This Story Index | Novels | Home



第36話 雨宿り


 狩猟小屋は薄暗かった。
 両手で腕をさすり、ジョセフの背中に隠れて室内の様子をうかがいながら、私は恐々と中に進んでいった。

 ジョセフは外套を脱ぐと、壁に備え付けられた外套かけの鉤にかけた。
「このまま濡れた服を着ていたら冷えて風邪を引く。君も脱いだ方がいい」
 私の薄手の外套(ペリース)を手振りで示しながら、ジョセフが言った。「そのドレスのようなコートをなんと呼べばいいのか分からないが」
 私はとっさに首を横に振っていた。
 呆れたように息を吐くと、ジョセフは体ごと私に向き直った。
 彼はぐっしょり湿った幅広のネクタイ(クラヴァット)をむしるように乱暴にほどき、力任せに首元から引き抜いた。彼のがっしりした首筋と大きな喉仏があらわになった。
 ジョセフの荒々しい仕草は、強烈に私を魅了した。でも、私の中に、彼にそれを悟られてはいけないと自分に警告する冷静さはかろうじて残っていた。
「こんなときに限って、正しい淑女ぶるのはやめてくれ」
 ジョセフはいらだたしげに私を見やった。
「いつ誰が来るか分からないわ」
 私は情けなく震えた声で反論した。
「誰も来ない」
 断固たる調子でジョセフは言った。「みんな今頃、キャボット氏の書斎で暖炉を囲みながらぬくぬくくつろいでいるだろう。壁に飾られた獲物の頭を眺めながらね」
 後頭部を鈍器で殴られたように、頭がくらくらした。
 妻であるキャボット夫人同様、いつも私に親切でとんでもなく気前のいいキャボット氏が、狩猟に多大な情熱を注いでいることをすっかり忘れていた。
 狭い部屋を見回しても、白い封筒はどこにも見当たらなかった。ジョセフの主張を認めるしかなかった。誰もここにやって来そうになかった。そして、真っ黒な空模様からして、雨は当分やみそうになかった。

 ジョセフが無言で私を見据えていた。私は息を呑んだ。
 彼はすでに上着もベストも脱いでいた。雨で長袖の白いシャツが体に貼りつき、濡れた布地越しに浅黒い肌と引き締まった腹部の筋肉が透けて見えた。装飾を取りはずした簡素な服装が、ジョセフの並はずれた背の高さや胸板の厚み、長い脚にしっかりとついた筋肉を強調していた。濡れてうねった黒髪の先端で水滴がふくらみ、滴り、首元に落ち、弓のような鎖骨を伝い、そしてシャツの中へ流れていった。
 彼の表情には、かすかに疲労といらだちがにじんでいた。でも、それがかえってジョセフに抗いがたい魅力を与え、気怠げで危険な色気を発散させていた。
 海のように深い青の瞳が、じれったくなるほどゆっくりと私の全身に視線を滑らせていった。私がそれに気付いたと悟ると、ジョセフはどこかまぶしそうに目をすがめた。私から視線を逸らすことなく、愉快そうに、かすかに唇を歪めた。

 舌舐めずりする狼。
 体の真ん中を熱い痺れが駆け抜け、全身の皮膚に鋭いさざ波が広がった。

 錯覚よ。昨晩の今日だから、私は自意識過剰になっている。
 こんなふうに心臓がどくんどくんやかましいのも、うまく呼吸ができないのも、膝がぶるぶる震えるのも、冷たい雨に打たれて身体の芯まで冷えきっているからよ。

 短い葛藤の末、私はすごすごと薄手の外套(ペリース)を脱ぎ、ジョセフのフロックコートと並べて壁の鉤にかけた。
「乾いた薪を探して火を起こそう。このままでは凍え死んでしまいそうだ」
 狭い部屋の中を大股で歩き回りながらジョセフは言った。この部屋に薪がないと素早く見切りをつけると、彼はすぐに部屋を出て行った。
「薪があったよ」
 彼を追いかけて隣の部屋に入って行くと、ほぼ同時にジョセフが声を上げた。「あそこだ」
 彼は暖炉のそばに積み上げられた薪の山を指差した。「キャボット氏はいつもこちらの暖炉を使っていたようだな」
 私は部屋を見回した。
 赤地に黒や緑の糸が織りこまれた北部高地の格子柄のカバーがかかり、ふわふわやわらかそうな枕の置かれた大きな木製の天蓋付きベッドは、いやがうえにも私の緊張感と動揺をむくむくと膨張させた。
 キャボット氏がどうしてこちらの部屋を好んだのか、私はすぐ想像できた。キャボット夫人は二年前、四十一歳のとき、キャボット氏との結婚二十年の節目に十三人目の子供になる末の八女をもうけていた。そんな彼らの仲睦まじさを知っている社交界の人間なら、誰でも分かることだ。
 ジョセフは無言で暖炉に薪を放り込んだ。
「向こうの部屋の暖炉を使うべきじゃないかしら?」
 巨大なベッドを視界から追い出し、懸命に戸惑いを押し隠そうと努めながら、私はジョセフに提案した。
「こちらのほうが頻繁に使われているのは間違いない。汚れた煙突を使うのは危険だ。煤や鳥の死骸が詰まっている可能性がある」
 ジョセフは至極冷静かつ理路整然と私の意見を退けた。
「そうね…… 私、着られそうな乾いた服がないか探してみるわ」
 彼が暖炉で火を起こしている間、私は乾いた服を探し続けた。でも、案の定、なにも発見できなかった。この部屋で暖を取れるものといえば、ベッドカバーとその下に敷かれた毛布くらいしか見当たらなかった。

「ベッドカバーを使うといい」
 こともなげにジョセフが言った。
「それはできないわ」
 とっさに私は反対した。
「暖を取るためのものを探しているんじゃないのか、君は?」
 ジョセフは冷静に私の言動の矛盾を指摘した。
「そうだけど、私たちがここにいたことを知られたら困るでしょう?」
 私は幼稚な物言いで弁解した。
 そんなことになれば、ジョセフの完璧な評判に傷がつく。それだけは避けなきゃ。
「そうだな。そうなったら君はおおいに困るんだろうな」
 ジョセフは皮肉げに口元を歪めた。「俺と寝室に二人きりでいたことが知られたら、君は俺と結婚しなければならなくなるからね」
 今度こそ、私は戸惑いと動揺を隠すことができなかった。そんな私の無様な体たらくに、ジョセフは舌打ちせんばかりのいらだちと不快感をあらわにした。
 悪趣味で意地悪な男の冗談をあしらうのは、それなりに得意だ。
 でも、これはあんまりにも残酷で、私には荷が重すぎるわよ。
「困るのはあなたも同じでしょ」
 普段よりさらにお高く留まった物言いで気持ちを奮い立たせないと、心ない彼の言葉に泣き崩れてしまいそうだった。「こういうときは互いに協力することが大事よ、ミスター・ブラッドリー」

 ジョセフは不満といらだちを消しも隠しもせず、無言で暖炉に向き直って火を起こす作業に戻った。私は彼の背後に立ち尽くしたまま、濡れたシャツが貼りついた彼の背中を見つめていた。重苦しい沈黙に支配された中、暖炉に並べられた薪の上に小さなオレンジ色の炎がともった。彼は細い枝を慎重に炎の周りにくべていった。やがて徐々に大きくなった炎の明かりが、マントルピースの縁とジョセフの顔を照らした。
「火がついたよ」
 立ち上がって振り返りながら、ジョセフが私に言った。
 私がうなずくのを確認すると、彼はまっすぐベッドに歩み寄り、躊躇も遠慮もなくベッドカバーを引きはがした。
「ジョセフ! 何をしているの?」
「君はこっちを使うんだ」
 赤地に緑や黒の格子柄のベッドカバーを脇に抱えながら、ジョセフは毛布を手にかけていた。「毛布のほうが暖かい」
「だめよ! こんなことをしたら私たちがここにいたと知られてしまう」
「ここを整えるのは召使いの仕事だ。彼らが黙っていれば、俺たちがここを使ったと持ち主たちに知られることはない」
「そういう問題じゃないわ。私はお世話になった方の家具を汚す不作法をしたくない」
「自分の別邸に招待した客が、帰宅早々風邪で寝込んだらキャボット夫人はどう思うだろうな?」
 ジョセフは場違いなほど楽しげな笑みを作った。「彼女は極めて善良な淑女だ。リディア、君が自分のせいで病気に罹ったと聞いたら、彼女はひどく心を痛めるだろうな」
 もし仮に私がこの雨のせいで風邪を引いたとしても、その原因と責任は私自身の軽率さであってキャボット夫人には何の非もない。でも、そうであっても、このホーム・パーティーの主催者である彼女が私のために心を痛めるのは間違いないだろう。
「ドレスを脱いで暖炉の前に広げるんだ。一時間も置いておけば乾くだろう」
 薪をくべるのと同じくらい簡単にジョセフは言い放った。
「なんですって?」
 私は愕然と彼を見返した。「この場で服を脱げと言うの?」
「そうだ」
 ジョセフは毛布を私に押しつけながら言った。「濡れた服を脱いで乾かすんだ。その間、この毛布をかぶっていればいい」
 私は混乱と驚愕で身動きひとつ取れなかった。
「俺はそうさせてもらう」
 そんな私を顧みず、ジョセフは暖炉の前に戻ると濡れた白いシャツを頭から引き抜いた。たくましい肩。浅黒い肌。隆起した背中の筋肉。がっしりした腰回り。彼の肩と背中の広い輪郭は名匠が刻んだ彫刻のように完璧で、濃い色味の琥珀を削り、磨きをかけて艶やかに仕上げたようだった。彼が強く首を振ると、黒い髪の毛から水滴が跳ね散った。
 激しい雨風が窓ガラスを強く打った。はっと我に返った。
 一瞬、ジョセフの裸の背中にうっとり見惚れていた。その事実に火山から溶岩が噴き出すように羞恥心がせり上がってきた。私は毛布を抱えたまま勢いよく後ろを向いた。
 すると、背後から様々な音が聞こえてきた。
 革が伸びてかすかにきしむ音、濡れた布がこすれ合う音、濡れた指先を弾くような少しくぐもった音、大きな布を広げて扱う手際のよさそうな音。
 ふくらはぎを覆うブーツを脱ぎ、濡れてごわつく膝丈のズボンを足から強引に抜き取り、下ばきの釦を弾くようにはずし、ベッドカバーを裸体に巻きつけていく。背を向けていても、音だけでジョセフの一挙手一投足をすべて目の当たりにしているようだった。
 逃れがたい好奇心と抗いがたい興奮のために、私は――またしても――指一本動かすことすらできずに立ち尽くしていた。

 裸の男と二人きり。
 これは女が一切の弁明を許されない由々しき事態だ。私は今すぐこの部屋を出て行かなくちゃ。鈍臭い私がようやくそこに思い至ったとき、突然背後から腕をつかまれ乱暴に引っ張られた。
「いつまでぐずぐずしているんだ」
 激しいいらだちと抑圧しきれない怒りをたぎらせて私をにらみつけると、ジョセフは私を暖炉の炎の前に押し出した。「凍え死ぬ気か? 早く暖まるんだ」
「私は平気よ!」
 ジョセフの無礼に抗議しようと顔を向けた瞬間、私は呼吸が止まり、小さな花火が爆ぜたように頬が熱くなった。私の目の前に、がっしりした鎖骨となめし革のようにピンと張った裸の胸板があった。赤地に緑や黒の格子柄のベッドカバーをスカート状の民族衣装のように腰に巻いたジョセフは、無骨で武勇に名高い北部高地民族の戦士のようだった。
「そんなに震えて何が平気なもんか。ほら、俺の言うことを聞くんだ」
「命令しないで。私は子供じゃないわ」
 動揺のために弱々しくなった私の抗議を静かに鼻先で笑うと、ジョセフは笑みを打ち消して私の胸元をちらっと見た。昼間用のドレスは淡い生成り色で、濡れてぴったりと肌に貼りついていた。暖炉の炎しかない薄暗い部屋でも、ビスチェで寄せ上げた乳房の形をはっきり見分けることができた。
「確かに、君は子供ではないな」
 私は胸の前で腕を組んだ。
「俺に見られたくないなら後ろを向いていよう」
 ジョセフは体ごとくるりと反転させた。「早く濡れた服を脱いで暖まってくれ」
 彼の大胆さと優しさに困惑しながら、結局、私はなけなしの勇気を振り絞って彼の命令に従う決心をした。これ以上、彼を困らせるのは本意ではなかったし――自分でも言ったじゃないの――こういうときは互いに協力することが大事よね。

「ジョセフ…… あの…… 終わったわ」
 幸いにも、昼間用のドレスは前身頃に真珠の釦が並んでいるお行儀の良いデザインだった。コルセットも動きやすく着脱が楽な簡易式のものだったし、誰かの手を借りずともなんとか私ひとりで脱ぐことができた。身に着けていた衣類をすべて暖炉の前に並べると、私は頭から毛布をかぶり、顔だけ出してジョセフに声をかけた。
 生まれてから一度も、元夫とお医者様以外の男性の前で服を脱いだことはなかった。だから、肌着(シュミーズ)の紐を肩から下ろしたとき、夏に陽射しを浴びすぎて肌がひりひり真っ赤になったときのように感じた。迷った末に、思い切って靴も絹の靴下も下穿き(ドロワーズ)も脱いでしまった。そのせいで太ももの隙間がひどく心もとなく、膝と膝をすり合わせずにはいられなかった。
「そちらを向いても構わないか?」
 ジョセフがかすかに頭を動かして私に尋ねた。
 再度毛布をかぶり直し、深呼吸をしてから私は答えた。「いいわよ」
 慎重にゆっくり私に向き直ると、ジョセフはあからさまにほっとした様子で表情をやわらげた。
「さぁ、しっかり暖まるんだ。もっと暖炉の近くに行こう」
 彼が私の背中をそっと押して暖炉に近づけた。毛布越しに、彼の手のひらの形をはっきりと感じた。頬の熱が耳まで広がり、平静を装うのはひと苦労だった。毛布を閉じ合せていた手を、ぎゅっと握り締めた。
 ジョセフは暖炉の前に椅子をふたつ運んでくると、ひとつに私を座らせ、もうひとつに自分が腰を下ろした。暖炉の中でぱちぱちと薪が爆ぜた。赤々と燃える炎を前にして、私の柔軟な慎み深さは、私が毛布の中から両手やつま先を出し、炎にかざして暖めることをあっさり許した。指先やつま先から熱が広がると、つい嬉しげな低いうめき声を漏らしてしまった。
「まだ寒い?」
 ジョセフが私に問いかけた。
「いいえ、もう大丈夫よ。暖かいわ。ありがとう、ジョセフ」
  美術館に飾られた胸像のような彼の裸体に目を向ける勇気はなかったかれど、私は顔を伏せたままくぐもった声でジョセフにお礼を言うことはできた。
 彼が穏やかに深く微笑むのが気配で分かった。呼吸音さえ聞き取れそうな沈黙が、ジョセフと私を繭玉のように優しく包みこんだ。

 屋根の上、壁や窓ガラスの向こう側から聞こえる雨音は、数分前よりますます強く激しさを増していた。まるで雨の日に二人きりで洞窟に閉じ込められたようだった。
 南欧の地中海に浮かぶ島を舞台にした、牧歌的な古典の恋物語がふと頭をよぎった。島に住む少年と少女の間に芽生えた純真な恋。雨の日の洞窟。秘密の待ち合わせ。焚き火。先に着いて居眠りをしていた少年。遅れてやってきた少女は雨に濡れ、肌着を脱いで焚き火で乾かしていた。少年が目を覚ます。少年に裸を見られた少女は、羞恥心から彼にも裸になるように頼む。裸になった少年に、少女は言うの。
「その火を飛び越えて。その火を飛び越えたら……」

 暖炉の中で、炎が大きく爆ぜた。
 弾かれるように顔を上げると、右側からピリピリと頬を刺すほど強い視線を感じた。炎の明かりに吸い寄せられる蛾のように、私はその視線をたどった。

「リディア」
 暖炉の炎がジョセフの紺碧の瞳に映り、煌々と揺らめいていた。「俺は君に伝えたいことがあるんだ」



This Story Index | Novels | Home


Copyright © 雨音 All Rights Reserved.

inserted by FC2 system