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第30話 さまよえる亡霊


 私は目指すべき道を誤ったのかもしれない。
 ハーブ商人ではなく、赤毛の猫(アビシニアン)のように派手で気位が高そうな顔を活かし、舞台女優を目指すべきだったのかもしれない。

 その証拠に、私の胸の内は怒りと焦りで大時化だったにもかかわらず、キャボット夫人の甥はそりゃあもう愛らしい笑顔で私とワルツを踊ってくれた。ワルツが終わったとき、最上級の紳士から淑女への礼をとり、私の手の甲に口付けする素振りまで見せる大盤振る舞いだった。彼のように気前のいい殿方は好きだ。しかし、物事には潮合いというものがある。
 望まないときに望まないものを与えられても、不平不満が積もるだけなのよ。

 長年の忍耐とここ最近の商売で培った、私の面の厚さは伊達ではない。
 そうでなければ、きっと今頃私はキャボット夫人の甥をひどく怯えさせるか、あるいは「かわいげのない無礼女め!」と大いに顰蹙を買っていただろう。恋しくて恋しくてたまらなかったジョセフとようやく二人きりで話ができる機会をつかみかけた途端、彼の存在と彼の叔母の厚意によって私は彼と引き離されてしまった。
 その怒りと不満を悟られずに済んだのだから、私はたいした女優だ。
 これほど虚しい自画自賛もない。
 ジョセフは社交界の女帝の意をくんで速やかに私たちから離れ、私は彼女の甥と二曲たてつづけにワルツを踊るハメになった。当然だけれど、キャボット夫人とその甥を前にして、ジョセフと落ち合う約束はできずじまい。
 礼儀正しく善良な青年と別れると、私は矢も盾もたまらず舞踏会が開かれた大広間を見渡した。高々と結い上げられた淑女たちの髪、色鮮やかなドレス、洗練された紳士たちの黒や濃紺の上着。ワインの芳醇な香りが漂い、そこにかすかに葉巻煙草の煙の匂いが混じり合って、大窓を開け放っていてもさしたる換気になっていなかった。優雅な音楽の合間に、賭博室から紳士淑女たちの歓声や笑い声が上がっていた。彼ら同様、私もトランプやサイコロゲームに興じることが好きだ。しかし、この晩の私はいつものように彼らの仲間に入り、大げさな賛辞と婉曲な非難を受けながら掛け金を回収する気には到底なれなかった。

 誰かに航路を妨害されたり、無理矢理変更させられるのは慣れっこだ。
 にもかかわらず、このとき、独りぼっちで無人島に置き去りにされたようなとてつもない不安が私を激しく揺さぶっていた。“今夜を逃したら、私はもう二度とジョセフに想いを伝えることは叶わない” ――そんな焦燥感。
 巨大な苛立ちと不満を抱え、私はジョセフを探して大広間の人混みをかきわけながら進んだ。宝石箱のようにきらびやかな紳士淑女でぎゅうぎゅう詰めの舞踏会でなければ、ドレスの裾を両手でつかみ、ふくらはぎもあらわに駆け出したかった。
 ジョセフが大広間にいない。これは由々しき事態だった。
 彼はとても上背があり、肩もたくましく、どんなに酷い人混みでも野生の狼のように悠然とした存在感を放っている。だから彼が広大な大海原のような大広間のどこにいても、私はすぐに彼を見つけることができた。
 しかし、このとき、どこを見渡しても彼の姿は見当たらなかった。同じく、スミレの妖精のように愛らしく着飾ったシャーリー・フェアバンクスも。

 私は勘の鈍い女だ。でもときどき、とんでもなく直感が冴えわたるときがある。
 たとえば、この晩のように。
 こういうときは大抵、私は港の上空を飛ぶカモメだ。晴れた青空を飛ぶ白い海鳥は、灯台守や船乗りたちより先に水平線のかなたから近づく嵐に気付く。だから私は、不都合で不親切な現実が近づいている予感に胸がざわついていた。急がないと真っ黒な雨雲に捕まり、冷たい雨に打たれる。そんな不安。
 型どおりの挨拶に応え、不毛で退屈な淑女同士のおしゃべりから逃げ、親切な紳士からのダンスの誘いを丁重にお断りし、ようやく大広間から廊下に抜け出した。舞踏会は宴もたけなわ。廊下に人の気配はほとんどなかった。

 『さまよえるネーデル人』に登場する幽霊船の亡霊のように、私はあてどなく廊下を突き進んだ。
 陰鬱で暗澹とした悲劇の内容を思い返すと、私の足元に錨鎖が絡みつく錯覚に襲われた。幽霊船の船長のネーデル人は、たまたま一時避難で投錨していた北方の国の貿易船の船長にこう嘆く。
「呪いを受け六年に一度だけ陸に上がることができるが、乙女の愛を受けなければ呪いは解かれず、死ぬことも許されずに永遠に海をさまよわなければならぬ」
 私は幽霊船の亡霊なんかになりたくない。
 離婚から六年、ジョセフに愛を告げなければ彼はそのままシャーリー・フェアバンクスと婚約し、私は彼に想いを伝えることも許されず、永遠に未練と後悔の中をさまよわなければならないなんて、絶対に耐えられない。

 ひとっこひとりいない廊下は、分厚い絨毯が足音を吸い込んでくれるおかげで幽霊船の船内のように静まり返っていた。壁にとりつけられたランプのほのかな灯りが、夜の闇を背負う大きな窓ガラスに私の顔を映しだした。思わず立ち尽くした。幽霊船の亡霊にとり憑かれた乙女のように、生気のない青白い顔をした赤毛の女がいた。不安の亡霊を追い払うように、私は手のひらで両頬をはたいた。
 廊下の突き当りまでたどりついた。砂漠の大陸の最南端にあるという岬に漂着した心地だった。東と西どちらに行くか即断できず立ち止まったとき、かかとの高い靴でさんざん踊って歩いた疲れがどっと押し寄せてきた。おまけにこの日、私はジョセフに告白すると意気込むあまり、緊張と興奮でろくに食事が喉を通らなかった。疲労と空腹でへとへとだった。

 少し休むだけよ。ほんの少しだけ。
 不甲斐ない弁解を自分に言い聞かせながら、一番近くの部屋に滑り込んだ。後ろ手に扉を閉めると素早く鍵をかけ、私はそのままずるずると床に崩れ落ちた。瑠璃紺のドレスはそのまま夜の闇にとけ、跡形もなく呑み込まれていくようだ。扉に寄りかかったまま、私は目を閉じた。
 殿方はいつもこんな気苦労を背負いこんで、恋の狩猟場を駆け回っているのかしら? 愛する女の一挙手一投足に一喜一憂して、そのうえ美しく洗練された求愛の言葉を捧げなければならないなんて、大変どころの話じゃないわ。恋に憂き身をやつす殿方たちは私が思っているよりもずっと賢く、それでいて強靭な精神力を持つ人々なのかもしれない。
 現実逃避の思索も長くは続かなかった。扉の向こう側でなにやら人の気配を感じた。はっきりと聞き取れないかすかな話し声が聞こえたけれど、扉に鍵をかけてある安堵とジョセフへの恋しさのあまり、私は扉一枚隔てた廊下のおしゃべりに頓着する余裕はとてもなかった。

「まぁ、ミスター・ブラッドリー! なんてロマンチックなのでしょう!」
 この愛らしい喝采が私の耳を撃ち抜くまでは。
 銃声を聞いた小鹿のように、私は背筋をまっすぐ伸ばした。それからやましさと後ろめたさをむりやり呑み込み、間諜のように息を潜めて耳を扉に押しつけた。分厚い扉越しにようやく聞き取れるのは、私の心を掻き乱してやまない二人の声だった。
「今夜の舞踏会でみなさんに公表できたらいいのに」
 人気がないからか、シャーリー・フェアバンクスは興奮を隠せない様子だ。
「物事には順序と頃合いがあります。とくに我々が暮らす社交界でそれを誤ると、非常に厄介で難儀な事態になるのです。あなたもそれはご承知でしょう?」
 ジョセフは落ち着き払って彼女をたしなめたけれど、その理由と不満げな声色から彼女の意見に同意しているのは明らかだった。
「もちろん、嫌になるほど承知していますわ。でも、こんな素敵なことをもうしばらく黙っていなければならないなんて!」
 不平不満をこぼすときさえ、シャーリーの声から愛らしさは損なわれない。
「正式に発表するには両家の許可が必要です。煩わしい因習ですが、私はこの婚約を……いえ、私たちの結婚を完璧なものにしたいのです。ここは耐えなければなりません」
 ジョセフの真面目で硬質な口調にも、どこか夢見る少年のような甘さが滲んでいた。
「あなたのその誠実さは、感嘆と尊敬に値しますわ」
 敬意と憧憬を隠さない素直な声。陶然とジョセフを見上げるシャーリーの花のかんばせ。きっと天使のごとき美しさだっただろう。
「ですが、ミスター・ブラッドリー、あなたはつらくないのですか?」
 甘えるように拗ねた詰問。ひとつの答えしか望んでいないのは明白だった。
「つらいです」
 つねに鷹揚で颯爽たる辣腕商人から滅多に聞かれない、切ない情感と繊細な感傷がこもっていた。ジョセフの声は、まるで恋に身悶えする男そのものだった。
「私も一日でも早く、私たちのことを世界中のすべての人に知らしめたい」

 私は扉から耳を離した。
 凍えたように震える膝で立ち上がり、足音を立てないように暗い客間の奥に進んだ。瀕死の遭難者がぽつんと海に浮かんだ岩にしがみつくように、上質のサテンを張った椅子にぐったり身体を預けた。
 想いが強すぎると、周囲の様子を注意深く見定め、冷静に観察する余裕すらなくなってしまう。そして現実を見誤り、愚かな決断と行動を起こして評判と信頼を失う。単純で複雑な思考を持たない、思慮の浅い私のような女にありがちなことだ。
 しかし幸いなことに、このときは様々な偶然が重なって私は事なきを得た。
 盗み聞きという後ろめたい振る舞いをしたけれど、おかげでジョセフとシャーリー・フェアバンクスが心から愛し合い、内々に婚約を交わし、それを公表したくて居ても立ってもいられないほど互いへの情熱が盛り上がっていると知ることができた。
 もしキャボット夫人とその甥が私の目論見を邪魔せず、私がジョセフを探して廊下をさまようことなく、疲れてこっそり客間で休憩を取ることがなかったら、私は愛し合う彼らの間に闖入する場違いはなはだしいお邪魔虫になるところだった。
「よかったわ。ジョセフに告白する前に知ることができて」
 誰もいない暗い部屋で、私は独りつぶやいた。滴り落ちた涙のせいで、絹の手袋が冷たく手の甲に貼りついた。

 六年に一度だけ陸に上がり、乙女の愛を求めてさまよえる亡霊。
 運命の乙女に出会えるまでの永い年月の間、彼は何度、希望の後にこんな絶望感を抱えて暗く冷たい海底に戻っていったのだろう。



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