ジョセフにこの想いを伝えたい。
私がいかに彼に助けられ、慰められ、励まされてきたか知ってほしい。彼を商人として尊敬し、友人として信頼し、ひとりの男性として愛していることを打ち明けたい。
そりゃあ、男と女では恋に対する立ち位置は大きく異なる。
商売と同じく、求愛の所有者は男だ。愛を欲し、追い求め、捕えていいのは男だけだ。恋愛において、女はつねに森を逃げるいたいけな小鹿でいなければならない。猟師になることを許されるのは男だけだ。女が少しでも狩りに出かけようとすれば、倫理の道をはずれたと厳しい制裁が待っている――それがあくまで事実無根の噂だとしても。
表面上はしとやかで貞淑な淑女であることを求められる社交界では、女が殿方に愛を告白するなんてもってのほか。
それは “情熱的” ではなく “破廉恥” という評判に直結する。
それが打算のない真心からの正直な行動だったとしても、手練手管で殿方から愛の言葉を引き出す女の方が正しい淑女として評判も価値も高いのよ。
おまけに、自分のありのままの気持ちを言葉にするのは難しい。とても怖い。家族やごくごく親しい女友達相手にもほとんど経験がない。理論と知識の鎧で武装した議論や、冷静に貪欲に利益を追い求める商売とは勝手が違いすぎる。
それでも、私の心の中で瞬く恋の星々は輝きを失うことはなかった。
大好きなハーブで商売を始める夢と野心に目覚め、私を正しい航路に導く夜空の狼座を探し求め、ジョセフにたどりついたときのように。
そうよ、私だって大好きな恋物語のヒロインのように勇気を出さなきゃ。
彼女は苦しみや逆境にも挫けず、みずからの言葉で愛と幸福を手に入れた。
しかも運がいいことに、私は彼女のように叔母やその子供たちからいじめられながら生きなければならない孤児じゃない。彼女同様、男と女のあらゆる格差に対する反骨精神を抱いているけど、実家がそれなり以上に裕福なため、この国の大多数の女たちよりは勝手気ままに暮らせているはずだ。女から男に告白するなんて社会常識から大きく逸脱した行為だけど、私はかなり恵まれた環境にいるんだもの、それくらい危険を冒さないと神様も分不相応な幸せを私に許してくださりはしないだろう。
あぁ神様、こんなときだけあなたの力を頼る私をお許しください。
どうか、ジョセフにうまく告白できますように。
朝から晩まで、その祈りが頭の中でぐるぐる回っていた。
紅茶にレモンの輪切りを一枚落としてスプーンでかき混ぜているときも、トーストにイチジクのジャムをのせて伸ばしているときも。
ジョセフと一緒なら、バルコニーで燦々と陽射しを浴びながらとる簡素な朝食も素敵でしょうね。彼の波打つ黒髪が朝日を受けて輝き、紺碧の瞳が寝ぼけまなこの私を優しく見つめて微笑んでくれるの……
「リディア、あなたはここのところ、心ここにあらずといった様子ね。なにか心配事でもあるの?」
私ははっと目を上げ、ティーカップをもったまま固まった。二十四年間見慣れたローズデール家の食堂を背景に、母が気遣わしげに私を見ていた。高い天井とクリスタル製のシャンデリアの下、染みひとつない真っ白なクロスがかけられた長テーブルの横を大勢の召使いが行き交い、スープやオムレツのおかわりを運んでくる。愛する男と二人だけでとるささやかなバルコニーの朝食とは、あまりにかけ離れた光景だった。
食事中に夢想にひたるなんて、これじゃあまるで酔っ払いじゃないの。
母に告げるべきかしら?
フェアバンクス家の末娘と婚約間近の男に横恋慕しています。彼にどう告白したらいいか四六時中考えずにはいられないのです、って。
あいにく、私は楽観主義者ではない。母は当然彼らの話を聞いているだろうし、舞踏会や晩餐会で彼らの様子を幾度となく目にしている。名家同士の縁組に娘が割って入り、さらに評判を落とすことを望む母親などいないだろう。いるはずがない。
「夏に向けてコモンセージの糖蜜クリームやジャスミンのバスオイルを試作して、夜更かしが続いていたんです」
紅茶のカップをそうっと受け皿に戻し、ナプキンで口をぬぐった。「お話を聞き逃してしまったかしら? ごめんなさい」
「これから話すところだから気に病むことはなくてよ。父親の仕事好きを受け継ぐのは息子だけで充分だというのに、仕方のない娘ね」
母は慈愛たっぷりに私に微笑みかけた。「もう一段落ついたの? この週末もずっと忙しいのかしら?」
「いいえ、この週末はゆっくりするつもりです」
母を安心させたくて、私は反射的にそう答えた。
「そう、よかったわ」
美しい陶器のポットを手に取り、カップにおかわりを注ぎ足しながら母が続けた。
「週末、ステファニーの田舎のお宅に招待されているの。彼女、あなたもぜひとおっしゃってくださったのよ。すっかり伝えるのを忘れてしまっていたわ。リディア、この週末はあたくしと一緒にいらっしゃいね」
突然の徴兵通達を受け取った若者のように私はぎょっとなった。
「キャボット夫人の田舎のお宅って、東海岸保養地の別邸のことですよね?」
「えぇ、そうよ」
母世代の自由貿易同盟の淑女たちは、風光明媚な海岸沿いに大豪邸が並ぶ東海岸保養地を “田舎” と呼ぶのがならいだ。その瀟洒な港湾都市はここから目と鼻の先にあるとはいえ、馬車をどれほど飛ばしても半日弱はかかる。
「今日はすでに木曜日ですが、週末というのは……」
「土曜日の朝に発ちます。リディア、あなたが手に余るほどの仕事と社交行事を抱えているのは承知よ。でも、ステファニーのご招待を辞退しなければならないほど、多忙な週末が控えているわけではないのでしょう?」
言質はすでに取られていた。母親という家の絶対君主からの命令を断ることができる娘がいるだろうか。
「えぇ、もちろんです。ぜひご一緒させてください、お母様」
母は聞き分けのいい私に上機嫌でうなずいた。
土曜日と日曜日の催しはすべて辞退しなければならなくなった。私は焦った。これでは、ジョセフを捕まえて気持ちを打ち明ける計画は風前の灯だ。
告白はキャボット夫人の別邸から戻る週明けに延期するべきよね……
いいえ、そんな悠長に構えている場合じゃない。明日、ジョセフに告白しよう!
どちらにしても、舞踏会で適当な頃合いを見計らって彼を連れ出すほか手立てがないんだもの。
あくまで友人でしかない私は、事前に彼に手紙を出してこっそり待ち合わせをすることなんてできない。お見舞いやお祝いといった大義名分もなく、恋人関係にもない独身の女が男と二人きりで会うなんて言語道断。
何かとかまびすしいこの世界で、私たちはいつでも細い線の上を歩かなければならない。貞淑と不品行、どちら側に寄るかは本人の評判次第。その評判によって女の人生が決まる。つまるところ、ここで生きていく限り女は恋をするにも命懸けというわけだ。
愛する人は財宝だ。
だからそれを手に入れるためなら、ものすごく怖いし不安で押し潰されそうになるけれど、人生を懸ける価値はあると思うの。
だって、『南十字航路物語』のステラも船長ジョッキー・ダンにこう言っていたもの。
「私はこの航海に命を懸けるわ! そうでもしなきゃ、万病を癒す “小夜啼鳥の涙” は手に入らないもの。あんただってみんなだってそうでしょ?」
無鉄砲すぎる決意をした木曜日の晩、私はベッドの中でなかなか寝付けずそわそわしっぱなしだった。恋物語のヒーローとヒロインをジョセフと私にすり替え、彼らのような幸せな結末を思い描いてはそのたびに何度も寝がえりを打つ。まるで初恋に右往左往する十二歳の女の子だった。
考えてもみてよ。
けばけばしい赤毛の「高級娼婦のような顔」をした二十四歳の女商人が、枕を抱えて期待と夢想で頬を赤らめたり、次の瞬間には不安と悲観で顔色を失ったり、それを真夜中まで繰り返しているのよ。喜劇女優だってこらえきれず笑っちゃう体たらくよね。
ひとが恋に目がくらんでいる姿はみっともない。
理性と平常心を失えば失うほど、ひとは無様で滑稽になる。
あなた、落とし穴の底でもがく人を見下ろしたことはある? 怪我はないかと心配しつつも、おかしくてついつい笑ってしまうのよね。色恋にすったもんだしている他人を眺めているときって、あのときのちょっと意地悪な心地に似ていると思わない?
愛と欲望が渦巻く社交界で、その渦潮に呑み込まれたり溺れかけたりしている男女を幾人も目にして、私は内心こっそりと――ときにはおおっぴらに――彼らに憐憫と失笑を催したものだ。
その考えを改めるべきときなのかもしれない。いいえ、まさにそのときだ。
他人の目にいかに奇怪におかしく映ろうと、恋する当人たちはいたって真剣なのだから。
「やぁ、ミス・ローズデール。私のことを覚えておいでかな?」
舞踏会の人混みをものともせず、ナイトブルーの夜会服に身を包んだ長身が悠然とした足取りで近づいてきた。波打つつややかな黒髪が、野性的で端整な風貌を引き立てる。穏やかな紳士然とした微笑みが、私と目が合った途端、少年のようにくしゃりとほころんだ。
「ミスター・ブラッドリー、あなたのことは、まだかろうじて記憶に留めておりますわ」
お上品ぶったところで、私の顔は猫じゃらしにはしゃぐ猫のように喜色満面だったに違いない。こんなふうにジョセフと二人、壁際で会話をするのはいつぶりだろう。シャーリーたちフェアバンクス家の人たちと歓談する彼を物欲しげに盗み見ていた間、ずっと恋しくてたまらなかった瞬間だった。
「よかった。君に忘れ去られたら俺は海底に沈んだ遺跡も同然だ。これからも荒波に呑み込まれる前に君に助けを求めなければ」
「あら、海底に沈んだ遺跡なんてロマンチックで素敵ね。白い布地を巻きつけ革のサンダルを履いたあなたの彫像なんて、とても乙ではなくて?」
神殿の正面を飾るにふさわしい雄姿だろう。「でも、あなたは海底より晴れ渡る青空の下のほうが似つかわしいわ、ミスター・ブラッドリー」
「リディア、いつまで俺をそんなふうに呼ぶつもりなんだ?」
男らしい顔立ちのジョセフが眉尻を下げ小首をかしげると、たちまち抱きつきたくなるほどの愛らしさが炸裂した。
「私は淑女です。殿方が始めたルールにのっとるのが礼儀というものですわ。そうでしょう? ミスター・ブラッドリー」
これみよがしに “ミスター・ブラッドリー” を繰り返す私に、ジョセフは降参を告げるように両手を胸辺りにかかげた。
「君にミスター・ブラッドリーと呼ばれると、まるで別の人間になった心地がするよ」
自分の挨拶を棚に上げ、ジョセフはくすぐったそうにはにかんだ。
「まぁ、ジョセフ! あなたの従弟殿も同じことを言っていたわ。あなたたち、そんなところは似ているのね」
「従弟?」
「ローリーのことよ。あなたも彼も、名前で呼ばれるほうが好きでしょう?」
ジョセフは不思議な表情を浮かべた。
名高い唇は微笑みの曲線を描いたまま。けれど並はずれて鮮やかな紺碧の瞳が、彼らしからぬ傲慢さを漂わせてすがめられた。私を見下ろすジョセフの眼差しに、獲物に狙いを定めた狼のように酷薄で鋭い光が閃いた。
彼の視線の強さに、私は慄然とした。
私ったら、いよいよジョセフにまで不調法をしでかしてしまったの?
何に対して? 海底遺跡と彫像と従弟のことしか口にしていないのに。
「ブラッドリー家は堅苦しいことを好まない一族なんだ」
ジョセフはいつもの年長者らしい落ち着いた笑顔を輝かせた。「生真面目なあいつにも、その血が半分流れている何よりの証拠だね」
幸い、彼は私の失言をさらりと受け流した。いつものジョセフらしい鷹揚な様子にほっと胸をなでおろすと、私は精一杯平静を装って彼に提案をした。
「堅苦しいことを好まないブラッドリー家の三男坊さん、久しぶりにでしゃばりなローズデール家の娘と階段の密談でもいかが?」
ジョセフの瞳がありがたそうにきらめいた。
「俺はいつも君に先を越されてばかりだな。ちょうど、どうやって君を階段にさらおうか策を練っていたところなんだ」
さらう、ですって。まったく、ジョセフは私の期待感を煽る天才だ。
「あなたのように魅惑的な誘拐犯なら、どんな淑女も喜んでついていくわ」
ほかほかほてる頬の赤みを悟られる前に、ジョセフを廊下の端の階段に連れて行ってしまおう。そして告げるのよ。素直に、正直に、ありのままの気持ちを。
「ミス・ローズデール、こちらにいらしたのね」
振り向くと、キャボット夫人がひとりの青年をつれて近づいてきた。「まぁまぁ! 今夜のあなたはまるで人魚の女王ね。その瑠璃紺のドレス、なんて素敵なのかしら」
「キャボット夫人、ごきげんよう」
覚悟をくじかれた虚脱感を顔に出さないよう、私はキャボット夫人と彼女の隣に立つ青年にお愛想の笑みを向けた。
「ミス・ローズデール、こちら、あたくしの甥のスティーブン・パーシーよ。どうしてもあなたにご紹介したくて連れてきたの」
恋のキューピッド役が生き甲斐であるキャボット夫人のあからさまな意図に辟易したけれど、大恩人である彼女にそれを悟られるわけにはいかない。
「ミスター・ブラッドリー、ごきげんよう。あなたがミス・ローズデールと二人で語らっているのを拝見するのはひどく久しぶりね。あなたはここのところ、愛らしいミス・フェアバンクスとずっと一緒にいらしたでしょう?」
彼女の屈託のない指摘に、ジョセフも思わず苦笑いを浮かべた。
「キャボット夫人、ミス・フェアバンクスは私の最も年若い友人のひとりです」
満月のようにまるい顔をにっこりさせ、キャボット夫人はジョセフを見返した。
「あなたとミス・フェアバンクスが並んでいると、まるで一対の絵画のようだとみなさんおっしゃっていてよ」
ときに善良で温厚な淑女が、意図せず厳しい現実を突きつけることもある。
善意の落とし穴ほど厄介で忌々しいものはない。
私のなけなしの勇気と密やかな計画を、いとも容易く台無しにしてくれるんだもの。
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