満面の笑みを輝かせ、私の肩をつかんで揺さぶり、まるで私を抱き締めんばかりに身体をぐいっと引き寄せた。額と額がくっつきそうなほど近くにジョセフがいた。歓喜の星々がきらめく紺碧の瞳に見下ろされ、私の心臓はたちまち騒々しく高鳴った。顔からつま先まで、発火したように身体中が熱くなった。
「あぁ、リディア、すまない。喜びのあまり驚かせてしまったね」
 ジョセフは大慌てで私の肩から手を離した。そして興奮気味かつ慎重に私と距離を置き、目がくらみそうな笑顔で私をじっと見つめた。「おめでとう! 君の夢が叶って俺は本当に嬉しいよ。ステラのように、君は輝かしい第一歩を踏み出したんだ」
「ありがとう、ジョセフ。実はいまだに信じられない心地なの。夢を見ているみたい」
 彼の嬉しそうな笑顔に心がほかほかと温かくなった。まさに夢心地だった。
「夢じゃない。君はひとりの女商人だ」
 ジョセフは穏やかに言った。「君なら父上や兄上のような立派な商人になれる。彼らが君を認めてくれたのが何よりの証だ。君は素晴らしい家族に恵まれたね」
「素晴らしい友人にもよ、ジョセフ。私の夢が叶ったのはあなたのおかげよ。あなたが励ましてくれたから、私はこの一歩を踏み出すことができたの。あなたにはどれだけ感謝してもしきれないわ。本当にありがとう」
 言っているそばから感極まって目頭が熱くなってきた。ハチドリのようにまばたきをしながら涙をこらえ、こぼれないようずっとジョセフを見上げていた。

 すると、ジョセフの表情が変わった。
 穏やかな笑みが消えた。優しげにたわんでいた唇は固く引き結ばれた。紺碧のガラスに閉じ込められた炎のように輝く瞳。
 獰猛な狼の眼だ――そう思った瞬間だった。
 目の前が真っ暗になった。夜の匂いがした。葉巻、ワイン、かすかな香水の香り。その芳香の奥には、温かい汗ばんだ男性のうっとりするような匂いが潜んでいた。私はジョセフの広い胸の中に抱き締められていた。両腕が私の肩と腰を抱き寄せ、こめかみに彼の唇と抑えられた息づかいを感じた。
「……ジョセフ、あの……」
 両手を宙でさまよわせながら、私は何とも情けない声で彼を呼んだ。魔法が解けたようにハッと我に返ると、ジョセフは燃えさかる炎から飛び退くように私から離れた。
「リディア! あぁ、何てことだ! すまない。俺はさっきから君を驚かせてばかりだね。どうか俺の不作法を許してくれ。君は淑女なのに、俺は…… その…… いつも友人を…… 男の友達を祝福するのと同じことをしてしまって……」
 しどろもどろに弁解を試みるジョセフは、自分自身の振る舞いにひどく動揺している様子だった。
 一方の私は、夏の陽射しに当たりすぎてほてったような頬を持て余していた。でも、彼が心配しているようなショックや不快感は覚えていなかった。いつも沈着冷静な彼の予想外の感激屋ぶりに、むしろ微笑ましい気持ちが湧きあがってきた。男友達と同じことをされたのには心臓が止まるくらい驚いたけれど、それくらい喜んでくれているということよね、と私は感謝の気持ちがさらに強まった。

「あなたがこんな無礼者だとは知らなかったわ、ジョセフ」
 私はわざと不愉快そうな声を出した。ジョセフは恥じ入ったようにうつむいた。
「お詫びに一曲踊ってちょうだい。そろそろワルツの時間よ」
 私が手を差し出すと、まるで芝居のようなタイミングの良さで華やかなワルツの演奏が漏れ聞こえてきた。苦笑いとともに、ジョセフは私の手をいささか強めに握った。
「このままここで一曲踊ろう。ここでも充分聞こえる。それに、二人きりの方が気楽でいいだろう?」

 こうして二十一歳の夏の終わり、私はささやかながら石鹸、化粧水、精油といったハーブ製品を製造および販売する事業 “Stella de Loreans(ステラ・ド・ロレアン)” を立ち上げた。



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