仕事中毒と評判のジョセフだから、やっぱり仕事に没頭するのかしら?
彼はブラッドリー家の御曹司だけど、材木商としてはいわゆる立身出世の成り上がり者。彼の実家の商売は鉄鋼と鉄道業だ。対して、ジョセフの商売は森林を管理し、そこで採れる木材の卸売。“俺は家出同然の身の上” なんて茶化していたけど、実際のところ、実家からの直接的な支援や連携といえば、せいぜい輸送手段の融通くらいしかアテにできそうにない。となると、やっぱり寝る間も惜しんでがむしゃらに働かないと、この地位を手に入れ、守っていくことなどできないに違いない。
それができるからこそジョセフは商人として堂々と自信に満ち、男としても頼もしく魅力にあふれているのだろう。
「そうね、ジョセフはとても魅力的な男よね」
あの紺碧の瞳を眩しそうに細めて見つめられると落ち着かなくなる。うっとり見惚れてしまわないよう、私はいつも理性を奮い立たせなければならないんだもの。
「まっとうな女なら、彼を好きにならずにはいられないわ」
湯気にとけるような自分の声にぎょっとなった。
雷に驚いたように、浴槽の中で跳ね起きた。誰かに聞き咎められるはずなどないのに、きょろきょろと室内を見回してしまった。それから慌ててお湯で顔を洗った。かえって頬のほてりがひどくなってしまった。
あぁ、なんてこと! 私、疲れているのかしら?
大切な男友達をこんな色眼鏡で考えてしまうなんて。私は羞恥心と罪悪感でいたたまれなくなり、膝を抱えた。
でも、もしジョセフに求められて彼を拒絶できる女がいるかしら?
ううん、いるはずがない。あの紺碧の瞳で求められたら、女は狼の牙にかかった野ウサギのように彼に従わざるをえなくなるだろう。
ジョセフに求められる。
やめておけばいいのに、私は考えずにいられなかった。
“たまらなく寂しくなるとき”、彼も女を求めたりするのかしら……?
寄り添い、女の髪を優しくなでたりするのかしら?
耳元で熱っぽく愛の言葉を囁いたりするのかしら?
情熱的な口づけを交わしたりするのかしら?
ぬくもりを求めて女の胸に顔を埋めたり、肌を重ね合わせたりするのかしら?
家庭教師やばあやの目を盗んで読んだ本――中世の神学者と弟子の修道女が交わした愛の往復書簡集、男爵夫人と森番との背徳の愛、植民地の青年と宗主国の娘の官能的な悲恋といった “淑女に相応しからぬ本”――の内容が、猛烈な熱風となって私の頭の中に吹き荒れた。
私だって男を知っている。初夜のたった一度きりだけれど。
知識だけは豊富な耳年増だった私は、その分、胸に抱く期待も不安も非常に大きかった。元夫と迎えた初夜は緊張と恐怖で始まり、驚きと戸惑いが連続し、痛みと忍耐に終始し、お世辞にも成功したとは言えなかった。私は苦痛しか感じなかったし、彼は義務感しか覚えていなかっただろう。
では、ジョセフと亡き奥方はどうだったのかしら?
いまだ再婚する気力を起こせないほど深く愛していた妻なら、彼は時間をかけて丁寧に慈しむように触れたのかしら? それともあふれるばかりの情熱をぶつけるように、熱く激しく彼女を貪ったのかしら? あの紺碧の瞳が獰猛な狼のように濡れて、がっしりした身体が彼女に圧しかかり、押しつぶし、荒々しく揺らしたのかしら? 彼の浅黒い肌はほてって汗ばんだはず。そして欲望を遂げると、優しくこう囁いたに違いない。
「愛しているよ」
息が止まった。
熱い吐息と低くかすれた声を耳元に吹きかけられたような錯覚。
痙攣のような震えが背中を駆け上がり、全身の皮膚が粟立った。
やだ! 何を考えているの!
はしたない妄想を断ち切るようにお湯を叩き、今度こそ私は悲鳴を上げた。その拍子に洗った髪を包んでいたタオルがほどけ、髪がばさりと肩に落ちてきた。散乱した秘密の手紙をかき集めるように濡れた髪をまとめながら、いけない、落ち着かなきゃ、と私は自分に言い聞かせた。
頭の中からジョセフを追い出そうと渾身の力を振り絞った。しかし、私の中で彼はびくともしなかった。縄張りの真ん中に鎮座する狼のように。
そうなると大して気概のない私は、その現状に屈するほかなかった。
今まで考えたことはなかったけど、ジョセフに恋人はいないのかしら?
再会して以来、彼はこのときまでずっと独身のままだった。婚約はおろか、誰かと恋人関係にあるという噂すら聞いたこともなかった。あるとすれば私くらい。でもそれは真実ではなかったし、私たちのやり取りを目にした人々によってすでにその噂は立ち消えていた。
じゃあ、愛人や情婦は?
裕福な未亡人や奔放な既婚女性の若いツバメになったり、お気に入りの娼婦や美しい女優と恋人の真似ごとをしている社交界の若い独身男性たちは少なくない。
幸か不幸か、私は男の欲望の強さに関して無知ではなかった。彼らがそれを満たすために、ある程度は危険を顧みず、ありとあらゆる労力を惜しまないことを知っていた。ジョセフだってまだ三十歳そこそこの若い男だ。当然、欲望はあるだろう。それを発散させる相手が必要だ。
身を縮めるように、私はもじもじと膝を抱えた。
そうよね。ジョセフだって男だもの。私が知らないだけで、お気に入りの娼婦や美しい情婦のひとりやふたり、いるわよね。社交界の人々はおろか、この私にまでそのことを悟らせず平然と振る舞えるなんて、さすがの手腕だわ。
人生の経験を積んだ大人の女を気取った途端、私は得体の知れない不快感で息苦しくなった。疲れを癒すための入浴だったのに、沼で溺れかけたアライグマのように、私はひどい疲労感を背負って浴槽から這い出た。私の指先はしわがれたようにふやけ、頭は鈍く痛み、心には一足早く冬の木枯らしが吹きこんだ。
白いナイトドレスを着て、髪をとかし始めた。ふたりの小間使いがやってきて、浴槽を片付けた。ブラシの粗毛を髪に通すうち、腰まである髪は赤銅色の波打つ流れに変わっていった。バルコニーに続く大窓のカーテンは開かれていた。星のない空は冷えて固まった黒い鉄板の色だった。
私はとことん思索に不向きな女のようだ。
数日後、私は知人の
田舎の空の色は街とまったく違う。澄んでまろやかな青。空気は穏やかな静けさに満ちている。馬車の車輪が騒々しく鳴る音も、敷石を踏む馬の蹄の音も、物売りや物乞いの声もなく、決してやむことのない工事現場の耳障りな騒音もいっさ聞こえなかった。聞こえるのは、アカゲラが木をつつく音、川べりの葦の茂みからときおり飛び立つカワセミの羽ばたき、そして庭の生垣の上を飛び交うコマドリの愛らしいさえずりくらいだった。
「やぁ、ミス・ローズデール」
「ごきげんよう、ミスター・ブラッドリー」
黄金色に染まった木々を背に、ジョセフはわざわざ友人たちの輪から抜け出て私に声をかけてくれた。彼の含むところのない笑顔を目の当たりにしたら、不埒な想像に引き出してしまった罪悪感と例の奇妙な息苦しさが再発した。
はっと我に返った。社交界における男女の距離のルールをいともたやすく破り、ジョセフが少し屈んで私の顔をのぞき込んでいた。人懐っこい黒のラブラドール・レトリバーがくんくんと鼻先を押しつけるように、ジョセフは私の肩のあたりに鼻先を向けて不思議そうな表情を浮かべていた。
「何だろう? リディア、君からこれまでかいだことのない香りがする。甘く濃厚でありながら清々しい…… とても神秘的な香りだ」
不用意にもジョセフは私の耳元でささやいたので、彼の吐息が私の首筋を容赦なくくすぐった。「香水かな? これも君のハーブ製品かい?」
「サンダルウッドの精油にパチュリの精油を少し加えたものをつけているの」
楽しそうに歓談する人々をがっしりした肩越しに見ながら、私はジョセフに答えた。
「サンダルウッド? パチュリ?」
聞いたことのない異国の言葉を反芻するように、ジョセフは言った。
「サンダルウッドは東洋の南にある国で採れる香木…… 良い香りがする木の一種よ。古代から珍重されている伝統的な香料で、もともと採れる量が少ないうえに栽培がとても難しいから、なかなか手に入らないの。パチュリはラベンダーに似たハーブの一種よ。香りがとても強く癖があるけど、濃厚で甘いサンダルウッドの香りをすっきりと爽やかに引き締めてくれているの」
平常心を保つため、私は精油棚に並ぶ品目をかたっぱしから思い返した。
スペアミント、ペパーミント、レモンバーム、ローズマリー、カモミール……
ローズ、ジャスミン、オレンジの花、ベルガモット、ラベンダー、プルメリア……
チュベローズ、イランイラン、アーモンドの花、乳香、沈香、バニラ……
あぁ、そうだわ、街に戻ったら、温室の純白の蘭が満開になっているはず。低温でアンフルラージュ――花びらを脂肪の層で挟み、香りを脂肪の層に移してからアルコール溶剤で極めて純度の高い精油を抽出する方法――しなきゃ。来週には、マッコウクジラの腸内にできた結石から抽出する貴重な
それから…… それから……
「なるほど、納得したよ。だから深みがあり芳醇なのに、どこか爽やかで上品な香りなんだね。俺も今日のリディアの香りがとても好きだ」
謎を解明した少年のように、ジョセフの顔に満面の笑みが輝いた。
私の冷静さはあっけなく粉々に砕けた。酸欠を起こしたようにくらくらめまいがして、私は思わず深呼吸をした。
「そう…… えぇと、ありがとう、ジョセフ。それはよかったわ……」
柄にもなく口ごもり、私は彼の顔をまともに見ることができなかった。普段、行儀が悪いとたしなめられるくらい、相手の目を射抜くように見つめ返してしまうにもかかわらず。
「リディア、どうしたんだ? どこか具合でも悪いのか?」
目敏いジョセフが、そんな私の変化に気付かないはずがなかった。
心配そうに、またしても私の顔をのぞきこもうとしたので、私は思わず後ずさった。彼の匂いがかすかに鼻先をかすめると、息苦しさが悪化して胸が痛くなった。
「そんなことないわ。私は元気いっぱいよ」
「俺は君に何か無礼なことをしてしまったかな?」
私のしらじらしい態度に、ジョセフはひどく困惑しているようだった。その様子が、ますます私をうろたえさせ、罪悪感をふくらませた。
「いいえ、そんなことないわ」
「そうは見えない。君は何かとても深刻な問題を抱えているように見える。俺ではその手助けにはなれないかな?」
「ご親切にありがとう。その気持ちだけで充分よ、ジョセフ」
彼は誠実で友情に厚い男だ。相談相手としてこれほど信頼の置ける人はいない。しかし、だからと言ってこればかりは彼に打ち明けることはできなかった。
だってそうでしょ?
ここのところ毎晩、私はふしだらな放蕩娘のような考え事に没頭して、しかもその相手がジョセフ、あなたなのよ。それでお日様の下でこうしてあなたに対面していると、どうしようもない罪悪感と息苦しさで胸が痛くなるの。どうしたら治るかしら?
そんなことを男友達に、しかもジョセフ本人に相談できるわけないじゃないの。
「今日の君はまるで “正しい淑女” だな」
居心地の悪い短い沈黙の中、不意にジョセフの声が頭上から降ってきた。鋭い皮肉が私の頬を軽くはたいた。顔を上げると、その声色に相応しい表情を浮かべた彼とこの日、初めて目が合った。海賊劇を見に来たのに劇場側の手違いで古典悲劇を見せられた観客のように、ジョセフは失望もあらわに私を見据えていた。
「美しく着飾って、扇子を広げてお人形のように笑っているのがお似合いだよ」
「えぇ、勿論ですとも、ミスター・ブラッドリー。わたくしほど完璧で素晴らしい淑女はおりませんわ!」
思わずカッとなって反論した直後、自分の幼稚さと発言の愚かさにうんざりした。
「安心した。君までお上品で退屈な女になってしまったのかと焦った」
私は弾かれるように顔を上げた。ジョセフの顔には、悪だくみを成功させて得意満面の少年のような笑みが浮かんでいた。
「それ以上に俺を哀しい気持ちにさせることはない」
気さくな態度のために失念されがちだけど、ジョセフは口も八丁、手も八丁、非常に厄介な商人だった。そんな男にかかれば、私のような小娘の心の内を暴くことなんて、赤子の手をひねることより簡単よね。
見上げた先で、ジョセフは厚かましくも勝ち誇った笑顔を放っていた。罪悪感や奇妙な息苦しさのために彼に遠慮して、独り善がりな振る舞いをしている自分がとんでもなくばかばかしく思えてきた。
「あなたを哀しませるのは本意ではないわ」
照れくささを誤魔化すため顎をツンと上げ、私は傲慢にも彼に言い放った。「だってそんなことをしたら、哀愁を漂わせるあなたの周りに海の怪物たちがうじゃうじゃ寄ってきてしまうもの。彼女たちは寂しげなあなたが大好物なのよ」
「あぁ、そのとおりだ」
目元を崩し、ジョセフは歯をくいしばった。大声で笑いたいのを懸命にこらえている顔だ。「君が君らしくいてくれなければ、俺は社交界で息継ぎすらままならない」
「それは大変! 私、か弱いあなたが溺死しないように見守っていてあげなきゃ」
「それなら安心だ。さて、今日は今年の初物ワインを浴びるように飲むためにここに来たんだ。リディア、君もどうだい?」
“正しい淑女” は、ワインを浴びるように飲んだりはしない。顎と首の曲線が最も美しく見えるもったいぶった角度でグラスを傾け、ハツカネズミのようにちびちびと品良くすすらなければならない。
「素敵な提案だわ、ジョセフ。ぜひご一緒させてちょうだい。私もそれを楽しみにしていたの。“素晴らしい淑女” の私はね」
目元も口元も綻んでいることは承知していたけど、私は無理にこらえようとはしなかった。すると、彼はいつものように紺碧の瞳を眩しそうに細め、満足げに私を見つめ返してくれた。
ジョセフはなにもかもすべてを持ち合せている男だ。
商人としての才覚。男としての魅力。亡き妻を愛し続ける一途さ。友人を気づかう思いやり。小娘の戯言を笑っていなす余裕。見つめられると思わず微笑み返したくなる魅惑的な笑顔。
不思議なことに、ふしだらな罪悪感も得体の知れない息苦しさも、私の中からきれいさっぱり流れ去り、消えてなくなっていた。
少なくとも、このときはそうだと信じて疑わなかった。
だからこの数ヶ月後、私は自分の愚鈍さを呪うことになる。
商売を始め、女商人としてそこそこの評判を手に入れてもなお、私は心の機微に疎い愚図な小娘のままだった。
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