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第25話 錨


 あぁ、なんてことなの。
 弟のようにかわいがっている生真面目なネスティが、あの教養のかけらもない傲慢女のせいでこんなにも落ち込んでいる。今すぐワルツの輪からネスティを連れ出し、私は蜂蜜をたっぷり入れた熱々のアップルサイダーで彼の沈んだ気持ちをなだめ励ましてあげたくなった。
 世間でどんな誹りを受けようと、ネスティにとってアンドリューはたったひとりの大切な兄だ。その大事な家族をあんなふうに侮辱されれば、この感情豊かな青年が傷つかないはずがない。

「リディア、あなたと踊ることができただけでも今夜の舞踏会は参加する意義がありました。ありがとうございます」
 玄関ホールへ続く大階段の手前でネスティが私に言った。
 二十歳にもならない名家の若者が舞踏会を辞去するには、まだまだ訝しがられるほど早い時間だった。けれど、私はネスティを引きとめなかった。
「ネスティ、今夜は早めに休むといいわ。そうだ! 浴槽にお湯を張って、ラベンダーかローズマリーの精油を数滴落とすの。ゆっくりつかるとたちまち疲れが取れるわ。ときどき常温の水を飲みながら、身体の芯までゆっくり温まるのよ。殿方としてはこんなお上品な方法は気が咎めるかもしれないけれど、ぜひ試してみてちょうだい」
「あなたの仰せとあらば、従わないわけにはいきませんね」
 ネスティはようやく彼らしい爽やかな笑みを浮かべてくれた。「屋敷に戻ったら、家の者に用意するよう頼んでみます。あなたの顧客とはいえ、母や姉たちから借りるのは紳士としてはばかれらますからね」
 明日の朝には、痛めつけられたネスティの心が元気を取り戻していますように。
 彼を見送ってから大広間へ戻っていたとき、あまりにも真剣にそのことを考えていたため、廊下の反対側からこちらに歩いてくる人物に気づくのがだいぶ遅れてしまった。

「あら、ミス・フェアバンクス」
「またお会いしましたね、ミス・ローズデール」
 人気のない廊下で、シャーリー・フェアバンクスがひとりたたずんでいた。
 アプリコット色の優美なドレスをまとった彼女は、まるで花畑の精霊のように可憐で美しかった。でも、私を見つめる淡い水色の瞳は、すべてを見透かす異国のガラス玉のように冷たく澄みきっていた。
「あなた、ひとりなの?」
 私はみっともなくシャーリーの背後をくまなく見回してしまった。だって仕方ないでしょ。廊下のアルコーブの陰から、フェアバンクス家の雌鮫たちが私の出方をうかがっているのではないかと不安が先走ったのよ。
「はい」
「あなたのような人がひとりで出歩いたらいけないわ。家の方々が心配するわよ」
 親からも兄からも結婚を諦められた、出戻り女の私とは違うんだから。
「姉たちには、外の空気を吸いに行くと許しは得ています」
「あのお姉様二人がよく許してくださったわね」
 場の雰囲気を少しでも明るくしようとおどけた調子でにっこりしてみたものの、シャーリーは陶器の人形のような硬い表情をひとかけらも崩すことはなかった。澄んだ水色の瞳が、微塵の恥じらいも見せず私を真っ直ぐ見つめていた。

 それにしてもおかしな状況だった。私は困惑した。
 シャーリーが外の空気を吸いに行くなら、大広間からちょっとバルコニーに出るだけで済むはず。にもかかわらず、なぜ廊下にいるのかしら?

「ミス・ローズデール」
 遠くから聞こえるワルツの音色にまじって、小鳥のようなかすかなささやきが私の耳に届いた。「あなたとお話ししたいことがあるのです」
「私と?」
「はい。二人きりでお話をさせていただきたいのです」
 面食らうあまり、私は不躾なほどしげしげとシャーリー・フェアバンクスを凝視してしまったように思う。
 丁寧に結い上げられた亜麻色の髪。陶器のような白い肌。サクランボのような唇。たっぷりとした睫毛に縁取られたきれいな瞳。自由貿易同盟の社交界で未婚の娘を持つ親たちが、こぞって “理想の娘” と褒めそやす美しい少女。
 そして、私を一心不乱に見上げる、どこか思い詰め切迫したような眼差し。
 これが、郊外の森で男と密会している “手練れた娘” ?

「さて、ミス・フェアバンクス、お話って何かしら?」
 内心の巨大な困惑とかすかな緊張が漏れないよう注意しながら、私は慎重にシャーリーに切り出した。ところが、向かい合って長椅子に腰を下ろしたシャーリーは、膝の上で小さな両手を固く握り締めうつむいたままだった。
 彼女は私に話があると言ったきり、私をどこか適当な空き部屋に案内するでもなく、大理石の天使像のように微動だにしなくなった。やむをえず、私は彼女を連れてすぐそばの客間に滑り込んだ。
 ここが幼馴染みのケイト・ザルツバーガーの屋敷でよかった。何度も遊びに来たことのある勝手知ったる屋敷でなければ、いくら図太い私とて、短時間でも勝手に客間を拝借するような真似などできなかったもの。
 再び溜め息をぐっとこらえ、私はできるだけ優しくシャーリーに声をかけた。
「ミス・フェアバンクス、あなたは私に話があるのよね? あなたは先ほどから何もおっしゃらないけれど、ねぇ、気分が優れないの? 大丈夫?」
「気分は悪くありません。大丈夫です」
「そう、よかったわ。ただ、私もあなたの話を聞きたいけれど、そろそろ大広間に戻らないとまずいわ。あなただって――」
「あなたはいつまでそうしているおつもりなのですか?」
 矢のように鋭く、シャーリーが私を遮った。私はとっさに言葉を失った。
「あなたはいつもそうです。妻子ある方や婚約者のいる方とも平然と二人きりでおしゃべりをして、ミスター・ブラッドリーやミスター・ホフマンたち若手商人たちを取っかえ引っかえして遊び回って…… 淑女としてあるまじき振る舞いです!」
 それまでの沈黙を取り戻すように、シャーリーは決然と私を非難し始めた。
 まるで『南十字航路物語』に登場する、正義感あふれる海軍提督の娘レディ・アグネスのように。

 シャーリーは間違っていない。
 私が社交界で親しくしている殿方のほとんどは、すでに孫が数人いる父の旧友や、兄の友人の商人ばかりだ。彼らは年齢的にほとんど結婚しているか、そうでなければ婚約者がいる。私は兄の紹介や商売を通じて、彼らの妻や婚約者とも懇意にしていた。
 妻も婚約者もいない若い男友達も、わずかだけど確かにいる。ジョセフはもちろん、つい先日和解したローランド・ホフマンもそのひとりよ。でも彼らとは――ジョセフのお見舞いを除いて――商談や社交界の行事以外で個人的に会ったことはない。一切誘われたことがないとは言わないけど、いくら野放図な私とて、それを丁重にお断りするくらいの良識と節度はわきまえている。

 だから、シャーリーにいちいち文句を言われる筋合いはない。
 曇りひとつないガラス製の温室で大事に大事に育てられたピンク色のバラから、「そんなに上ばかり向いて、あなた不作法よ!」と責められた野生の赤いポピーにでもなった心地がした。それまで懸命に蓋をして抑えてきた嫉妬と怒りが湧きあがってきた。
 フェアバンクス家の伝統と格式と財力という比類なく分厚い城壁で守られ、この国の海軍のように強大な一族の力でジョセフの妻の座を手に入れられるシャーリー。
 彼女にだけは、私のことを好き勝手に言われたくなかった。
 それだけは受け入れられなかった。許せなかった。

「私の振る舞いがずいぶんとあなたを不愉快にさせてしまったようね、ミス・フェアバンクス。その点についてはとても残念に思うわ」
 気色悪いお上品ぶった声で私は続けた。「高潔なあなたは、この社交界の正しい淑女のみなさまを代表して、奔放が過ぎる私にわざわざ忠告をしてくださったのかしら? さすがフェアバンクス家のご令嬢は気高くいらっしゃること。でもね、婚約も結婚もしたことのないあなたの言葉は小鳥の羽根のように軽くて、つつけば一瞬で消えてなくなるシャボン玉のように説得力に欠けるわね」
「そんなことはありません!」
 シャーリーの顔が怒りと屈辱で赤らんだ。「私はあなたとは違います! 私はあなたのようにふしだらな評判にまみれてなんかいません! 結婚して一週間で夫に捨てられたりしないし、婚家を追い出されもしないわ!」
「そりゃあそうでしょう」
 彼女は私の挑発にいとも容易く引っ掛かった。私の口元が、おとぎ話の化け猫のように歪んだのが分かった。
「そんなことをしたら、あなたの嫁ぎ先はこの自由貿易同盟から爪弾きにされる。商売相手や顧客たちから相手にされなくなる。フェアバンクス王家の末のお姫様、可憐なスミレのように美しいあなたならどこの誰へ嫁ごうと幸せに暮らせるわ。だって、あなたはフェアバンクス家の娘だもの。婚家にとって大事なのは、あなたの名前と血筋と持参金よ。あなた自身(・ ・ ・ ・ ・)じゃないの。だからあなたは今のままでいい。親に命令されるがまま、扇子片手に微笑んでいるだけでいい。中身はからっぽの空洞で、簡単に砕けてしまう美しい陶器の人形のようにね。そうすれば、あなたはフェアバンクス家にとって最も都合のいい最高の殿方に嫁ぎ、戸棚の奥にしまわれた人形よろしく、その夫君や一族中から大事に大事にかわいがってもらえるわよ」
 シャーリーは私のあからさまな嘲笑に愕然と目を見開き、そして唇を噛んでうつむいた。彼女は傷つき、一言も反論できないほどうなだれていた。きっと、こんなふうに面と向かって罵声を浴びせられたことなど、生まれてから一度もなかっただろう。
 それも当然よね。フェアバンクス家当主が溺愛する美しい末娘を愚弄するなんて、社交界での立場と評判を投げ捨てる愚行でしかない。

 その愚かで無様な振る舞いをしている自覚は、十分あった。
 それでもシャーリーと自分を比べずにはいられなかった。
 彼女と同じ十八歳だった頃、私は夫に駆け落ちされ、離婚して婚家から実家に出戻っていた。夫に逃げられた女への冷笑、謂われのない不貞と放蕩の疑惑、冷やかな嘲りと軽蔑しか与えられない社交界から裏庭のハーブ園に逃げ込んでいた。
 惨めだった。虚しかった。
 誰からも愛される美しいシャーリーを論破したところで、私の心に積もるのは勝利や優越感ではなかった。雪よりも冷たい自己嫌悪が心を覆い尽くすように降り積もり、鉛色の分厚い雪雲のような哀しみがどこまでもずっと重く垂れ込めていくばかりだった。

 シャーリーを “大事に大事にかわいがる夫君” は、ジョセフかもしれない。
 あの紺碧の瞳が優しく微笑み、あの日に焼けた大きな手が彼女を抱き寄せ、あの完璧な唇が愛の言葉を囁き、彼女に情熱的な口づけを与えるのかもしれない。
 男好きする派手な顔と我の強さが取り柄の私ではなく、生まれたときからすべてを持ち合せている愛らしいこの娘に。

「ミス・フェアバンクス、そろそろ大広間に戻られたらいかが?」
 深い溜め息とともに、私はシャリーに言った。
 巣から落ちた小鳥が野良猫の鳴き声を聞いたときのように、彼女は小さく肩を震わせ、こわごわと私を見た。
「あなたがおっしゃったとおり、あなたと私は違うのよ。私が舞踏会をひとりでふらついていても誰も怪しまないし、誰も咎めない。でも、あなたはそうじゃないでしょう? あなたは――」
 嫉妬と失意で胸が苦しかった。どこまでも透きとおったシャーリーの瞳を見ていたら、目頭がひりひりと熱くなってきた。私は逃げるように彼女から目を逸らした。「あなたは今、婚約を控えた大切な時期にあるのだから」
「そうよ! そのとおりよ!」
 突然、シャーリーが声を上げた。弾かれるように、私は彼女を見やった。
 彼女のつぶらな瞳は、嵐の朝の防波堤のように今にも涙があふれそうだった。怒り、嫉妬、猜疑、苦悩、不安。神様の手厚い加護の下にある彼女には、およそ不似合いなものばかりがあふれ返っているように見えた。
「私がミスター・ブラッドリーと婚約すると社交界のみんなが見なしているわ! ミス・ローズデール、あの方と大変親しくいらっしゃるあなたもそのことは重々ご承知でしょう!?」
 私は本当に鈍臭い。
 ここに至ってようやく、シャーリーが私に伝えたかったことを理解したのだから。
 自分が婚約するであろう男と親しい女。その親交はそこに友情以外の何も介在しないことが明白ゆえに、社交界では暗黙のうちに公認されている。だから彼女が恥知らずにもその男と名前で呼び合ったり、大広間の片隅で二人きりで話をしても、もはや彼女を更生させるのを諦めた人々はその女を黙認し、非難しない。
 そしてその女は、自分と一緒にいる婚約間近の男と居合わせても、彼への親密な感情を隠そうとしない。目の前で彼と名前を呼び合い、彼と目配せをして笑い、自分の立場を思いやり一歩引く礼節さえわきまえない。
 シャーリーにとって、私はそういう存在だった。

 ジョセフと正式に婚約を交わしたわけではないのに、どうして私がそこまでシャーリーに気をつかって遠慮しなければならないの?
 彼女はとんでもない放蕩娘かもしれないのよ。
 事実、人目を忍んで郊外の森で男と密会している。秘密を抱える淑女たちが ”スズメバチ” と恐れる社交界専門記者が、フェアバンクス家唯一の未婚の娘の顔を何度も見間違えるはずがない。それなら、彼女が純潔な乙女と考える方が難しいわよね。そんな彼女に私の振る舞いを責められる筋合いはない。婚約もまだなのに、一八歳にして情夫を持ち、結婚は富も名誉もある名家の息子と。水辺の妖精を装いながら、男を自由自在に操る社交界の美しい毒蜘蛛。いかにも貴族の血を引く、生粋の上流階級育ちらしいじゃないの。
 彼女のような娘がジョセフの妻になることこそ許せない。受け入れられない。

 一方で、不思議な確信が私を貫いていた。
 シャーリーはひたむきに、真剣に、無心に私に立ち向かっている。その想いに、邪な野心や薄汚い打算はない。一心に私を見つめる彼女の、泉のように澄んだ水色の瞳を見れば分かる。私たちは同じ――本気で恋をしている――女だもの。
 これは殿方にバカにされがちな根拠のない女特有の思い込みだ。でもこれって、あなたも彼らもご存じのとおり、ことのほか的中することが多いのよね。

 きっかけは親の画策や一族の思惑だったとしても、彼女は純粋な気持ちでジョセフとの結婚を望んでいるのかもしれない。過去には森で密会する男がいたのかもしれない。でも今は、彼を心から愛しているのかもしれない。
 私と同じように。
 そうじゃなければ、わざわざ張り合うべくもない私なんかと対決したりしないわよ。黙って親に従っていれば、彼女は誰にも邪魔されることなく、みんなから祝福されてジョセフの妻の座を手に入れられるんだもの。
 ジョセフは森が大好きな男だけれど、そこでコソコソ会わなきゃならないような後ろ暗い男ではない。惚れた弱みってワケじゃないけど、たいていの女は――ご存じのとおり――あの男に恋せずにはいられない。シャーリーもきっと、森を支配する狼のように男らしく頼もしいジョセフの魅力に、ころっと参ってしまったのだろう。
 だからこそ、お腹を空かせた蝶々のように彼の周りをうろつく私を牽制し、遠ざけたいたいんでしょうね。だからこうして、無鉄砲にも私に立ち向かってきたのよ。
 いたいけな仔猫が、世馴れた野良猫に挑みかかるように。

 信頼、評判、友人、愛。
 シャーリーと同じ十八歳だった頃の私が諦めたもの。
 諦める。これは自分を甘やかす簡単な手段であると同時に、すごく苦しい選択でもあるのよね。それが自分の無知や無力ゆえにそうせざるを得ないことだと、悲しくて悔しくて誰かに怒りや不満をぶつけたくなる。
 シャーリーはそんな気持ちを味わったことなどないだろう。
 私が求める愛と幸福を、そんな彼女が手に入れる。まるで小間使いが用意した甘いマカロンをつまむように。生まれたときから親と女の子が望むすべてを持ち合わせ、なにひとつ失ったり諦めていない彼女が。

 絶対に秘密の、ここだけの話よ。
 私はシャーリーのような娘がうらやましくて妬ましくてたまらない。目障りで忌々しい。今すぐどこかに消えていなくなってほしい。
 それでも、私は彼女を嫌ったり恨んだりはできそうになかった。
 苦悩と不安。後悔と怯え。羞恥と罪悪感。彼女の小さな顔は、この自由貿易同盟で最も愛され恵まれたお姫様に相応しからぬ悲しみで塗りつぶされていた。今にも泣き出しそうな青白い顔で、それでも懸命に私を見据えるいたいけな姿を見れば、彼女がいかにジョセフを真剣に想っているか分かったから。

「ミス・フェアバンクス、大広間へはあなたひとりで戻っていただける?」
「……はい、ミス・ローズデール」
 なけなしの自尊心を絞り出すように、シャーリーは震える声でそう言った。「お話を聞いていただき、ありがとうございます。私はお先に失礼させていただきます」
「えぇ、ごきげんよう」
 彼女がひとりで客間を出ていくまで、ずっとその華奢な背中を見つめた。音もなく扉が閉まると、私はぐったりと長椅子の背もたれに身体を預けた。

 貿易船を港に停泊させる巨大な錨のような疲労感が、容赦なく私の全身に圧しかかってきた。人目がないのをいいことに、私は絹製の大きなクッションに崩れ落ちた。
 錨鎖にぐるぐる巻きにされたように、私の心は暗い海底まで沈没していった。



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