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第34話 田舎


 私は安堵していた。
 母の命令を聞き入れてよかった。大恩人であるキャボット夫人の東海岸保養地の別邸にお招きいただいたという大義名分があれば、ジョセフと顔を合わせたくないという身勝手な理由で、招待されていた舞踏会や晩餐会をことごとく辞退する不義理を働かずに済むのだから。
 愛する男によって自尊心をめちゃくちゃに踏みにじられた夜は、クラリセージの香油をたらしたお風呂で、身体の芯まで温まるに限る。爽やかでありながら落ち着いた重厚な香りが、ぼろぼろに傷ついた気分を鎮めて癒してくれる。
 この晩はいつもの効用をもたらしてはくれなかったけれど。

 翌日、土曜日の早朝、何度もあくびをかみころしながら、私は玄関ホールで母が下りてくるのをそわそわと待っていた。一秒でも早くローズデール家の屋敷から出発し、この街から脱出したくていてもたってもいられなかった。その理由と原因を考えると気落ちせずにはいられなかったけれど、とにかく二日間は静かな場所で心穏やかに過ごせるはずだ。街から離れた東海岸保養地で、今後の身の振り方をきちんと考えなければならなかった。
「おはようございます、お母様。さぁ行きましょう」
 母が侍女を伴って大階段を下りてくると、いてもたってもいられなかった私は階段を上がっての彼女の腕を取り、引きずるようにせっついた。
「リディア、おはよう。あなたが東海岸保養地(田 舎)に行きたがるなんて、まだ夢の中にいるみたいよ」
 玄関前に待たせていた馬車まで母を引っぱって早足で歩いていき、御者の手を借りていそいそと乗り込んだ。母がとんとんと天井を叩くと、蹄の音とともに馬車が出発した。私は安堵のため息をついてクッションに背中を沈めた。
 乗り心地をよくするためにバネ式の懸架装置が装備された最新式の馬車のおかげで、母との三時間半の旅はとても快適だった。馬車は私たちが住む西の川と東の川に囲まれた巨大な中州のような島から、東の川にかかった世界最大の鋼鉄の吊り橋を走り抜け、ネーデル人貿易商が多く住む対岸の地区に渡った。郊外の森と田園地帯を抜ければ、あとは東海岸保養地に向かって北上するのみ。
 さぁ、いざ社交界の “正しい人々” が愛してやまない “田舎“ へ。
 東海岸保養地は自由貿易同盟の北東部に位置し、深く切り込んだ湾に並ぶように伸びた細長い半島の東側地域のことを指す。古くから続く愛らしい市街地の先、対岸の大陸に臨む南側の海岸沿いに贅を凝らした城のような邸宅が立ち並ぶ。歴史ある風光明美な避暑地だ。

 ここのどこが “田舎” なのかしらね。
 たった三ヶ月とはいえ、南東部のハーブ農園で農婦見習いとして過ごした私としては、東海岸保養地に来るたび首をかしげずにいられない。とくに豪華絢爛極まりないキャボット家のお屋敷を前にすると、なおのこと。
 南洋産の白亜の大理石で造られた建物は歳月に磨かれ、春の陽光を受けて輝いていた。両翼が張り出した優雅な正面玄関は、三代前のアルバート三世時代の名残を留めていて、歴史書の中に飛び込んで時間をさかのぼっているような高揚感を与えてくれた。緑豊かな庭園の植木はきちんと刈り込まれて青々と茂り、正面扉に向かって弧を描く車回しには砂利がびっしり敷き詰めてあった。樹齢を重ねた木々が悠々と枝を張った隙間を縫って陽射しが射し込み、きれいに整えられた芝生の上できらきらと踊っていた。
 日焼けしたソバカスだからけの顔をしたほがらかな農民も、泥だらけになって遊び回る子供たちも、荷台を引きながら畦道を闊歩する牛や馬もいなかった。
 シミひとつない満月のようにふっくらした顔に微笑みを浮かべたキャボット夫人みずから私たちを出迎え、洗練された身なりの使用人たちが一部の無駄もなくきびきびと動き回り、白く長い毛並みが美しい純血種の猫が人懐っこく私のドレスの裾にじゃれついた。
「イーディスにリディア、ごきげんよう。ようこそいらしてくれたわ」
「ごきげんよう、ステファニー。お招きいただいてありがとう」
「キャボット夫人、ごきげんよう。お招きいただき、ありがとうございます」
 キャボット夫人、母、私と順に挨拶をし、キスを交わしてから、母と私は屋敷の中に案内された。
 キャボット家の “田舎のお宅” は、磨きこまれた羽目板や汚れひとつない床、高い天井が温かみと気品をあわせ持ち、歴史ある建物ならではの円熟した美を感じさせた。優雅な外見の下に隠された力強い柱や梁。都会から離れた緑豊かな土地の新鮮な空気。愛らしい小鳥たちの鳴き声。ほのかに漂う蜜蝋と焼き立てのパンの香り。心を鎮めて考え事をするにはうってつけの場所だ。
「実はあたくしもつい半刻前に到着したばかりなの」
 居間でみずから私たちにお茶をふるまいながらキャボット夫人が言った。「招待客の中で、あなたたちが一番乗りよ」
「私たちのほかにも招待された方々がいらっしゃるのですか?」
 後先考えず質問をする私の悪癖は治りそうにない。
「そりゃあもちろんですよ。あたくしのお友達、みなさん一緒に楽しんでいただきたくて催したハウス・パーティーですもの」
 キャボット夫人はおっとりと微笑んだ。彼女は昔から、私の不躾を優雅に受け流してくれる数少ない淑女のひとりなのだ。
「私ったらそんなことも知らないで…… 申し訳ありません」
 母をにらみそうになるのをぐっとこらえ、私は白々しくも恥じ入ったふりをした。
「あなたが謝ることはなくってよ」
 キャボット夫人は苦笑いを浮かべて母を見た。「イーディス、あなた、リディアにきちんと招待状を見せもせず連れてきたのでしょう?」
「そうだったかしら? リディア、ごめんなさいね。あたくしったら最近うっかりしてばかりだわ」
 おっとりしたいかにも深窓の令嬢育ちの母だけれど、その実、貪欲で無情と悪名高いローズデール家の女主人を務めるだけの機転を充分すぎるほど備えている。そんな彼女が、社交界で絶大な権力を誇る大切な友人からの招待状の内容を “うっかり” 私に知らせないはずがない。

 このとき、私はそれをすっかり失念していた。
 これこそ、まさに “うっかり” だった。

 午前中のうちに招待客が続々と到着した。
 当然、社交界の顔見知りばかりだった。私を煙たがる折り目正しい人々は見当たらなかったので、ひとまず私は胸をなでおろした。客間を見回したところ、招待客は男女がほぼ半々のようだった。男は三十歳前後の独身の紳士、女は私と同じくらいかやや年若いくらいの未婚の娘たちで、ほとんどが私のように母親とともに来ていた。
 良く言えば穏やかで気立てのいい、率直に言えばずいぶんと地味な顔ぶれだった。男たちはいずれも名家の独身の息子たちだった。驕ったところのない温厚で円満な紳士たち。対して女たちはというと、花嫁市場における地位は私と近しいものがあった。私と違って評判こそ問題ないものの、彼女たちは評判そのものがないとも言えた。とくに悪いところはないけれど、良いところ――たとえば、家柄とか財力とか美貌とか才知とかユーモアとか――も見当たらない。花嫁市場で埋もれてしまいがちな壁の花たち。
 それにしてもこの雰囲気、どこかで見覚えのある光景だった。どこだったか思い出せず悶々としていると、楽しそうなキャボット夫人の声が聞こえた。
「最後のひとりが到着されたようね」

 客間の扉が開かれた。長身の人影が現れ、しばし立ち止まって客間を見渡し、そしていつもの悠然とした足取りで入ってきた。彼は上品で垢ぬけた黒の上着に身を包み、野生の狼のように凛々しく堂々としていた。
 私は悲鳴を上げて卒倒しそうになった。

「ご機嫌いかがですか、キャボット夫人? このたびはお招きいただき、まことにありがとうございます」
 最後に到着した招待客はまっすぐキャボット夫人に歩み寄り、並はずれて高い身長を屈めて恭しく彼女の手を取った。彼の一挙手一投足は女王陛下にかしずく騎士のように洗練され優雅だった。
「まぁまぁ、よくお越しくださったわね。心ゆくまで楽しんでいってちょうだい」
 黒髪の色男に最上級の礼を示され、キャボット夫人はすこぶる上機嫌だった。
 娘の付き添いで来ていた母親たちは彼に嬉しそうに話しかけていたけれど、若い紳士たちの顔には驚きと落胆と嫉妬が浮かんでいた。そして、私以外の娘たちは最後に派手な登場をしてのけた招待客にすっかりくぎづけだった。頬をほんのりバラ色に染め、一生懸命平静を装っていた。彼に見惚れていると見破られないよう伏し目がちになろうと努めていたけれど、彼女たちが色めき立っているのは火を見るよりも明らかだった。
 一方、彼女たちと理由はまったく違ったけれど、私も決して目線を上げまいと努めた。衝撃と動揺が瞬時に満潮を迎え、暖かな客間にいるのに全身を小刻みな震えに襲われて身動きできなかった。

 そのとき、のろまな確信がよやく現実に追いついた。
 この既視感。思い出した。いつだったか、メアリーたちが私に内緒で催した昼食会だ。覚えているかしら? 友達思いで面倒見がよすぎる彼女たちが、男っ気がまったくない私を心配するあまり、私に恋人をあてがおうと殿方を呼んでレイノルズ家の中庭で開いたあの昼食会よ。
 それなら、母が私に招待状の内容を見せなかったのも納得できる。そもそも、キャボット夫人からわざわざ東海岸保養地の別宅に招待された時点で、わすかでもこうした可能性に考え及ぶべきだった。母はこのホームパーティーの主旨を知ったら、私が決して招待に応じないと分かって手を打ったのだ。
「お母様、このパーティーの主旨をご承知の上で私に招待状を見せなかったのですね?」
 懸命に声を押し殺し、私は母に詰め寄った。
「お父様もご承知ですよ。もちろんアーサーもね」
 母は上品に微笑み、私の疑惑をしれっと認めた。「お父様もアーサーもあたくしも、あなたが商売を始めて元気を取り戻したことをとても喜んでいてよ。でもまさか、あなたが二十四歳を越えるまで再婚もせず、商売に熱を上げ続けるとは思っていなかったわ」
 どうやら、私は家族のたくらみにまんまとはめられたようだ。

 でも、私にとってこのとき最大の問題は、家族に仕掛けられたささやかな陰謀でも、この行事の主たる目的――結婚相手を見つけること――でもなかった。

 どうして! どうしてジョセフがここにいるの!?

「やぁ、ミス・ローズデール」
 超然とした笑みを浮かべたジョセフが、私の前に立ち塞がった。「昨夜に続いて、今日も君に会えるとは。楽しい週末になりそうだ」
「ごきげんよう、ミスター・ブラッドリー」
 わななく手をぎゅっと握り締め、私はジョセフを見上げた。紺碧の瞳の底知れない深みに捕らわれると、心臓が爆ぜたように胸の中で鼓動が大きく響いた。「まさかあなたのように多忙を極める方が、このような週末のご招待を受けるとは思いもしませんでしたわ」
 ジョセフの眼差しに、かすかに翳が落ちた。はっと我に返ると、私は罪悪感で息苦しくなった。私は言外に、あなたが来ると分かっていたら私は来なかったのに、と彼に伝えてしまったのだ。いくら無礼を働かれた相手とはいえ、邪険にしたり意地悪なことを言ったりする免罪符にするのは気がとがめた。
「実に興味深い招待状だったからね」
 ジョセフは彼らしい自信に満ちあふれた笑みを輝かせた。「だから、私は絶対にこのハウス・パーティーに参加しなければならなかったんだ」

 それからずっと、ジョセフと私は口を聞こうとしなかった。互いにそばに寄ろうともしなかった。しかし、ときおり不思議な表情で彼がこちらを見つめていることに気付いた。挑発するような、探るような、誘いかけるような眼差し。彼はたった一晩で友情と優しさを投げ捨ててしまったのだろうか。私と目が合っても、ジョセフは視線をさりげなくはずす思いやりさえどこかに置き忘れてしまったようだ。彼は私をじっと見つめ続けた。耐えられなくなった私が顔をそむけるまで、ずっと。

 まるで彼から冷たい女と責められている気分だった。
 だったら、どうしたらいいの?
 婚約者がいる男の誘惑を受け入れろというの?
 私に不義を働けというの?
 愛する男のためなら不実な欲望にも従えというの?
 嫌よ。そんなこと、絶対に嫌!

 しかし、主催者であるキャボット夫人は私の苦悩など知るよしもなかった。
 男女を結びつける手腕を誇りとしている彼女は、とんでもない遊びを計画していた。招待客が二人組になり、力を合わせて謎を解いてゆく宝探しだ。招待客――付き添いの母親たちと私を除く――の目的は結婚相手を見つけることだったので、二人組はすべて男と女一人ずつから構成された。
 キャボット夫人は招待客の名前をカードに書いて四つ折りにし、女を赤い小花柄の箱に、男を青い矢羽の幾何学模様の箱に入れた。彼女はにこにこ楽しそうに片方の箱からカードを取り出した。
「ミスター・ハロルド・アサートンと……」
 キャボット夫人がもうひとつの箱からカードをつまみ上げた。「ミス・エイミー・クインシー」
 私は深く息を吐いた。そのときになって、ずっと息を止めていたことに気が付いた。
 どうか、どうかジョセフとだけは一緒の組になりませんように。胸の前で指を組み、礼拝の姿勢を取りたくてたまらなかった。私はそれほど真剣かつ切実に祈っていた。

「ミスター・ジョセフ・ブラッドリーと……」
 私の呼吸と心臓が急停止した。「……ミス・リディア・ローズデール! まぁまぁ! 仲の良いお二人なら、きっと楽しい宝探しになるでしょうね」

 しょせん、私は神様の不興を買った愚かな女だ。
 どうやら、神様は悪趣味な喜劇がお好みらしい。



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