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第19話 見舞い


 頬を切る冷たい風。分厚く垂れこめた鉛色の雲。ちぎった綿のような雪片。
 ジョセフが心待ちにしていた冬がやってきた。

 ところが、森の視察から帰ってきて早々、彼は珍しく流行りの感冒熱に捕まって寝込んだ。この年の感冒熱は熱が上がったままなかなか下がらず、こじらせて肺炎になりやすいと非常に悪名高かった。社交界に出入りする人の中にも、親類や友人知人を亡くした人がいた。
 森を歩くことが好きで一年中うっすら小麦色の肌をした男が、熱にうなされ苦しんでいるのかと思うと居ても立ってもいられなかった。解熱や鎮静効果の高いムラサキバレンギクやタイムのハーブティーを彼の家に届けさせたり、彼が一日でも早く治るように寝る前にこっそりお祈りをしたり、部屋の中を意味もなくぐるぐる歩き回ったりする程度には心配していた。
 遠回しにジョセフにお見舞いに行っていいか尋ねたら、移るから来るなという素っ気ない返事が届いた。妥当な返事よね。私は彼の家族でも妻でも婚約者でも恋人でもなかったんだもの。自分が高熱で苦しんでいるときまで、いち女友達の相手をするのはさすがのジョセフも億劫だったようだ。私は自分の無思慮と自分勝手な振る舞いに恥じ入り、“一刻も早くあなたが快復しますように。お大事に” とつまらない定型句のお見舞い状を彼に届けさせた。
 ジョセフが寝込んだとの知らせから数日後、音沙汰がなくやきもきしていたところに、今度は彼から見舞いに来いとの厚かましい伝言が届いた。その言づてを持ってきた使い走りの少年に温かい紅茶とあつあつの根菜スープ、生ハムのサンドイッチを与えるよう小間使いに言いつけると、私は急いで部屋に駆けこんだ。

 侍女を呼ぶ時間さえ惜しかったので、私はそそくさと自分で着替えを始めた。着付けをする侍女がいないのをこれ幸いとコルセットを締めず、 簡素な生成り色の昼用ドレスを着た。ふくらはぎまで包む厚手の革の編み上げブーツに脚を押し込み、ミンクの毛皮のコートを着込むと私は部屋を飛び出した。
「あら、お嬢様、どちらかお出掛けになるのですか?」
 玄関へ続く階段の踊り場で、ばあやと鉢合わせた。
「ばあや、私はこれからミスター・ブラッドリーのお見舞いに行ってくるわ!」
 背後でばあやが何か叫んでいたけれど、階段を駆け降りる私を引きとめる力はなかった。私は馬車に飛び乗ると、雪が舞う中、御者を急かして可能な限り全速力で馬車を飛ばした。

 ジョセフの家はこの街の南側、レンガ造りの建物と初夏には街路樹の緑が一際美しい地区の一角にあった。ここは富裕な独身の男性商人が多く居を構えていることで知られ、社交界の少数派である奔放な独身の娘たち――非常に不本意だけれど、私もここに分類されていた――や若手の女優たちの言葉を借りると “毎日通って散歩したい場所” だ。
 半地下を含む地上三階建てのジョセフの家は、最上階の窓に曲線のアラベスク模様の装飾が控えめにあしらわれているだけで、周囲の家々に比べるとこぢんまりとしている。通りを歩いていても、目を留めず通り過ぎてしまいそうなほどだ。
 けれどじっくり見ると、象牙色の石組みや窓や玄関の配置に設計者の研ぎ澄まされた美意識の片鱗が見受けられる。そんな質の高い簡素なたたずまいは、ごちゃごちゃ飾り立てることを好まない彼の気質そのものだった。

 馬車が通りに入って減速し始めたとき、私はたったひとりでジョセフの家に乗り込もうとしていることにようやく考え及んだ。
 例の息苦しさが再発し、その動揺で頬や耳がかっと熱くなった。自分の現状を省みて私は頭を抱えたくなった。大慌てのあまり付き添いも連れず家を飛び出し、その上、いつ見舞いに行くかジョセフに返事もしていなかった。
 私はうろたえた。突然押し掛けて、もし彼にとって間の悪いときだったらどうしよう。もしかしたら彼の家族や友人がお見舞いに来ているかもしれない。それに彼の情婦やお気に入りの娼婦と鉢合わせしたらどうしたらいいの? あぁ、私ったらなんて不作法なうえに軽率な女なのかしら!
 馬車の中でミンクの毛皮をなでたりつまんだりしながら落ち着こうと試みたけれど、優秀な御者のおかげでその前にジョセフの家に到着してしまった。
「お嬢様、お待たせいたしました」
 若い御者は馬車のドアを開け、傘を差して私を待ってくれていた。彼の手を借り、私は雪が積もった街路に降り立った。
「雪の中を急いでくれてありがとう」
「お嬢様のご命令なら、氷河の上も駆け抜けてみせます」
 彼の素朴で人懐っこい笑顔のおかげで、ほんの少しばかり心がなごんだ。

 身体が震えているのは雪と寒さのせいだ。自分にそう言い聞かせ、私はいったん深呼吸をしてからジョセフの家の玄関の呼び鈴を鳴らした。すると扉の小窓が開き、中からふたつの黒いどんぐりまなこがのぞいた。
「ごきげんよう、リディア・ローズデールです」
 ジョセフから届けられた言付けのカードをかざして言った。「本日はミスター・ブラッドリーのお見舞いに参りました」
「ミス・ローズデール! お待ちしておりました」
 扉が開かれると、浅黒い肌のいかにも健康そうな中年の家政婦が私を家の中に迎え入れた。「ようこそお越しくださいました。雪の中、こんなに早くいらしていただけるなんて、ジョセフ様も大層お喜びになるでしょう」
「うかがう日時を返事もせず、突然押し掛けてしまってごめんなさい」
 外套を彼女に渡しながら、私は尋ねた。「ミスター・ブラッドリーのご都合はよろしいかしら?」
「えぇ、ジョセフ様はベッドの上から動けませんもの。都合が良いも悪いもございませんわ。こんなに早くあなた様がお見舞いにお越しくださって、むしろありがたいとお思いになるに違いありませんよ」
 彼女は心から嬉しそうに私を見上げた。
 おそらく、彼女はジョセフの両親の代からブラッドリー家に仕え、数年前から彼のこの家に住み込みで雇われている古参の家事女中エフィーだろう。ジョセフは彼女を家族同然に大事にしていて、ことあるごとに彼女の働きぶりと温かな人柄を私に自慢してきた。辣腕の商人として鳴らす彼も、幼い頃から自分の面倒を見てきた彼女にはどうにも頭が上がらない様子だった。

「あなたがエフィー?」
「はい、ミス・ローズデール」
 エフィーはひどく驚いた様子で私に振り向いた。
「ミスター・ブラッドリーからよくあなたのことを聞いているわ。彼、“私が好きなだけ仕事をできるのは、エフィーがいてくれるからこそ” って、しょっちゅう私にあなたのことを自慢するのよ」
「まぁまぁ、坊ちゃまは昔からおしゃべりが過ぎますわ」
 恐縮しつつも、エフィーはとても嬉しそうに目元をゆるめた。
「エフィー、あなた、ずっとジョセフの看病をしていたのでしょう? 体調は平気?」
 お節介は承知だったけれど、気になったのでついつい聞いてしまった。
「はい。四歳のとき麻疹に罹ったこと以外、あたくしは病気らしい病気にかかったことはございません」
 エフィーは誇らしげに胸を張って答えた。
「無理をしないでね。今年の感冒は熱が長引いて肺炎になりやすいのですって。ご家族ともども、暖かくして気をつけてちょうだい」
 ジョセフから聞いたところによると、彼女はすでに夫に先立たれ、週末は娘夫妻と四人の孫の家で暮らしていた。彼女自身はもちろん、小さな子供たちまで感冒熱に罹ったりしたら大変だ。
「ありがとうございます、ミス・ローズデール」
 エフィーは黒い目を細めて言った。「あたくしなんぞにそのようなお言葉をかけてくださる淑女は、ブラッドリーの奥様だけだと思っておりました」

 ジョセフの寝室に通されると、ネイビーブルーのベルベッドのカーテンが束ねられた天蓋付きのベッドの中で、ちょうど彼が起き上がったところだった。寝室は暖炉のおかげでぽかぽかと暖かかった。
「ジョセフ、大丈夫? 熱はもう下がったの?」
「あぁ、もうほぼ平熱だ。ここにおいで」
 彼は枕元のすぐ横を手でぽんぽんと叩いた。私は彼と向き合うようにベッドの端に腰を下ろした。思いのほか彼の顔色がよくてほっとした。
「あなたが感冒熱なんて本当に驚きよね。でも思いのほか元気そうでよかった」
「あぁ、まったく酷い目に遭った」
 彼がややくたびれた表情で言った。
「どうせまた木こりたちと雪洞の中で一晩中飲み明かしていたんでしょ。あなたのそういうところ、いまだに十二歳の男の子のままなのね」
「雪洞の中は暖かいんだよ。それにもうほとんど治ったからいいんだ」
 彼は言い訳がましく言い返した。

 ジョセフをこの胸に抱き締めたかった。
 たとえそれが男友達に対する礼節から大きく逸脱した振る舞いだとしても。
 だって、大切な友人が完璧とはとても言えない状態に陥っていたのよ。まさかこの私が、感冒熱でよれよれにくたびれた男友達に母親のような優しさを覚えるなんてね。でも確かにこのとき、私はジョセフに香辛料をきかせたホットワインを飲ませ、毛布でくるんで温めてあげたくてたまらなかった。
「ほら、冷やしちゃだめよ」
 メアリーの息子のおくるみを直すように、彼がはおっていたガウンを丁寧に掛け直した。生まれたばかりの赤ん坊と同じように、彼は興味津々の眼差しで私を見ていた。
「もう帰るのか?」
 私がベッドから腰を上げた途端、ジョセフが哀れっぽい口調でつぶやいた。無心な表情は弱々しく、ますます私の心をほっこりと慈愛に満ちた心地にさせた。
「エフィーにホットワインを作ってもらおうと思って」
 厨房まで下りていき、彼女にシナモンとクローブをたっぷり効かせたホットワインを作るよう頼んだ。寝室まで持ってきてもらうと、私はジョセフに蓋つきの陶器のマグを持たせてあげた。芳醇なワインと蜂蜜漬けレモンの甘酸っぱい香りが私たちを包み、部屋中にふんわりと広がった。
「身体の芯まで温まるでしょう?」
 向き合ってワインをすすっていると、ジョセフの頬はほのかに上気し、だいぶくつろいで気分も良さそうだった。
「あぁ、爪先までぬくぬくしてきた」
 眠たげなとろんとした表情で、ジョセフがゆっくり私の肩に寄り掛かってきた。
 病気にかかると、どんな人でも多かれ少なかれ気が弱くなるものよ。ジョセフが私にこうして甘えたい気持ちになっても不思議はない。私はますますジョセフのことがかわいく思えてきた――殿方を形容するのに極めて不適切な言葉だけど、仕方がないでしょ、これ以外にぴったり当てはまる言葉を私は知らなかったんだもの。
 そこで右手で彼の背中をさすり、友人の赤ん坊をあやすように肩をぽんぽんとたたいてあげた。するとジョセフが顔を動かして鼻先を私の首筋にうずめてきた。彼の呼吸がむきだしの首筋の肌をなでた。両腕が私の背中に回され、偶然にも彼に抱き締められるような体勢になってしまった。
「あぁ…… リディア、君はいつもいい香りがするね」
 ジョセフからは清潔な石鹸とほんのかすかに汗で湿った皮膚の匂いがした。なにもまとわない生身の男の匂い。
「おかしいわね。今日は香水をつけていないのに……」
 さすがの私も、病人のお見舞いに香水を付けて行くほど礼儀知らずではない。「あぁ、イトスギの精油だわ。ここに来る前に香り付きのろうそくを試作していたから」
「まるで森の中にいるようだ。心穏やかになる香りだね」
 ジョセフは深く溜め息をつくようにささやいた。「ずっとこうしていたいよ」

 例の息苦しさが、微熱を伴って猛烈な速度でせり上がってきた。
 まずい。私まで感冒熱に罹ってしまったのかしら。ジョセフの肌の匂いにうっとりしそうになるのを懸命にこらえながら、私は彼の背中を優しくさすり続けた。
「あなたが倒れたと聞いて、社交界の女たちは驚天動地の大騒ぎよ」
 頬のほてりと胸の苦しみを誤魔化すように、テーブルの上に山積みにされた上品な色合いの封筒をちらりと目をやった。「やっぱり、お見舞い状がとんでもないことになっているみたいね」
「あぁ、毎日毎日ご苦労なことだよ」
 彼は気怠けに身体を起こした。「中には “私があなたの妻なら寝ずの看病をいたしますのに” なんてご大層なことを書き綴ってくれた娘もいたな」
 これにはさすがの私も眉をひそめた。ジョセフはただでさえ感冒熱で苦しんでいた。にもかかわらず、弱った心に付け入るように結婚を迫るなんて、思慮と思いやりに欠けていると非難されても仕方のない振る舞いだ。

「俺はあと何人に何回、同じことを答えればいいんだろうな……」
 枕に身体を預けると彼はぼんやり視線を漂わせた。どこか遠い場所を見つめるように。すでに亡い妻のことを思い返していたのだろう。
「ジョセフ、あなたって顔に似合わず本当に一途な人よね。奥様のこと、今でもそれほど愛しているなんて」
 ジョセフ・ブラッドリーは、亡き妻のことをいまだに忘れられず再婚に踏み出せない。それは社交界における暗黙の了解のひとつだった。男性的魅力にあふれた彼は、つねにありとあらゆる女を惹きつけてやまない。そんな彼からは想像しがたい真面目で一途な部分は私をひどく驚嘆させた。それと同時に、深い感動をもって私に感銘を与えてくれた。
 世の中には彼のように信頼すべき誠実で素晴らしい男だってちゃんといる。
 その事実ほど、女を嬉しく安心させるものはないでしょ?

「一途か」
 ジョセフが口元を歪めた。今は亡き愛妻のことを思い浮かべるには、少々不似合いな皮肉っぽい笑みだった。
「何にせよ、彼女を忘れ難いのは事実だな」
 外の雪景色を映す硬い窓ガラスのように、彼の声はあまりにも冷え冷えとしていた。



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