This Story Index | Novels | Home



第21話 呼び名


 ひとたび気持ちを認めると、自分のすべてに納得がいった。

 私はずっとジョセフに恋をしていた。
 いつからかなんてわからない。でも彼は再会したあの頃から特別な人だった。
 あの頃、私は愛を信じていなかった。決して冷ややかに馬鹿にしていたわけじゃない。私はもう誰かを心から愛することなどできないだろう。粗探しにかまけてばかりの狭量な私は、もうそのやり方がわからない。再びその方法を見つけようと勇気を奮う気にもなれない。そう思っていた。
 私の恋をする心は、冷たい独房に閉じこもっていた。臆病な私は安全な部屋の中で小さな窓から外の景色を眺めたり、ときおり声をかけてくる殿方たちに部屋の奥から返事を投げたりするだけで、そこから出て行こうとしなかった。そんなことをしたら再びぼろぼろに傷ついてしまう。私はずっと怯えていた。
 でも、いつの間にか私は独房の外にいた。いいえ、違う。私が閉じこもっていた冷たい独房が消えてなくなっていた。
 ジョセフがとかした。硬い石で積み上げられた私の独房を、穏やかに、優しく、惜しみなく、時間をかけて丁寧にとかしてくれた。私の心が冷たい水浸しにならないよう、ゆっくりと。まるで踏み固められた雪をとかす春の太陽のように。

 喜劇だ。まったく笑えない喜劇。
 私が恋をした男は率直で、快活で、誠実で、友情に厚く、男らしく、頼もしく、そして女を信じていなかった。
 ジョセフはもはや結婚に希望を見出そうとしていなかった。女に対する期待や信頼を失っていた。それらはすべて彼の苦痛にしかならなかった。
 こうしてジョセフとの結婚という夢は、芽生えると同時に摘み取られた。

 私は悲嘆に暮れるはずだった。ところがしばらくの間、私はことのほか元気なままだった。強がりでも虚勢でも何でもなく、本当に。

 ジョセフの亡き妻は彼の愛情をいまだ独り占めしているのではなかった。彼はいまだに彼女を愛しているのではなかった。むしろ彼女を忘れたいともがき苦しんでいた。もう二度とあんな惨めに遭ってたまるか、と、彼の紺碧の瞳には深い警戒心と強い意志がともっていた。
 彼の心を支配する女がいないと知ったとき私は安堵した。浅ましい女だ。
 彼はいまだに癒えない心の傷に苦しんでいるというのに、私はその姿を見て嬉しいと感じた。認めたくないけど、私は嬉しくて仕方がなかった。

 そりゃあ泣きたい気持ちにもなったわ。
 私がどんなに自信と勇気に溢れ、自分の気持ちに機敏で、愛する男に対して正直で果敢な女だったとしても、どのみちジョセフとは結婚できなかったということが明らかになったんだもの。
 それでもジョセフのそばにいられるなら、いち友人としてでも嬉しかった。もちろん満足していたわけじゃない。それでも、彼が私に心を許し甘えた笑顔を見せてくれると、また彼をぎゅっと抱き締め、今度は顔中にキスを浴びせたくて矢も楯もたまらなくなった。

 でも、それは決して許されないことだった。
 私が彼に恋をしていない、彼との結婚を望んでいない、私に結婚に対する願望や野心がない――と彼は信じて疑っていなかった――からこそ、彼はこうして私を友人としてそばに置き、信頼し、一緒に楽しみくつろいでくれていたんだもの。
 せっかく手に入れたジョセフとの信頼。それを平然とぶち壊し、そのまま彼に飛び込んで行けるほど、私は勇気と自尊心に満ちあふれた女ではなかった。

 なぜなら、私はリディア・ローズデール。海運貿易商の娘。出戻り女。女商人。
 『南十字航路物語』のステラじゃない。
 だからこういうとき、どうやって正しい航路を導き出せばいいのか分からなかった。まるで海図も羅針盤もなく、あてどなく星のない夜空を独り見上げる女海賊のように、私はただ途方に暮れるしかなかった。

「フェアバンクス家は本気でミスター・ブラッドリーに娘を嫁がせようとしているのね」
 この頃、社交界はほとんど毎晩この話題でもちきりだった。この日の舞踏会でも参加者のほとんどがこの噂でおしゃべりに花を咲かせていた。
「まぁ! これにはさすがの独身主義者も抵抗できそうにないわね」
「ブラッドリー家の方が断然上り調子だけど、フェアバンクス家は歴史も家格もケタがひとつ違うもの」
「あそこの未婚の娘ということは…… あぁ、末っ子のシャーリーね」
「リディア、あなた、彼から何も聞いていないの?」
 メアリー、ジェシカ、ケイトの六つの目が、一斉に私を捕縛した。
「えぇ、とくに何も。彼、確定してないことは不用意に口にしないから」
 私の回答が期待はずれに終わったので、彼女たちの顔にはあからさまに退屈と失望が浮かんだ。

 フェアバンクス家は、自由貿易同盟の中でヴァンダーグラフ家に比肩する大貿易商だ。開放的なヴァンダーグラフ家とは対照的に伝統を重んじる家風で、同盟都市群の外や首都の貴族たちとの人脈は強く太い。
 蛇足ながら付け加えると、両家の関係は乳飲み子の目にも明らかなほど険悪だ。一世紀に渡って続く敵対関係はすでに冷戦状態とはいえ、三代前の当主同士の因縁だけでよくもまぁここまでにらみ合いを続けられるものだ。彼らの祖先にたいする忠誠心には感服せざるを得ない。
 で、そのフェアバンクス家の現当主は国内最大の造船会社の所有者、奥方は侯爵家出身で社交界を牛耳る女帝のひとり。家風は正反対だし仲も悪いけれど、ヴァンダーグラフ家同様に二男六女と子だくさん。長男も次男も至極真っ当かつ優秀と評判だし、娘たちはいずれも名家に嫁ぎ華麗な閨閥を形成していた。
 このときジョセフと婚約するのではと噂されていたのは、当時フェアバンクス家唯一の未婚の子供で、末娘のシャーリーことシャーロットだった。
 まるですでにジョセフとシャーリーの婚約が成立したかのように、社交界の未婚の娘たちは彼に必要最小限にしか近づかなくなった。彼の隣には常に両親や兄姉に付き添われたシャーリーが立つようになった。
 ジョセフと結婚できなくなることより、フェアバンクス家の不興を買って社交界で居場所を失うことのほうが、ここで生きる女たちにとっては重大かつ深刻な事態だ。結婚できる男はジョセフ・ブラッドリーのほかに何人もいる。でも、社交界はここひとつしかない。彼女たちの多くは、社交界でおしゃべりをしたり踊ったりすること以外の暮らし方などほとんど知らない。ここで居場所を失うことは、まさしく死活問題だ。

「シャーリーはまだ十八歳でしょう? 社交界にデビューしたばかりじゃないの」
「ミスター・ブラッドリーと十四歳も歳が離れているわ」
「でもあの子、ほかの姉妹たちや従姉のジリアンと違って感じがいいわよね。驕ったところがなくて品がよくて」
「そうね。あの水辺の妖精のような風情はとても愛らしいわ」
「それだけよ。お上品なだけのお人形さん。もし私が男であんな大人しいだけの小娘を妻にしたら、結婚式の翌日には愛人をこしらえるわ」
 女友達が好き勝手にシャーリーを品評している中、レモン果汁と蜂蜜入りのワインをちびちびすすりながら私は彼女を盗み見た。このとき、ちょうど彼女は父親の横でジョセフとなごやかに歓談している真っ最中だった。

 高慢チキ女ジリアンの従妹とは思えないほど、シャーリーは万事に控えめで春の微風のようにほがらかな風情をまとっている。姉たちはいずれも大輪のバラのような豪奢な美女だけど、彼女は野に咲くスミレのように華奢で可憐な女の子だ。
 鏝で丁寧に巻かれたのだろう、ふんわりした房飾りのような亜麻色の髪が彼女の小さな輪郭を縁取り、肩の上で品よく揺れていた。頭の後ろは三つ編みを巻いてきれいに結いあげられ、十代だからこそ似合う愛らしい髪型だった。仕上げに挿された一重のバラが、彼女の楚々とした美しさにぴったりだった。
 伏し目がちで初々しく、誰彼構わず真正面から相手を見据えて話す私とは正反対の清楚な雰囲気だった。彼女と歓談するジョセフの表情は春の青空のようにとても優しく穏やかだった。
 一方、私の心の中は重く垂れこめた鉛色の雲で覆い尽くされていた。不安と嫉妬の雲は分厚く、今にも大粒の豪雨を降らせそうなほどどんよりと曇っていった。
 自分より家柄も血筋も評判も良いうえに若く愛らしい娘が愛する男とにこやかに歓談していて、楽しい気分でいられる女なんてそうそういるもんじゃないわよ。

「ミス・ローズデール、ごきげんいかがですか?」
 と、そのとき、私を呼ぶ若々しい声が届いた。
 振り返ると、ひとりの青年が立っていた。天使の輪のようなブロンズ色の輝きをいただく色味の濃い金髪。まだかすかに少年の名残を留めるすらりとした体躯。最新流行の洗練された海兵風の夜会服。にこやかに私を見つめる美しい榛色の瞳。ワインと香水と葉巻の煙のにおいが充満する大広間にあって、彼の若さと快活さは爽やかな清涼剤のようだ。
「ミスター・ヴァンダーグラフ、ごきげんよう」
 元夫アンドリューの弟アーネスト・ヴァンダーグラフは、よく躾けられたゴールデン・レトリバーのような笑顔を浮かべて私に微笑んだ。私が十八歳で元夫と離婚したとき、まだ十三歳の愛らしい少年だった彼は、このときすでに十九歳のそれはそれはハンサムな青年に成長していた。
「ここへお掛けなさい」
 私が長椅子の隣をぽんぽんとたたくと、彼は礼儀正しいけれど他人行儀な印象を与えない程よい間をあけて腰を下ろした。快活で清潔そうな笑顔が私に向けられていた。尻尾を振る犬のような愛らしさに、ついつい頭をなでたくなってしまう。
 男きょうだいなら、あんな兄だけじゃなくこういう弟もほしかったわ。
「ミス・ローズデール、お久しぶりですね」
 人懐っこい笑顔。彼の魅力は誰からも愛される素直さと利発さだ。
「本当に久しぶり。待降節の舞踏会以来だから、三ヶ月ぶりね」
「はい、ですがもっとずっと長い間、あなたとお会いしていなかったように感じます」
 さすがはアンドリューの弟だ。女に期待を抱かせる言葉をさらりと言い放つ。
「ネスティ、あなた、大学でずいぶん寂しい思いをしていたみたいね」
 これみよがしに彼を愛称で呼ぶと、私はぐいっと彼の方に身体を傾けた。「可哀相に。北東部海岸の冷たい海風にもみくしゃにされて、まんまるであんなに愛らしかったあなたの頬はすっかり彫像のように引き締まってしまったわ。かわいかったあの坊やはもういないのね、アーニー」
 “ネスティ” しかり “アーニー” しかり、舞踏会という衆目の場にふさわしい呼び名ではないわよね。まるで屋敷の裏庭で母親か姉が幼い弟を呼ぶみたい。そんな私のささやかな揶揄を耳敏く聞き取ったメアリーたち女友達は、愉快そうにたわんだ口元を扇子で隠しもせず冷やかすように彼を見つめた。右からも左からも年上の世馴れた女たちに取り囲まれ、彼はほのかに頬を上気させた。
「あなたはそうやって僕をからかってばかりだ。僕はもう十三歳の子供ではありません。十九歳を迎えた立派な成人男子ですよ」
「知っているわ。あの仔犬のようにかわいらしかった坊やが、濃紺の夜会服を着こなすまでに成長したんだもの。あなたはすっかり頼もしい殿方ね」
 するとネスティは年齢を問わず褒められた男が浮かべる笑みを顔中に光らせた。
「成長したのは身体だけではありませんよ、ミス・ローズデール」
 名家の子息らしい無邪気で尊大な催促に、私や女友達は微笑みをかみころした。
「それも知っているわ。あなた、大学でも大変優秀なんですって? 秋学期、法律と哲学の両方で最優等をいただいたそうじゃないの。卒業するまであと三年もあるのに、最初からそんなに勢いづいていたら息切れしてしまうわよ」
「ヴァンダーグラフの名を背負う者は、いついかなるときも修練を積み重ね、最上を目指すのです。僕は当然のことをしているまでです」
 澄まして粋がった物言いさえ、彼の素直さと真面目さにかかれば健やかな愛らしさに形を変える。南洋の植民地にあるヴァンダーグラフ家所有の農場主に収まっているらしい兄アンドリューに代わり、家業を背負って立とうと気概に燃えるアーネストの若々しい表情は目がくらみそうなほどまぶしかった。
 私も女友達も、自然と目を細め口元をほころばせた。

 ジョセフにも、あんな時期があったのかしら。
 バルコニーでほてった頬を春の夜風で冷ましながら思った。すると擦られたマッチのように再び顔中に熱がともり、私は慌てて扇子を広げて力一杯風を送った。
 すると心地よい風と一緒に、考えまいとしていた不安が私の頭の中に吹き込んできた。花の茎がしなびてゆっくり倒れるように、バルコニーの大理石の柵に肘をつくと、私は遠くの灯台と眼下に広がる市街地の灯りをぼんやり眺めた。

 ジョセフはこのままシャーリーと婚約するのかしら。
 いくら名うての船乗りである彼も、フェアバンクス家の当主夫妻が相手では、婚約の荒波に呑み込まれてしまうかもしれない。

 胸に矢を受けたような鋭い痛みが私を襲った。
 嫌よ。絶対に嫌。彼が誰かほかの女性と結婚するなんて、そんなこと耐えられない。どうしたらいいの? 私は彼がシャーリーと結婚するのを指をくわえて眺めていなきゃいけないの? このまま女友達として甘んじるしかないの?
 人目がないのをいいことに、心に沈殿した毒素を吐き出すように大きく溜め息をついた、ちょうどそのときだった。

「リディ、どうした? 気分が悪いのか?」
 背後から声をかけられた。“リディ” ――これは私の幼い頃の呼び名だ。今でもときおり、家族や親しい幼馴染みの何人かは私のことをこう呼んだりする。
 振り返ると、そこにはローランド・ホフマンがいた。



This Story Index | Novels | Home


Copyright © 雨音 All Rights Reserved.

inserted by FC2 system