This Story Index | Novels | Home



第16話 磁石


Stella de Loreans(ステラ・ド・ロレアン)――小粋な名前だ。由来を聞いても構わないかな?」
 晩夏の風が吹き込む廊下の端の階段は、静かでとても居心地がよかった。私たちはいつものように舞踏会を抜け出し、ジョセフは興味津々な様子で私に尋ねた。
「“ステラ” は、『南十字航路物語』のステラと私の理想の淑女である祖母にあやかっているの。私の二つ目の名前でもあるしね。古代の言葉で “星” を意味する名前だから、私の航路を明るく照らし導いてくれますように、という願いも込めたのよ」
「なるほど。では、“ド・ロレアン” は?」
「こちらには実はたいした意味はないの。“Rosedale”(ローズデール) の綴りを並び換えた言葉遊びなのよ。“de” なんて対岸の王国の貴族みたいよね。お高く留まって澄ましてるわねぇって我ながら鼻持ちならないけど、洗練された宮廷の美しい貴婦人みたいで素敵でしょ?」
「そうだね。でもどうせなら君の名前をそのまま付ければよかったのに。“リディア・ローズデール”、とても美しい名前じゃないか」
 かすかに上気した頬の微熱は無視するに限る。
「それも考えたけれど、それじゃあローズデール家の娘が仕切っていると傍目にも明らかすぎるでしょ。取引相手やお客にはそういう贔屓や偏見なしで、ハーブ製品だけで判断してもらいたかったの。まぁ、社交界ではみんな知っていることだけどね」
「父上や兄上のご威光は必要ない、ということだね?」
 ジョセフが挑発的な笑みを放った。
「もちろんよ! 彼らは私の家族だけど、商売上は共同経営者ではなく取引相手だもの」
「実家は鉄鋼、 俺自身は木材で商売をしているから、ハーブや女性の美容に関することはからっきし門外漢だ」
 ジョセフはきょろりと目を回しておどけて見せた。「しかし、リディアの話を聞いていると興味を引かれずにはいられないな。事業のことを語っているときの君は、まるで強力な磁石のようだ。とても強い力で俺の好奇心を刺激する」
 踊り場のほの暗いオレンジ色の灯りを受け、ジョセフの紺碧の瞳が一段と深みを増した。吸い込まれそうな深い海の色。溺れそうな紺碧。
「強く引き寄せられるよ」
 彼の眼差しこそ磁石だ。
 気付いたら、私は階段に並んで腰を下ろしていた彼の方に身体を倒しかけていた。慌てて背筋をまっすぐに立て直した。
 ジョセフは非常に気前のいい男だ。
 だから、老若男女すべての友人にこういう魅惑的な微笑みを平然と浴びせる。女が男友達から受け取るべき視線にしては、少々節度や礼節に欠けるものだった。でも、不思議とたしなめる気にはなれないのよね。
「ジョセフ、あなたにそう言ってもらえると私も心強いわ。商人は取引相手を引きつける話術がとても大切だから」
 私は落ち着こうとワインを一口飲んだ。熱々の焼け石にスプーン一杯の水をかけるようなものだった。

 秋に入ると、ステラ・ド・ロレアンのハーブ製品は徐々に流通に乗り始めた。
 事業の立ち上げにともない、作業助手として我が家の庭師の遠縁に当たる真面目で健康的な娘をひとり雇った。それから相談役として信頼の置ける皮膚科医、伝統的な民間療法にも精通した薬剤師数名と契約を結んだ。
 女商人リディア・ローズデールとして、私の航海の旅は追い風を受けて進んだ。
 とはいうものの、最初は小ぢんまりと、それまで差し上げていた方々、両親や祖母の友人知人からの注文を受けていただけだった。そのうち受注数がじわじわと増えていき、損益計算書は日を追うごとに増益を計上し続け、複数の卸問屋から一定量の定期注文が入るようになった。
「“ステラ・ド・ロレアン” の石鹸はいいわよね」
「あそこのハーブ水、よそと違って香りがいいから気に入っているの」
「オイルは香りが足らなくてちょっと物足りないわ」
「注文してから届くまで待ちくたびれたわ」
「翌朝には吹き出物が全部消えたの! まさに魔法のクリームよ」
 “ステラ・ド・ロレアン” の顧客は、おもに上層中産階級以上の家の奥方や娘たちだ。ときおり、街中で見ず知らずの娘たちが “ステラ・ド・ロレアン” のハーブ製品について話すのを耳にする。そのたびに新たな発見と反省とひらめきを得る。彼女たちの声は私の船の帆を押す追い風だ。失敗と成功を繰り返す日々は、私にこれまでにない苦しみと緊張を与え続けた。しかし、それまで手に入れられなかった充足と歓びももたらした。
 女商人として、私の立身出世の野望はますます燃えあがった。

 あっという間に事業開始から一年が経ち、実家に出戻って四年が過ぎていた。
 二十二歳を迎えた黄金色の晩秋、私は念願叶ってついに路面店を出すに至った。街の目抜き通りから一本奥に入った、小粋なお店が集まる瀟洒なノヴェッラ通りにある淡いクリーム色の外壁の小さくて愛らしいお店だ。
 私が自分の足で探し求め、ちょうどよく店舗移転のために売りに出そうとしていたアンティーク家具店のオーナーから譲り受けた店なの。二階の高さにきれいなバラ色の円形の看板がさがっているから、目抜き通りからのぞきこむだけでもすぐわかるはずよ。
  この路面店の売り子として見栄えも気立てもいい若い娘と、客の相談役として薬草やハーブにも博識な薬剤師の奥方を新たに雇った。増え続ける注文に対応するため、店舗の奥をハーブ製品製造所として大規模な増改築をし、製造専門の作業員を数名雇い入れた。製品の製造は腕の立つ彼らに任せ、私はハーブ製品の発案と開発に専念することにした。
 外聞をはばかるのも忘れ、私は経営者として仕事と金儲けに夢中だった。

 ノヴェッラ通りの路面店が連日女性客で賑わうようになる頃には、ステラ・ド・ロレアンの顧客名簿は我が目を疑う華やかさとなっていた。この自由貿易同盟を飛び越え、近隣の貴族の妻や令嬢の名前が載るようになるなんて、よほどの自惚れ屋でもないかぎり想像しなかったはずだ。
 自由貿易同盟の中で小ぢんまりやっていければ嬉しい。そんなふうにのんきに構えていた私は、予想をはるかに上回る事態の大きさにすっかり度肝を抜かれた。
 彼女たちの数人からお礼状を受け取ったのだけれど、彼女たちは私が事業を起こす前後から、すでに友人知人から話を伝え聞き、私のハーブ製品に強い関心を寄せてくれていたらしい。
 どうして私がそのことを知らなかったかというと、答えは簡単。彼女たちが私に接触してこなかったからだ。
 正しくは、できかねた、と表現するべきなのかもしれない。
 私の感覚からすると、言ってくれればあげたのに、と不思議なんだけれど。たまたま知己を得て親しくしなった生粋の貴族令嬢曰く “自分たちと異なる階級の方々と積極的に交流を持とうとする貴族の女性は、本当にごくごくわずかね” とのことだから、そこはまぁ、推して測るべきだ。

 というのも、ここ自由貿易同盟は、この国の中でかなり異質な存在らしいのよ。ここで生まれ育った私はそういうふうに感じないし、首都や南部、西海岸の商人たちの話しぶりから勝手にそう判断しただけなんだけどね。

 かいつまんで説明すると、まず国には一番上に国王陛下がいて、その下の各州にはそこを治める領主様、つまり貴族がいるでしょ。
 でも、ここにはその領主様がいない。
 自由貿易同盟とは、国王陛下に直接忠誠を誓う都市の集まりなの。その中で、都市はそれぞれの裁量で対岸の大陸の各国や東洋や中東、南洋の国々と輸出入の貿易をしたり、緩やかな同盟に基づいてお互いに独立性と平等性を保ちながら物流を繋ぎ、文化の面でも交流を深めている。
 ここはつまり、王国の経済発展のために国王陛下直々に法的、行政的に特別な地位が約束されている都市の集まり。大雑把な言い方をすると、貴族にとっては自分たちの力が及びにくい治外法権みたいなものね。だから、とくに心配性の貴族のご婦人だと、好奇心よりも自分に害を為されるかもしれないという不安の方が大きくなってしまうのかもしれないわ。
 もっとも、私が彼女たちを害する理由も目的も、そこから得られる利益も何ひとつ思いつかないけれど。

「貴族やその血を引く上流階級の人々にとって、正直や素直さは美徳に該当しないことが多々あるようだ」
 舞踏会の大広間の壁際で、ジョセフは国中の貴族がこぞって求める対岸の大陸にある王国産のリンゴの蒸留酒(カルヴァドス)を、まるで果汁ジュースのように気安げに飲み干した。
「それでも手紙を一通よこせば済むことでしょう? 貴族のみなさま方は、日々どれほど危険にさらされながら暮らしているのかしら?」
「君のハーブ製品の評判を聞きつけはしたものの、あくまでそれは一商家の娘が趣味で作っているもので正規の商品ではない。ヴァンダーグラフ家やフェアバンクス家のように伝統的に貴族と姻戚関係にある家の娘なら親や親戚を経由しようと考えたかもしれないが、あいにく君は “ただの商人の娘” だ」
 私は苦笑した。ジョセフの率直さは社交界に実に不向きだ。
「だから、気高き貴婦人であらせられるあちら様としては、喉から手が出るほど欲しくても君に軽々しくお声をかけるのがためらわれたんだろう。いやはや、感嘆に値する慎み深さだ」
 爽やかな笑顔を浮かべ、ジョセフはいまや私の顧客である貴婦人たちを仰々しくそう評した。
「あなたが口にすると、慎み深さが美徳に聞こえないわ」
 私を見つめ返す紺碧の瞳が、愉快そうに細められた。

 この頃になると、社交界でジョセフと私が密かに恋人関係にあると疑惑の目を向ける者はいなくなっていた。
 彼と私は社交界で男同士のように商売のことを議論し、浴びるようにワインを飲みながら趣味や興味を引かれたことをしゃべり明かした。ジョセフと私の色気もへったくれもない交友は、私の女友達の笑いの種となり、社交界の若い娘たちを唖然とさせ、彼女たちの親を困惑させ、若い男たちに興味と反発を抱かせ、折り目正しい人々から顰蹙を買い、一部のおおらかな人々を面白がらせ、私の家族をほとほと呆れさせた。

「我が家は父がかろうじて二代目を名乗れる程度の成り上がり。貴族のご婦人方は、私と言葉が通じないと危惧されたのかもね」
 自由貿易同盟のローズデール家の始祖である私の祖父は、南部の酒屋の息子だった。一介の船乗りから積荷船貨物事業を興し、苦労を重ねて南部で地位を確立した後、晩年近くにここ自由貿易同盟に進出してきたのだ。
「それは大いにありうる」
 ジョセフは私の自虐的な皮肉をにこやかに肯定した。「俺が寄宿学校で友人と話していたら、近くにいた貴族の息子たちが人の言葉を話す犬でも見るような顔でひどく驚いていたからな」
 ジョセフのことだから、きっと彼独特の少々辛口なユーモアと際どいジョークを飛ばしていたのだろう。
「私はただの商人の娘だけど、貴婦人の血を引いているのよ。祖母は南部の名門デュシャネル家の娘だもの。彼女は母親の生家ルイスヴィル伯爵家で教育を受けた正真正銘の貴婦人なんですからね」
 わざとらしく顔の前で扇子を広げ、私はジョセフにささやいた。「だから、祖母が酒屋の息子と結婚するには、駆け落ちしかなかったの。ふたりだけで東海岸を北上して北部高地の境界線を越え、“金床の司祭” のもとに駆け込んだのよ」
 一世紀前の連合法によって現在の王国が成立するまで、北部高地は独立した別の王国だった。だから結婚に関する法律がこちらと異なり、ちょっと独特だ。
 ふつう、二十一歳以下の場合は親の同意がないと結婚できないでしょ? でも、北部高地は違う。二人の証人の元で誓いが立てられたなら、親や一族の許可が下りていなくとも、ほとんど誰でも結婚式を主催することができる。
 北部高地の鍛冶屋は “金床の司祭” と名高い。彼らは熱く溶けた金属を金床の上で打ち、固めるように、駆け落ちした恋人たちを “溶接” する。
 祖父母の駆け落ち事件は、南部の社交界はもちろん、現地の警察や治安判事を巻き込む大スキャンダルに発展したらしい。でも、今ではローズデール家と祖母の実家デュシャネル家、親戚にあたるルイスヴィル伯爵家はそれなりに仲良くやっているから、終わりよければすべてよし、ってことかしらね。
 とても寡黙で老いてなお赤毛の熊のように厳めしかった祖父とおとぎ話のお姫様のように可憐で優美な祖母が恋に落ち、ふたり手に手を取って愛の逃避行に飛び出し、生涯添い遂げた。恋物語や恋愛歌劇が大好きで夢見がちな私のような若い娘で、こういうエピソードに心惹かれない女がいる?
「君も誰かと北部高地の鍛冶屋に駆け込みたいのかい?」
 ジョセフは気安げに私を挑発した。
「私は新教徒よ。罪の告白をするなら、司祭様ではなく牧師様にお願いするわ」
 指を鳴らすように扇子をたたむと、私はジョセフに言った。「それに、私に “金床の司祭” の祝福は不要よ。私はもう二度と結婚しないもの」

 離婚から五年弱、商売を始めて約二年と少しが経っていた。
 この秋、私は二十三回目の誕生日を間近に控え、相変わらず婚約者はおろか恋人もおらず、当然ながら独身のまま、社交界では女の落伍者の烙印を押されていた。
 しかし、その一方、“女商人リディア・ローズデール” として、自由貿易同盟の市民たちから物珍しさを多分に含んだ関心と、“出戻りのお嬢様にしては面白いことをするじゃないか” という感心らしきものを向けられていた。
 ときおりノヴェッラ通りのお店に顔を出すと、女性客たちと居合わせることがある。彼女たちは裕福で、育ちがよく、行儀作法を身につけ、小粋で洗練された若い女の子たちだ。彼女たちが私を見る顔には、驚きと興奮と好奇心と――もし私の見間違いでなければ――喜びがあふれている。彼女たちの笑顔や言葉のおかげで、私は手のひらで輝く宝石のような充実感を手に入れることができた。相変わらず社交界では落ちこぼれのままだったけれど、彼女たちのおかげで私は以前ほどいじけたり卑屈な気持ちに沈まなくなっていた。

「未亡人でもないのに商売に手を出すなんて、はしたない」
「さすがはローズデールだ。娘まで金の亡者とは」
 女性がいないわけではないけれど、商人はやはり男の仕事だ。
 女商人と呼ばれる人のほとんどは夫の仕事を引き継ぎ、幼い跡取りが一人前になるまで家業を守っている未亡人ばかり。いくらこの国で最も進歩的で開かれた自由な風土を自認するこの地域でも、やはりそれなりの家柄の妻や娘は働くべきではないというのが一般論だ。
 十七歳で社交界にデビューする前から、私は数えきれないほど多くの辣腕商人ややり手の実業家たちを見てきた。彼らはなにごとにも完璧を求める。妻にする女にも。彼らの妻になるには、最高の女主人になれる淑女でなければならない。晩餐会や舞踏会を見事に仕切り、美しい容姿に最高のドレスを身につけ、健康で優秀な子供たちを産める女。決して夫の妨げにならず、求められない限り口を出さず、ましてや夫と同じ商売に手を出すような “蛮行” を犯さない女だ。
 だからそれなりの海運貿易商の娘で、出戻り女ではあるけど未亡人ではない私が自ら商売に手を出したら、家長である父の許可と後押しがあるとはいえ、案の定、社交界の人々から大いに顰蹙を買ってしまった。
 私を驚かせ、それ以上に失望させたのは、私を白眼視していたご婦人方より、私と同世代から少し上くらいの若い紳士たちの方が強く私に反発を示したことだ。彼らはまるで私を卑劣な裏切り者であるかのように非難したけれど、私が商売を始めたところで彼らはなんら不利益を被ることなどないはず。これまでのように無視するか、ジョセフのように余裕しゃくしゃくで受け流していればいいのに。小娘相手にわめく殿方ほど、私たち女をがっかりさせるものってないわ。
 ところが世の中、敵ばかりではなかった。
「ミス・ローズデール、あなたのおかげで、わたくし、勇気を持てましたわ」
「私もあなたのように自分で商売を始めたいと思っていたの!」
 私のように自分の好きなことや得意なことを、家業のひとつ、自分の事業として興したいと考えていた若い女性は少なくなかったのもまた事実。彼女たちにとって、私は格好の前例となってしまったわけだ。私は彼女たちからは羨望と憧憬と称賛を浴び、彼女たちの家族や親戚からは家を蝕む白蟻のように疎まれた。

 私の評判はどう転んでも良くならない運命にあるらしい。

「あら、いまだ嫁ぎ手のつかない女商人さんじゃないの。ごきげんよう」



This Story Index | Novels | Home


Copyright © 雨音 All Rights Reserved.

inserted by FC2 system