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第22話 白鳥の騎士


 ただし、彼は私の家族ではなかった。
 もちろん、親しい幼馴染みでもなかった。
 かつてはそうだったけれど。

「ミスター・ホフマン、ごきげんよう」
 しなびていた茎を針金で無理矢理まっすぐ固定するように背筋を伸ばし、私はぶっきらぼうに返事をした。恋に悩んで溜め息をつく姿を古くからよく知る男に目撃され、私は内心ひどくうろたえていた。
 かわいげのない私の態度にも、ローリーは石の彫像のように眉一つ動かさなかった。短く整えられた金茶色の髪と手の込んだ濃い灰色の夜会服。大広間のシャンデリアの明りを背負った彼は、とても洗練され落ち着き払って見えた。社交界の若い娘たちを緊張させ、同時に胸を高鳴らせる硬質で端整な面立ちには、私に対する冷ややかな不快感や挑発的な冷笑は見当たらなかった。それが私を大いに戸惑わせた。
 ローリーは大広間からバルコニーに一歩踏み出した。てっきりすぐさまきびすを返して別の場所に向かうと思っていたので、平然と私に近づいてきた彼に私はさらにたじろいだ。
「ひとりか?」
「えぇ。あなたも?」
「あぁ」
 私の真横と言って差し支えない位置に彼が立った。
 ローリーと私は横に並んで眼下の景色を眺めた。彼が小さく咳払いをすると、私の扇子を持つ手がかすかにこわばった。私が彼の表情をうかがおうと目線だけ彼に向けると、彼がわずかにこちらに傾けていた顔を慌てて前方に戻した。私たちは互いに会話の糸口を探していた。そのことを気配で察していたけれど、私たちはすでに何の準備もなく気安くおしゃべりを始められる関係ではなくなっていた。

 離婚の直後、ローリーは手のひらを返して私を見放した男友達のひとりだ。
 彼をまったく恨まずにいられるほど、私は善良でも寛容でもなかった。
 しかし、彼と過ごした時間は楽しい思い出のほうが多いのも、また事実だった。

 まだくるぶしが見える丈のドレスを着ていた五、六歳の頃、私はときおり母に連れられてホフマン家を訪問することがあった。母親同士がお茶とおしゃべりを楽しんでいる間、私はもっとも歳が近いローリーと一緒にまとめて子供部屋に追いやられることがほとんどだった。
「リディ、今日は『白鳥の騎士と低地の公女』を読もう」
 今はもう面影すらないけど、この頃のローリーははにかみ屋の男の子だった。子鹿のようにほっそりした腕で大きな革張りの本を抱え、待ちかまえたように私を迎えてくれた。
「まぁ! ローリー、ありがとう! ずっと読みたいと思っていたのよ。お父様の本棚は大きすぎて、どこにあるのか見つけられなかったの」
 幼い頃から読書が好きだったローリーは、よく彼の父親が所蔵する貴重な書籍を私に読ませてくれた。
「父上から特別にお借りしたんだ。君が読みたがっていると思ってね」
「ローリーは私のことなら何でもわかるのね。すごいわ。そうだ! おじさまにお礼を言わなきゃ」
「だめだ。父上には僕から礼を言っておく」
「この前もそう言っていたじゃないの。ローリー、私はおじさまにちゃんと自分でお礼を言いたいの。おじさまに不作法な娘だと思われたくないわ」
「いいんだ。父上は君が素晴らしい淑女だとちゃんとご存じだ。だから、父上への礼は僕が伝えておく。いいね? ほら、早く読まないと君の母上が君を迎えに来てしまうよ」
 私たちは長椅子の上で膝と膝をくっつけ、その上に本を置いて一心不乱に文字を追った。手と手がぶつかると、私は得意げに彼と手のひらを重ね合わせ大きさを比べたり、手のひらに走る線の位置や長短の違いを比べたりした。
「ローリーの手は小さいわね。ほら、私のほうが大きいわ」
「すぐに僕のほうが大きくなるよ。背だってじきに君を追い越すからね」
 むきになると、彼は真っ白な頬を赤らめ、鼻をくしゃっと皺寄せた。
「大きくなったら、ローリーは白鳥の騎士、私は低地の公女になれたらいいわね」
 私は夢想に胸を高鳴らせて言った。
「よくない」
 ローリーは取りつく島のない調子で異議を唱えた。「そうなったら僕は遠くへ行かなきゃいけないし、君は死んでしまう。僕らは離れ離れになる。そんなのは絶対にだめだ、リディ」
「大丈夫よ、ローリー。ここは大昔の対岸の大陸じゃないわ。それに私たちは王族や貴族じゃなく商人だもの。離れ離れになったりしないわ」
 深刻そうにしわ寄せていた眉をぱっと開き、彼の顔に安堵の笑みが光った。
「それなら僕は君の白鳥の騎士になってあげよう」
 厳かな誓いの儀式でもあるかのように、ローリーは両手で私の手を包みこんだ。「だから君は僕の低地の公女になるんだ。僕たちはずっと一緒だ。約束だよ、リディ」
「えぇ、約束するわ、ローリー」

 彼はあっという間に私の背を追い抜いた。
 彼の手のひらは私の手を簡単に包み込めるほど大きくなった。
 彼は騎士と呼ぶにふさわしい素晴らしいフェンシング選手になった。
 私の白鳥の騎士。ローリーは私の大切な、自慢の幼馴染みだった。

「何を笑っているんだ」
 真横から少しジョセフに似た低い声が降ってきた。
「昔のことを思い出していたの」
 子供時代は流れ星のように一瞬で終わる。
 いつの間にか、私たちは子供部屋に一緒に押し込まれることも、二人きりで一冊の本を読むこともなくなった。十三歳を迎えた彼は全寮制の寄宿学校に入学し、十二歳になった私は母親同士のお茶会に同席させられるようになった。
「私たち、小さな頃よく一緒にあなたのお父様の本を読んでいたわよね」
 楽しい懐古はひとを油断させる。
 身体ごと向きを変え、私は無防備にローリーを見上げていた。
「あぁ、そうだったな」
 首をかしげてこちらを見下ろすブルーグレイの瞳が穏やかに私を受け止めた。ほんのわずかに、ローリーの口元がほころんだように見えた。
「あなた、私がおじさまにお礼を言うのをかたくなに止めていたでしょう? ねぇ、本当は借りていたんじゃなくて、内緒で持ち出していたんでしょう?」
 ホフマン家の当主であるローリーの父親は、息子に輪をかけて厳格で折り目正しい人だ。我が子が自分の書斎からこっそり本を抜き取っても「大変だ! また怪盗淑女リディアが現れたぞ!」と私の父のように笑い飛ばしてくれるとは想像しがたい。
 うなずく代わりに、ローリーは左の頬にだけ小さなえくぼを浮かべた。秘密や隠し事を見破られたとき、彼が照れ隠しに見せる笑顔だった。

 まるで私が結婚する前に戻ったようだった。
 私たちは気心の知れたただの幼馴染みでしかなく、親や大人たちの目を盗んで彼らの噂話で忍び笑いを漏らし、舞踏会の大広間の隅で粋がって辛口のワインをちびちびすすっていたあの頃に。

「君は変わらないな」
 きっとローリーもあの頃を思い出していたのだろう。懐かしむように、眩しそうに目を細めて私を見つめた。従兄弟だからか、その様子はどこかジョセフに似ていた。私の頬は火打石のようにカッカと熱くなった。
「もちろんよ。私は生まれてからずっとリディア・ローズデールだもの。ほんの一時期だけ苗字が変わったこともあったけどね」
 この頃になると、私は例の離婚劇も自虐的なジョークとして自ら笑いの種にできるようになっていた。これがことのほか場をなごませるのよ。ところが私の思惑に反してローリーは額に深いしわを寄せた。そこには彫刻刀で刻み込んだような深い苦悩が見て取れた。

「君は僕を恨んでいないのか?」
 淡いブルーグレイの瞳が探るように私を凝視した。
「そうね。まったく恨んでいないと言えば嘘になるわね」
 硬い表情のままのローリーに私は続けて言った。「でも、ほら、私って昔から長時間ずっと同じことを考え込んでいられない性分でしょう? だからあなたを恨み続けるのにも飽きちゃったのよね」
 この派手な赤毛同様、いかにも軽薄そうな言い回しだったけれど、ローリーの不安をほぐすのには成功したようだ。彼はほんのかすかに目元をほころばせた。
 しかし、彼はすぐさま笑みを引っ込め、口元をぎゅっと引き締めた。
「リディ、ずっと君に謝りたかった」
 それから再び硬質な顔立ちに後悔を刻んで私を見つめた。「すまなかった。根も葉もない噂に惑わされて、ただでさえ苦しんでいた君をさらに傷つけてしまった。本来なら僕は君を励まし元気づけてやらなければならなかったのに……」
「もう気にしないでちょうだい」
 彼の生真面目さに苦笑しながら、私は努めて陽気な口調で言った。「あなただけが悪いんじゃないわ。私も意地になって反論も弁解もしなかったから、仕方なかったのよ」
「そういう問題ではない」
 大法官のような厳然たる調子でローリーは続けた。「君に落ち度はなかった。そうだろう? 僕は君と親しくもない人たちの身勝手な噂話など信じるべきではなかった。友人として、きちんと君の話を聞くべきだったんだ。なのに、そのことに気付いた頃にはもう君を散々傷つけてしまった後で…… 僕は君に合わせる顔がなかった」
 苦悩と後悔で歪んだローリーの表情を目の当たりにすると、私はたちまち彼を励まし元気づけてあげたくて仕方なくなった。
「まるで私を奴隷船に売り飛ばしたような口ぶりね。ほら、私たちはこうして顔を合わせておしゃべりできているじゃないの。だからそんなに深刻に考えないでちょうだい。あなたってつくづく生真面目ね、ローリー」
 ついつい、私は調子っぱずれなほど陽気な声を上げてしまった。
 すると、ローリーは端整な顔をくしゃくしゃに崩し、困り果てたように凛々しい眉を下げた。私はとっさに、彼が今にも泣き出すのではないかと危ぶんだ。
「まだ僕をそう呼んでくれるんだな」
「そりゃあそうよ。あなたはローリーでしょう。ほかにどう呼べというの?」
 せっかく仲直りができかけていたというのに、私はついつい年甲斐もなく生意気な口を叩いてしまった。しまったと悔みながらローリーの表情をうかがった。ところが、彼は安堵さえ漂わせて私を見ていた。
「君に “ミスター・ホフマン” と呼ばれると、自分のことなのにまるで見ず知らずの他人のことのように感じたよ。だから、君に “ローリー” と呼ばれるとほっとする」
 子供の頃から仲間内にさえ感情表現が乏しいと評されていたローリーだけれど、私は密かに彼ほど素直な男はいないと思っている。なぜなら、このブルーグレイの瞳ほど正直で雄弁なものはないからだ。
 その証拠に、ほら、まるで晴れた夜空に星が輝くみたいに、ものすごく嬉しそうにきらめいているでしょ?
「あのときの君の表情を見て、僕は自分が間違っていると気が付いたんだ」
「あのとき?」
「いつだったか、舞踏会で僕が君に酷い言葉を投げつけたことがあっただろう? 君のことを、自由気ままに生きている、などと」
「あぁ、そんなこともあったわね」
 私のいい加減な反応に、ローリーは呆れとも苦笑いともつかない複雑な表情を浮かべた。硬質な顔立ちの男前にはひどく不似合いなものだった。
「あのときも君は僕のことを “ローリー” と呼んでくれた。そこで僕はようやく思い出したんだ。君は聡明で心優しい人だ。結婚前に情夫をこしらえたり、男を渡り歩くような、ふしだらで不実な人では決してない。必ず君と和解しなければ、とね」
 社交界の娘たちから畏敬と憧憬を集める冷淡そうな顔立ちに、温かい友情の明りがともっていた。しばらく目にしていなかったけれど、ずっと昔から知っている懐かしいぬくもり。嬉しさのあまり目頭に熱がせり上がってきた。
「あら、気づくのが遅すぎるわよ。頭脳明晰なローランド・ホフマンにしてはずいぶんとのろまね」
  結婚する前、まだ十八歳の小娘だった頃を思い出して私は彼を挑発した。
「口を慎むんだリディ。その様子だと、僕はあらためて君の名前を呼ぶ許可を求める必要はなさそうだな」
 彼もあの頃と同じように顔をしかめて私の挑発を諌めた。でもやっぱりすぐに目元に微笑をにじませてしまった。口元が真一文字だからすごくわかりづらいんだけどね。
「そうね。だってローリー、あなた、すでに私をそう呼んでいるじゃないの。本当に自分勝手な人ね」
 私の意地の悪い返事に、ローリーは白いタイルのような歯を見せて笑った。
 それから私たちはワルツを立てつづけに二曲踊り、ワインとリンゴ酒を代わる代わる飲み続け、そして私が母に促されて舞踏会を後にするまで、これまで仲違いしていた時間を埋め合わせるようにずっとおしゃべりをしていた。

 古くからの友人との和解は、私の恋の苦悩をおおいにやわらげてくれた。
 それでも、おとぎ話の王子様とお姫様のようなジョセフとシャーリー・フェアバンクスの二人のことを考えずにはいられなかった。

 でも今思えば、凪に足止めを食らった貿易船の帆で羽を休める海鳥のように、このときの私はまだ呑気で安穏だった。
 だってそうでしょ?
 こうして日陰で揺れる赤いポピーのように、好きなだけ自分の不遇に酔っていられた。恋に夢中で、他のことなど何も見えていない浅はかな小娘らしく、ただただ自分ひとりのことだけ考えていられた。

 これってとんでもなく幸せなことよね。
 少なくとも、自由貿易同盟の社交界で真っ当に生まれ育った娘なら、そんな悠長なことはしていられないもの。
 十八歳の私がそうだったように。



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