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第26話 仲の良い友人


 社交界で浮名を流す既婚の淑女たちと同じくらい、私も自信に満ちて能天気な性格ならよかった。

 彼女たちのように、自分よりはるかに恵まれた女の子を叩きのめしても罪悪感や後悔をひとかけらも覚えず、愛する男が誰と結婚しようが気に留めず、彼の秘密の寝室に出向くことに一切ためらわない女だったら、私はもっと気楽で楽しい人生を送ることができたはず。
 飛び立つこともできない小鳥のように、無力感で苦しむことなどなかっただろう。
 でも哀しいかな、私は器量の小さいただの出戻り女。
 そのうえ、自分の商売と従業員を抱える事業主、女商人だ。
 二度と結婚を望まない男に心奪われ、実家の権力でその男と婚約する寸前の恋敵に嫉妬と不安を掻き立てられ、自分の醜い心に絶望してこっそりベッドで涙を流した翌朝も、“ステラ・ド・ロレアンの女主人” として完璧な姿で商談に出向かなきゃならない。

「あなたから提示された契約同意書です。こちらに私の署名があります」
 差し出された契約同意書を受け取ると、私は流れるように美しい署名を確認した。
 世界最多の貨物取扱量を誇る貿易港を擁する自由貿易同盟では、昼も夜もなくこうした外国人商人との商談や取引が行われている。この日、ローズデール家の客間を訪れていたのは、対岸の大陸でワインやハーブ製品の卸売に携わる名うての商人の一行だった。
 その商人は四十代半ばを過ぎた、黒い瞳の洗練された男だった。微笑むと細い皺が目尻に刻まれる。若い頃はさぞや女にもてはやされただろう。しかも、時間をかけて熟成させた極上のワインのように、若い男では到底敵いっこない年齢を重ねた男の余裕と色気を備えていた。
「ありがとうございます。たしかに確認させていただきました、ムッシュー」
 対岸の国の商人の黒い瞳を見つめ返しながら私は言った。
「では、こちらの取引締結書にあなたのご署名をいただけますか? マドモアゼル・ローゼダーレ」
 まるで甘く囁くような対岸の国の商人の声。あの国の発音で呼ばれるだけで、自分の名前がとても優雅で上品に聞こえるから不思議よね。
 “貪欲で無情” と名高いローズデール家の娘だからか、どんなに最悪な気分で目覚めた朝でも、海を越えて、対岸の大陸の王国でステラ・ド・ロレアンのハーブ製品を流通させる大きな契約を締結し、その署名をするときは自然と笑みを浮かべることができる。
 羽根ペンでそそくさと “Lydia Rosedale” と署名すると、私は契約書を彼の方に向けてそっと差し出した。
「メルシィ」
 ちなみにこれは、あちらの国の言葉で “ありがとう” という意味よ。
 彼がほろ苦い微笑み――たいていの女なら憐れみを覚え、思わず甘やかしたくなるだろう類の――を私に向けた。
「マドモアゼル・ローゼダーレ、どうか私に懺悔の機会を与えていただきたい」
「懺悔? まさかわたくしを騙していらしたというのですか?」
 彼の芝居がかった調子から、言葉どおりの懺悔でないことはすぐ分かったけれど、こうしたやりとりをいかに巧くこなすのかも商人としての評判や評価につながる。手を抜くわけにはいかない。
「私はあなたを侮っていました。いただいた手紙は教養豊かな淑女が書いたものに間違いありませんでしたが、きっと父上や兄上の言葉をあなたが代筆しているのだろうと決めつけていました。しかし、今日初めてあなたと直接お会いし、商談を進めていくと、私は自分の誤解を認めざるをえなくなりました。私はあなたほど手強く、巧妙で、それでいて聡明で美しい淑女にお会いしたことはありません」
 対岸の王国の商人は、舞台俳優も顔負けの長台詞をつかえもせず言いきった。
「私はあなたにずいぶんと不躾で意地の悪い駆け引きを仕掛けたのに、あなたはそれに怯みも逆上もしませんでした。それどころか、愚かな子羊を導く乙女のように我々を引き寄せ、捕え、従わせてしまった。おかげで我々は当初の予定とは比べ物にならないほど多く、あなたの品を請け負うことになってしまいました」
 年上の男にもてはやされるのは気分がいいものだ。たとえ、相手にどのような意図や下心があるにせよ。
「まぁ、お気の毒に。わたくしは当初の予定どおり、あなたにステラ・ド・ロレアンの製品を託すことができて非常に満足していますわ。だって、あなたほど難儀させられ、頼もしく、信頼に値する貿易商はいらっしゃらないもの、ムッシュー。メルシィ」
 私の “メルシィ” の直後、にらめっこに降参するように彼は声を上げて破顔した。
 その瞬間、私は内心、胸をなでおろした。

 私はすでに、非常に多くのことを社交界で学んでいた。敵の弱点を嗅ぎ出し、それを利用して有利に立ち回るやり方や、強気で押すべきか、あるいは退くべきかのタイミングをうまく計る方法を叩き込まれた。
 商売を始めてからは、ささやかな商談を通じて、女の私でも無礼にならないすれすれの線なら男の商人にも押しの強さを発揮しても構わないことを知った。自由貿易同盟に限らず、実務に従事する実業家は、ある程度議論ができるところを見せない限り相手を尊敬しないのよ。
 また、いくら議論で相手をやり込めても、必ずしも相手が自分の思い通りになるわけではないことも、今さらながら学んだ。それからというもの、あらゆる外交の場において、私は自分を抑えるようになった。慎みのない性格のせいでにこやかに振る舞うのはなかなか骨が折れたけれど、適切なタイミングに適切な笑みを作るだけで、拍子抜けするほど商談が円滑に進むこともままある。
 そして最も重要なことは、商談の席で女は決して居心地の悪さを見せてはいけないということだ。砂粒ひとつ分たりともね。そんなことをすれば、私のような女商人はかかとのない靴を履いた場末の娼婦のように見くびられて終わりだ。不遜と紙一重の無邪気さと率直な賛辞で、あちらのささやかな不満を笑い飛ばすくらいでちょうどいい。
 商人の笑顔は仮面だ。その下には、ひややかで冷徹な眼が抜け目なくこちらの一挙手一投足を見据えているのだから。

「マドモアゼル・ローゼダーレ、あなたにはぜひ一度我が国にお越しいただきたい。とくに南部地域一帯は農業が非常に盛んで、良質のハーブを生産する広大な農園がいくつもあります」
 黒い瞳が、あからさまな意図を持って私をのぞきこんだ。
「まぁ、なんて抗いがたいお誘いでしょう」
 思いのほか素直というか、直情の男なのね。手元に置かれたペパーミントとレモングラスのお茶を一口飲むと、うんざりした気持ちが多少は和らいだ。
「たしか、あなたの一族はその地域にシャトーのひとつをお持ちでしたね。それはそれは見事で壮麗な城だとうかがっております――女なら誰もが夢心地でうっとりしてしまう――とも」
 彼は満足げにうなずいた。
「セ・ブレ」
 てらいのない “そのとおりです” だ。
「我がシャトーの近所には、我が国の国王陛下に献上するラヴェンダーの精油やバラの抽出液を製造する名高い農園があります。私は昔から領主夫妻と懇意にしているので、いつでもあなたを彼らに引き合わせることができますよ」
 彼の言う “近所” が、果たして文字どおり物理的に近所なのか、互いの敷地が隣接している――例えばその場合、シャトーと農園が馬車に乗って半日以上かかる距離にあったりする――という意味なのかは判断できかねた。「ぜひあなたをご案内したい。あなたならきっと心から楽しんでいただけるはずです」
 私は彼の背後に控えている、彼が本国から引き連れててきた部下たちをちらりと見やった。見慣れているのか、はたまたあちらの国では商売相手を口説くことさえ男の義務に当たるのか、主の振る舞いに眉ひとつ動かさない。
「それは魅了されずにはいられないお話ですわ、ムッシュー。歴史ある農園とシャトーは、わたくしのようなぽっと出のハーブ商人にとって憧れと夢の場所ですもの」
「きっとあなたのお気に召すはずです。願わくば、港に停泊させている我々の船であなたをこのまま我が国に連れ帰ってしまいたい。そうしたら、我が国に到着する間も、船の中でハーブのことや商売のことを心ゆくまで語り明かせます」
 今にもテーブル越しに手を握ってきそうな、ひどく熱っぽく親密な空気。錨を持たない自由な女なら、間違いなく受け入れるであろう熱情の眼差し。
 やれやれという気持ちが顔に出ないよう、こっそり頬に力を込めた。
「あなたの貿易船なら、きっと素敵な旅ができるのでしょうね」
 寝室の密談のように声を低めた。“アバズレ女のよう”と評判の厚めの唇がハートの形になるよう意識しながら、私は彼にそっと囁いた。
「でも、あなたの国に到着するまで、船室で心ゆくまでお話していただけるのはハーブや商売のことだけですの?」
「ノン、ノン、マドモアゼル!」
 細められた黒い瞳に期待と高揚、そしてわずかな嘲りと野蛮な優越感が光った。
「あなたとは何もかもすべてを分かち合いたいと思っています。今すぐ…… そう、今晩にでも」
「まぁ、それは楽しい一夜になりそうですわ」
「もちろんですとも」
「ムッシュー、わたくし、顔見知りの商人たちからあなたに関する興味深いことをうかがっておりますの。あなたはこの旅に、非常に魅惑的でご息女ほど若い女友達をお連れしているとか。わたくし、ぜひその方にお会いしてお友達になりたいですわ。今夜はぜひ、その方もご一緒にいかが?」
 私はにっこり目を細めた。
 海を越えて国をまたぐ大きな契約をもぎ獲っても、不実な恋に慣れた不埒な男の誘惑をあしらうことができても、心に引っ掛かった錨ははずれるどころかますます重くなるばかり。
 そんな無様な状態で春爛漫を謳歌する人々の笑顔を目の当たりにするのは、巨大な石材を肩に担ぐ古代の建築労働者並みの苦役だった。

「すごく退屈」
 私の隣にいたジェシカがつぶやいた。
「誰か楽しいことをしてくれればいいのに。たとえば、そうね、愛の告白とか」
 口さがないジェシカをかばうわけじゃないけど、この日、とある大邸宅の庭園で催されたガーデン・パーティーは模写された絵画のように実に退屈だった。広大で美しい庭園にはいつも目にする社交界の人々、飾り帽子、ドレス、外套、宝石、おしゃべりがひしめき合っていた。場所は違っても、そこにいる人はまるっきり同じなんだもの。飽きてつまらないと感じることもあるわよ。
「でも、私たち以外の淑女のみなさんはすごく楽しそう」
 春の庭園に相応しく、淡く美しい色彩のドレスをまとった若い娘たちを、ジェシカは憐みのこもった声で評した。
「あの子たちは舞踏会も晩餐会も、いつでも同じあの顔よ」
 私は吐き捨てた。「透明で硬いガラスの仮面をかぶっているみたい。ま、人目につかない場所ではもっと愉快で興味深い顔をしているのでしょうけど」
 にんまり笑うジェシカを横目に、私はグラスをくるりと回してワインを口に含んだ。

 恋に行き詰まるあまり、自分が意地の悪い女と化しているのは充分自覚していた。
 こういうときは、努めて仲の良い友人と一緒にいるべきだ。なぜなら、ひとりになった途端に誰からどんな話題をふっかけられるか分からないし、こんなふうに冷静な判断力が欠如しているときは正しくそれに対処することが極めて困難だからだ。

 だって、遠目にジョセフをちらりと見るだけで、ビスチェで寄せ上げた胸が破裂しそうなくらい苦しくなるのよ。
 シャーリーたちフェアバンクス家の面々や、彼と同じくらい自信と魅力にあふれた若手の商売仲間に囲まれ、彼はこの日もいつ何度見ても飽きることのない魅惑的な微笑みを振りまいていた。ときおり遠くから私に一瞥を与えては並はずれて青い瞳を眩しそうに細め、私をそわそわ居た堪れない気持ちにさせてくれた。

 と、そのとき、私たちの前に背の高い男が立った。
「失礼、ミス・ローズデール、今度は私と踊る番だ」
 ジェシカと私は顔を上げた。彼女の表情がかすかに苦々しいものになった。
 濃い灰色のヴェルヴェットの上着をまとい、一分の隙もなく洗練されたローランド・ホフマンが私たちの目の前に立っていた。
「あら、私ったらすっかり忘れていたわ。ごめんなさいね、ミスター・ホフマン」
 燦々と降り注ぐ陽射しの下、美しい花々が咲き誇る庭園を背負ったローリーは、冬の北風に頬を凍らせたシルバーフォックスのように堅苦しく取り澄まして見えた。
「君は本当に正直だな」
 悪びれない私に、彼は冷たく整った顔をしかめた。「こういうときは、もっとしおらしい態度を心がけるべきだ」
「まぁ、驚いた!」
 わざとらしく扇子を広げ、ジェシカが言った。「裏切り者のあなたこそ、そういう態度を心がけるべきではなくて? ミスター・ホフマン」
 ローリーは居心地悪そうにジェシカを横目で見やり、私はやれやれと目を回した。彼と私はすっかり和解したものの、ジェシカたち女友達はこの幼馴染みをそう簡単に許すつもりはないようだった。
「オルドリッジ夫人、あなたのおっしゃるとおりですわ」
 いやみったらしい調子で私はジェシカに言った。「でも、ミスター・ホフマンは頭が固くて古臭い殿方ですの。女に殊勝な態度を取ることなんてできませんのよ。ご存じでしょ?」
「えぇ、存じ上げていてよ」
 ジェシカはにやりと微笑んでから扇子をたたんだ。
「そういうことだ、ヘンリー・オルドリッジ夫人」
 二人の幼馴染みから含み笑いを向けられ、かなり不本意そうではあったけれど、ローリーは私の手を取りガーデン・パーティーの踊りの輪に加わった。
「ローリー、あなたはジョセフたちと一緒にいなくて平気なの?」
 彼の肩越しに、黒髪のご婦人と踊るジョセフをちらりと見ながら私は言った。相手がシャーリー・フェアバンクスではないというだけで、ほっとしてしまう自分にうんざりした。
「なぜ僕がジョセフたちとつねに一緒にいなければならないんだ?」
 法廷弁護士のような硬い声で、彼が私に問い返した。彼をよく知らないいたいけな娘だったら、怯えて口を閉ざしてしまいそうだ。
「あなたたちは兄弟みたいに仲が良いし、商売のことでしょっちゅう熱弁を交わしているじゃないの。それに今日はいつもより若い商人が多いわ。あなたもご婦人方に取り囲まれるより、彼らといる方が気楽で楽しいでしょう?」
 ローリーは傍目にも明らかなほど不機嫌な表情になった。
「まぁ、ローリー! そんな怖い顔をしないでちょうだい」
 私はあごをぐっと引いて笑いをこらえた。「まるで私があなたを怒らせてしまったようじゃないの」
「もともとこういう顔だ。僕だって不愉快なことを思い出せば、それが表情に出ることもある」
 不服そうに眉根を寄せたローリーがやけに愛らしくて、私はたまらず小さく吹き出してしまった。
 二十五歳になった彼は、ホフマン家の跡取り息子として目下この社交界で注目の的だ。ジョセフと同じく最も将来有望な若手商人のひとりと見なされ、未婚の娘とその両親たちから熱い視線を浴びる存在になっていた。しかし、彼らの期待と熱意に反して、ローリー自身はまだ結婚にほとんど関心を持っていないようだった。二十五歳といえば殿方の結婚適齢期だけれど、もう少し自由気ままに過ごしたい気持ちのほうが強いんでしょうね。
 曲が終わると、ローリーと私は見事な庭園の散策に出かけた。彼は自然な動作で私の手を取り、自分の曲げた肘につかませた。都会の庭園をわたってきたそよ風は、たっぷりと花の香りを含んでいた。私たちはすっかり仲のいい幼馴染みに戻れたのだ。私は心がほかほかしてきた。
 四月の暖かなそよ風が、ワルツを踊ってほてった頬を心地よくなでた。
「ジョセフがなぜあれほど結婚から逃げ回るのか、ようやく分かった気がするよ」
 珍しいことに、彼の声には色濃い同情がにじんでいた。「まともに会話もできない娘や顔と名前しか知らない娘と結婚し、何十年も一緒に暮らしていくのかと考えると、ひどく気が滅入る」
「あら、それは女だって同じことよ」
 私はローリーをにらんだ。「親がうちの娘に求婚しろとあなたに迫っていても、その娘はあなたのことなんて眼中にないかもしれないわ。真面目一辺倒のミスター・ホフマンなんてまっぴらごめんよ! と思っている娘だっているかもしれないでしょ」
「それは望ましいことだ」
 ローリーは仏頂面のまま私に言った。「リディ、君にいいことを教えてあげよう。男というものは、自分が望んでいないものを押しつけられた途端、猟師に追われる鹿のように死に物狂いで逃げ出したくなる生き物なんだ」
「あなたのわがままは子供の頃から変わっていないのね」
 鼻持ちならないほど自信満々な彼の笑顔が見たくて、私はにんまり微笑んだ。
「でも、それなら心配いらないわ。あなたはいつも必ず、最後には欲しいものを手に入れてきた。だから、あなたはきっと素晴らしい伴侶を手に入れられるわ。大丈夫よ、ローリー」
 不意に、彼が立ち止まった。
 奥まったブルーグレイの瞳が――私の期待と予想から大きく逸れて――優しく私に微笑み返してくれた。
「そうか。君がそう言うなら安心してもよさそうだ」
 これまで見たことのない甘さを含んだ彼の眼差しに、私は不覚にもどぎまぎしてひどく困惑した。
 真綿のように優しく、ローリーが私の手をつかんだ。
「リディ、君に頼みたいことがある」
「何かしら?」
 私は上背のある幼馴染みを見上げた。晴れた青空の下、彼の短い金茶色の髪が陽射しを浴びてきらきら輝いていた。

「僕の妻になってくれ」

 心が乱れているときは、努めて仲の良い友人と一緒にいるべきだ。
 でも、その友人にさらに心を乱された場合、どうやって冷静に正しく振る舞ったらいいの?



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