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第28話 昼間の灯り


 そよ風が私たちの間を通り抜けた。ローリーが大きく息を吐いた。

「わかった」
 力いっぱい感情を抑えた声だった。「理由を聞いても構わないか?」
「愛する人がいるの」
 私の手を包む手のひらがこわばった。手袋越しに感じる彼のぬくもりに泣きたい心地になりながら、私は声が震えないよう早口で答えた。
「私の結婚は失敗に終わった。これ以上ないというほど情けない形でね。惨めで苦しかったけれど、おかげで学べたこともあるわ。十八歳の私はアンドリューを愛しているつもりでいたけれど、それは無知な小娘が立ち勝った大人の殿方に抱く幼稚な憧れに過ぎなかった。だから、もう一度結婚するなら――できるなら――自分が心から愛し、共に在りたいと思える人がいいの」
 鋭い緊張で喉がひりひりと痛んだ。「だから、彼とでなければ “私は二度と結婚しない” わ」
 少し間をあけて、ローリーは静かに問いかけた。
「その男は君と結婚できる立場にあるのか?」
「もちろん、妻子ある殿方ではないわ」
 当代随一の名家の令嬢と婚約寸前ではあるけれど。
「では、その男は……」
 ローリーはいったん言葉を呑み込んだ。瞬き数回ほどの短いためらいの後、得体の知れない病に冒された女を嘆くように私を見返した。「再び結婚する意思があるのか?」
 私は落ち着かなく息を吸い込んだ。
 ローリーの眼差しには、確証を握っている者特有の確信が宿っていた。なぜ彼がその確証を手に入れたのかは分からない。軽率な私ごときが細心の注意を払って慎重に振る舞ったところで、聡明な洞察力を持つ彼にはすべてお見通しだったようだ。
 妻に裏切られ、傷つき、二度と結婚を望まなくなった男を私は愛している。
 私の幼馴染みは、私が必死に隠し通してきたことをいともたやすく見破っていた。
「多分…… いいえ、きっと二度と結婚したくないと考えているでしょうね」
「そのようだな」
 法務官のように低く落ち着き払った声だった。その冷静で疑念のない様は、たちまち私を気落ちさせた。
「君が愛しているのはジョセフ・ブラッドリーだ。そうだろう?」
 逃れようのない現行犯に罪状を言い渡す警官のように、ローリーは静かに尋ねた。私は無言でうなずいた。
「リディア、わかっているのか?」
 私の手を包む手のひらに力が込められた。
「彼は素晴らしい男だ。商人として、従兄として、友人として、僕は彼を尊敬している。しかし、君が愛している男は、君が決して幸せを共にできない男だ。君だって分かっているはずだ。そうだろう?」
 自由貿易同盟高等裁判所に出入りする若手判事のようにいつも堅苦しく取り澄まし洗練された青年が、感情もあらわに私を説得しようと懸命だった。

 喉が引きつるように震えた。彼の言うとおりだった。それが現実だった。
 いくら苦しい恋から目を逸らし続けようと、その場に立ち尽くすだけの私は惨めな現実を受け止めるしかない。そこから飛び出したいのに、どうしたらいいのか分からない。
「もちろんよ、ローリー。私はなにもかも分かっているわ」
 彼に不甲斐ない涙を見せたくないあまり、不機嫌なアビシニアンのように可愛げの欠片もない物言いになってしまった。
「結婚する意思のない殿方に想いを寄せるなんて、みずから幸福を遠ざける愚かな振る舞いよね。女として誤った選択をしているわ。明るい昼間に灯りをともすのと同じくらい意味のないことよね」
 明るい昼間にともす灯り。
 結婚を望まないジョセフにとって、それは彼の妻になることを望む女だ。
「そうだ。だから君は今すぐ僕に気持ちを向けるべきだ。僕を夫として選ぶべきだ。君が想うべきなのは彼ではない。この僕だ。そうだろう? リディ」
 法廷弁護士のような高圧的な言葉づかいの端々に、ひたむきな情熱と懇願がにじんでいた。それは感謝と後ろめたさとなって私の目頭までせり上がってきた。
「そうね。想うべき人を想うことができたらいいのに。どうしていつも私は正しいとされることを選べないのかしら」
 社交界の淑女の作法を遵守せず、家を守る義務がある未亡人でもないのに商売に手を出し、いつまでたっても再婚せず、そのうえ想いを寄せるべきではない男を愛している。幸せを共にできない男を。ほかの誰でもない、ジョセフ・ブラッドリーだけを。
「リディア! なぜだ? なぜジョセフでなければならないんだ?」
 ローリーの端整な面差しが苦悶で歪んだ。つかまれた手首が痛んだ。力任せに感情を抑えた男の手だった。冷たく淡いブルーグレイの瞳は、春の驟雨に打たれるように潤んでいた。
「彼だけだった。あんな形で離婚して出戻り女になった私を蔑んだり、距離を置いたり、色眼鏡で見たりせず、最初から知人として労り、それから友人として励まし、一貫して淑女として尊重してくれた。今の私が在るのはジョセフのおかげよ。彼がいなければ、私はきっと社交界の鮫たちに心を食い荒らされ、父や兄が望む我が家に利益をもたらしてくれる相手に嫁ぎ、自分の力で泳ぐことすらできず海面を漂う藻屑のように暮らしていたでしょうね。ローリー、あなたとも和解できず仲違いしたままだったかもしれない」
 かつての自分の言動を省みて、ローリーの表情に深い翳りが差した。
 大切な幼馴染みを、これ以上自責と後悔で苦しめたいわけではない。彼をなだめる言葉を探しあぐね、私は水槽から餌をねだる熱帯魚のように口を閉じたり開いたりを繰り返した。

 ローリー、あなたは頑固で自尊心の塊。取り澄まして鼻持ちならない男よ。
 でも、私は知っている。あなたは感情を表すことが不得手だし、言葉の選び方も温厚とか素直とは言い難いけれど、自分の非を認め謝罪することができる誠実な人。ここの上流階級で生まれ育った殿方でそれを、とくに女相手に出来る人は滅多にいないわ。それに、商売や家業を語るとき、あなたの氷のような冷たい色の瞳が活き活きと輝く様は春の雪解けのよう。そんなあなたを見ていると、二人でこっそり親の本を読んだ子供時代のように心がうきうき弾むの。
 『白鳥の騎士と低地の公女』の結末のように、あなたは私から離れて行った。
 でも、こうしてまだ戻ってきてくれた。
 私、知っているのよ。再び私と親しくし始めたことで、あなたが友人や取り巻きたちから私と距離を置くよう警告を受けているって。でも、あなたはそうした声を聞き流すだけでなく、彼らが私を見る目を変えようと言葉を尽くしてくれた。彼らの不満がなるべく私の耳に向かないよう気遣ってくれた。悪意や敵意から私を守ろうとしてくれた。
 だって、あなたは私の白鳥の騎士だもの。
 私がもっと早くあなたと和解する勇気を持ち、ジョセフと出会っていなかったら、きっと迷うことなくあなたのプロポーズを受け入れたでしょうね。あなたのような殿方と結婚すれば、私のような不出来な女でもきっと幸福になれるに決まっているもの。

 でも、そんなことをこの場で彼に言ってどうなるの?
 それでも、私が愛しているのはジョセフなのよ。
 ローリーがかけがえのない子供時代を共に過ごした幼馴染みで、再び友情を取り戻した気心の知れた友人で、結婚相手としても申し分ない殿方だったところで、それは決して揺るがない。
 本音はずるく欲深い。
 私はローリーとずっと友達でいたい。彼を失いたくない――幼馴染みとして。意固地を捨て、せっかく仲直りできたんだもの。言葉を尽くして、私にとって彼がいかに大切な人であるかを伝えたかった。

 でも、私は彼の想いを受け入れない。私の中に彼の居場所はない。
 それなら、彼の中に私が居座り続けていてはいけない。たとえそのせいで、私たちがもう二度と笑い合うことができなくなるとしても。

「だから、ジョセフとでなければ “私は二度と結婚しない” わ」
 ローリーが睫毛を伏せた。長い睫毛の影と共に、寂しげな感傷が顔中に広がった。自尊心の高さと矜持の硬さで右に出る者のいない若者が、哀しみを隠すことも忘れて私を見つめていた。
 唇を噛み、涙をこらえた。
 私に後悔する資格はない。言葉足らずの自分に失望しても意味はない。我を張るあまり、私は再び大切な幼馴染みをひとり失うことになるのだ。
「そうか。それは残念だ、ミス・ローズデール」
 ローリーはとびきり富める者らしい、冷たく傲然とした笑みを放った。
 細く鋭い針で刺されたような痛みが胸を襲った。いつぞやの舞踏会で、彼が私を冷やかに切り捨てた姿がよみがえった。浜辺に立つ私の足元を、後悔と失意の満ち潮が浸していくようだった。
「リディ、君は愚かな女だ。ゆくゆくはホフマン家の女主人になれる絶好の機会をみずから手放すのだから」
 頭脳明晰で高名なフェンシング選手でもあるローリーだけれど、昔から芝居だけはからきしだった。
 その証拠に、高慢な冷笑はすぐさまぎこちない苦笑に崩れ果ててしまった。彼は左頬にえくぼを浮かべた。吹雪に耐える蕾のようにかたくなに握り締めていた私の拳を、指を一本一本なでるように優しくほぐしてくれた。そして、そっと私の指先を包んでいた手を離した。
 私たちの間を、再び春のそよ風が通り抜け。後悔やわだかまりをひとかけらも残さず連れ去るように。
「そうね。そのうえ石頭だから救いようがないわ」
 奥歯をかみしめながら、ゆっくり笑みを作った。涙をこらえるのはいつも一苦労だ。
「どうしてこうも強情なのかしら。商売といい恋といい、私はいつも自分の身の丈以上のことに手を出してしまうのよ」
「驚きには値しない。君がじゃじゃ馬なのは今に始まったことではない」
  ローリーは澄まして言った。「君は子供の頃からいつもお転婆で危なっかしくて、僕をひやひやさせてばかりだった。僕は君が次に何をしでかすのかいつも気になって仕方がなかった。だからこそ、僕はずっと君から目を離せなかったよ、リディア」

 奥まったブルーグレイの瞳は、雨上がりの青空のように澄んで晴れやかだった。彼はみずからの想いに挑み、自力で決着をつけた。
 ローリーがまぶしかった。うらやましかった。
 彼のように、私も自分の恋に踏み出す勇気が欲しかった。

「ローリー、私の気持ちを知っていたのにプロポーズをしてくれてありがとう。私もあなたのように勇気を持てたら……」
「君の想いが成就するよう祈れるほど、僕は出来た男ではない」
 彼はけんもほろろに私の泣き言をあしらった。「しかし、正式に結婚を申し込んで断られるという恥をかかずに済んだ。その点については礼を言おう。それと、今後君は僕からのダンスの誘いを必ず受けなければならない。例外も反論も一切認めないぞ。分かったな?」
 いかにも高慢な男らしい物言いだったけれど、生真面目で誠実な彼の人となりを知る私を委縮させるにはてんで役立たずだった。ほろ苦い、それでいて私を元気づけようとするような真摯な眼差しで言われたらなおさらよね。
「これからも私をダンスの相手に選んでくれるのね。ローリー、ありがとう。お礼を言わなければならないのは私のほうよ。あなたって、昔から無愛想な顔に似合わず本当に優しくてお人好しよね」
 彼はひどく愕然とした様子で私を見据えた。
「まさか、よりにもよって君にお人好しと言われるとは…… 心外きわまりないな」

 優雅な庭園の片隅で、私たちは声を潜めて笑った。そして私は決意した。
 ジョセフに気持ちを打ち明けよう。素直に、ありのままに。



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