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第37話 手負いの狼


 雨に濡れたジョセフの黒髪が一束、額にこぼれ落ちた。
 暖炉の炎に照らされた右頬。かたく引き結ばれた口元。
 これまで見たこともないほど真剣で、どこか思い詰めた紺碧の瞳。

 いよいよだわ。
 ジョセフから目を逸らし、耳を塞いで隣の部屋に逃げ出したくなった。昨晩、ジョセフとシャーリー・フェアバンクスの会話を盗み聞きした後ろめたさとその内容を思い出し、私はたちまち憂鬱になった。あの出来事から二十四時間も経っていないのに、今度はジョセフ本人の口から直接彼らの秘密――ひそかに婚約を交わしていること――を打ち明けられるのだ。
 これほど間抜けで悲惨な喜劇があるかしら。
 こうなったら、もう逃げることはできない。
 でも、なけなしの勇気をかき集めれば、直撃を回避することくらいは可能なはずだ。

「ジョセフ、私もあなたに伝えなきゃいけないことが…… 謝らなければならないことがあるの」
 彼の視線がまっすぐ私に注がれた。不思議そうに首をかしげている姿はとんでもなく愛らしかったけれど、うっとり見惚れている場合ではない。
「謝らなければならないのは俺の方だ」
 深い悔恨がジョセフの顔に広がった。一心に私を見つめる彼の瞳は後悔で曇り、罪悪感で潤んでいた。
「昨夜は、すまなかった。腕力に物を言わせて女性に――よりにもよって君に――無理を強いるなど、男として最も恥ずべき振る舞いをしてしまった。謝って済まされることではないと承知している。それでも君に謝罪したい。本当にごめんよ、リディア」

 後悔とわずかな羞恥心で表情を曇らせていても、ジョセフは決して私から目を逸らそうとしなかった。潔い彼の気骨がまぶしかった。
 この瞬間、私はすでに彼を許していた。
 彼が許しを乞うべきなのは私ではなく婚約者のシャーリー・フェアバンクスだ。でも、彼女が私たちに起こったことを知らないなら、ジョセフが彼女に無責任な懺悔をする必要はないわよね。私たちが黙っていれば、昨晩の出来事は “なかったこと” にできるんだもの。
 こんなふうに謝られるとたちまち何でも許してしまうから、私はしょっちゅうお人好しと舐められるのよね。でも、こんなふうに素直に自らの過ちを認め、みっともない自己弁護もせず、率直に謝罪できる人をいつまでも責め続けることのほうがよほど愚かで寂しいことだ。
 それが、愛する人ならなおのこと。

 なにか言葉をかけてジョセフを安心させてあげよう。私は彼の友人なのだから。
 哀しみと寂しさと優しさが混じり合った感傷とともに、私は彼を見つめ返した。ジョセフはいつのまにか少し身体の向きを変え、身を乗り出して私と向き合っていた。彼の裸の上半身が、腕を動かせば触れられるほどそばにあった。たくましい肩と引き締まった腕が、私の脳裏に昨晩の荒々しく情熱的な蛮行を蘇らせた。
 私はもぞもぞと毛布に顔をうずめるようにうつむいた。ようやく落ち着いてきた頬の熱が急速にぶり返した。
 暖炉の炎が強すぎるのよ。八つ当たりが胸の内に響いた。
「リディア、これだけは信じてくれ」
 ジョセフの声にかすかに焦りがにじんだ。「俺は君を貶めようとか、傷つけようとか、そうした意図はなかったんだ。だからといってそんなことは免罪符にはならないし、俺は君が望むとおりにどんな謝罪も償いもするつもりだ」
 ジョセフが嘘を吐いているようには見えなかった。
 彼は私を騙したり、嘘を吐いたりしたことはない。それだけじゃない。商人として野心家で辣腕と名高い彼だけれど、商売仲間からは勿論、競合する商売敵からも彼の人格や品位を否定する言葉や噂を聞いたことがない。彼はそれだけ信頼に値する男だ。
 私は静かにゆっくり息を吸い込んだ。
「わかったわ、ジョセフ」
「俺の謝罪を受け入れてくれるのか?」
 不安げに寄せられていた眉根がぱっと開き、ジョセフの顔に安堵と喜びの笑みが輝いた。
「えぇ、もちろんよ」
  彼に笑顔を取り戻せたことにささやかな満足を見出すと、私は背筋を伸ばし、お腹にきゅっと力を込めた。「だから、私の謝罪も聞いてちょうだい」
「君が俺に謝罪? なんのことかな?」
 幼い少女から罪のない小さな悪戯の懺悔を聞く牧師様のように、ジョセフはゆったりと鷹揚に微笑んだ。
「ゆうべ、聞いてしまったの」
 いざ謝るときが訪れると、どうにも尻込みしてまごついてしまう。私は再び深呼吸をした。「あなたとミス・フェアバンクスの会話を盗み聞きしてしまったの。はしたないことをして、ごめんなさい」
 瀕死のヒバリのさえずりのように、私の声は強く打ちつける雨音にかき消されてしまいそうなほどか細く弱々しかった。激しい雨水に流され呑み込まれるように、ジョセフの顔から微笑みが消え去った。
「なんだって?」
「少し気分が優れなくて、大広間から離れた客間で休んでいたの。そうしたら扉の外から人の気配がして、好奇心に駆られて聞き耳を立ててしまったわ。話し声で、すぐにあなたとミス・フェアバンクスだと分かった」
「……それは、本当なのか? リディア」
「えぇ、本当よ」
 言葉が途切れた。沈黙と雨音が、檻のように私たちを取り囲んだ。

 私はジョセフの言葉を待った。怒り、嫌悪、不快感、侮蔑。鞭打ちを待つ罪人のように、私は彼からあらゆる感情を投げつけられる覚悟とともに身構えた。
 しかし、いつまでたってもジョセフはうんともすんとも言ってこなかった。慎重に彼の表情をうかがうと、いくぶん恥じらっているような、バツが悪そうな顔になった。愛する人との秘密の婚約を知られた照れくささだろうか、日に焼けた頬が見る見るうちに赤らんでいった。
「そうか…… 君は、聞いていたのか……」
 ジョセフはいつになくうろたえているようだった。「リディア、君に打ち明けもせず俺だけで勝手に事を進めたことは悪かった。だが――」
「まぁ、ジョセフ。そんなことをわざわざ私に知らせる必要はないわ」
 私は心の中で悲鳴をあげた。勘弁してちょうだい!
「なぜそんなことを言うんだ! 本来なら最初に君に伝えるべきことだ」
 ジョセフは至極真面目な表情で断言した。「俺は自分の自尊心を守ることに必死で、勇気を持つことができなかった。そのうえ、自分の夢想や虚栄心を満たすために彼女にあんな馬鹿なことを…… あぁ! こんなことになるなんて…… どうしたらいいんだ」
 燃えさかる森に右往左往する狼のように、ジョセフの表情から余裕が一切なくなった。追い詰められ万策尽きた敗走兵のように、彼は粗野で短い罵倒を口走り、豊かな黒髪を乱暴にかきむしった。
 今度は私がうろたえる番だった。
 冷静沈着で温厚篤実、つねに自信に満ち、大人の男の余裕と色気を醸し出すジョセフが、今にも頭を抱えそうなほど深刻な苦悩をあらわにしていた。手で顔半分を覆い隠し、羞恥と動揺を抑え込もうと懸命だった。
 いったいどうしたというの?
 たかが公表していない婚約を友人一人に知られただけなのに。
 あぁ、そうか。昨晩、ジョセフはシャーリーに言っていたわ。「この結婚を完璧なものにしたい」って。だから、盗み聞きという卑劣な手段で自分の計画を台無しにされるのが不安なのね。いつも年長者ぶって余裕しゃくしゃくのジョセフにも、なかなかかわいらしいところがあるじゃないの。

 それほど深く、シャーリー・フェアバンクスを愛しているのね。

「どうするもこうするもないわ、ジョセフ」
 とにかく、彼をなだめ落ち着かせるのが急務だった。私の哀しみを癒すのは後回しだ。しばらく、対岸の大陸各国を遊学する旅に出ればいい。私は場違いなほど明るい調子で彼に言った。
「あなたは社交界に婚約を発表し、ミス・フェアバンクスと結婚する。それでめでたし、めでたし、じゃないの」
「え?」
 切なげな苦悩から一転、ジョセフは激しく面食らった顔になった。
「心配しないで。あなたたちならきっと愛に満ちた幸福な家庭を築けるわ。彼女は家柄はもちろん、美しいだけじゃなく気立てもいいと評判だし――」
「待ってくれ! リディア、君はいったい何を言っているんだ?」
 困惑もあらわに、ジョセフが私のありがたい慰めを遮った。
「何って、あなたとミス・フェアバンクスの婚約のことよ。ゆうべ、早く公表したいと言っていたじゃないの」
「あ、あぁ、そんなことまで……」
 恥ずかしげに視線を泳がせたのもつかの間、ジョセフは探るような鋭い眼差しで私を見据えた。「君は、昨晩の俺たちの会話を聞いていたと言ったね?」
「え、えぇ、まぁ……」
 彼の視線があまりに物騒だったため、正直なところ、私はかなり怯えていた。
「それで、俺がミス・フェアバンクスと結婚すればいいと言っているのか?」
「そうよ。そうでしょう? ほかに何と言えばいいの?」
 目頭が熱くなり、鼻の奥をかすかに引きつるような痛みが走った。
 彼女と結婚しないで。私と結婚して。私はあなたを愛しているの。
 そう言えばいいの? 言いたいわよ。でも、愛する女との婚約を発表したくて待ちきれないと話す男に告白できるほど、私は大胆でも勇敢でもなかった。
「もう一度だけ聞く。君は、ミス・フェアバンクスと俺の会話を聞いていた。間違いないな?」
「そうよ! 聞いていたわよ!」
 恥じらいも後ろめたさも忘れて私は叫んだ。
「それなら、どうして俺の心を踏みにじるようなことを言うんだ!」
 狩人に跳びかかる手負いの狼のようにジョセフは激高した。「確かに俺は君に隠れて情けない振る舞いをした。そのうえ君を傷つけたし、見損なわれても仕方ない。君にとって、俺が年上の気安い友人でしかないことも重々承知している。それでも、俺は本気なんだ。こんなふうに前後不覚になるのは初めてで…… だから、お願いだ。どうか、そんなふうに…… そんな冷たい皮肉で俺を責めないでくれ、リディア」
 傷ついた狼が徐々に力尽きていくように、ジョセフの声から力強さと覇気が失われていった。彼は椅子に沈みこんだ。膝に肘をつき、両手で頭を支え、力なくうつむいていた。
 暖炉の中で小さく炎が爆ぜた。私は彼に一言も声をかけることができなかった。ただ、彼を見つめていた。深い溜め息をつくと、ジョセフはゆっくりと顔を上げ、寂しげな笑みを私に向けた。
「すまない。大きな声を上げたりして、また君を怖がらせてしまったな」
 紺碧の瞳は、色濃い悲しみと寂しさに揺れていた。
 ジョセフが泣いているように見えた。矢も盾もたまらなくなって、私は椅子から立ち上がり彼の前に歩み寄った。厚い絨毯が敷かれた床に膝をつき、ジョセフの右手を取ると、見上げるように彼の顔をのぞきこんだ。

 黒い睫毛の下から、海のように深い青の目がひたむきに、無心に私を見つめ返した。
 私が傷つき涙に暮れたとき、ジョセフは私をいたわり励ましてくれた。彼はこれまで数え切れないほどの優しさと勇気を私に与えてくれた。
 だから、私も同じ分だけ彼に与えたい。
 彼の哀しみを分かち合い、喜びに換えてあげたい。彼の寂しさを思いやりとぬくもりで埋め、満たしてあげたい。彼の苦悩を取り除き、彼を心から笑顔にしたい。
 彼のために私にできることがあるなら、どんなことでも、何でもする。

「ジョセフ、ねぇ、大丈夫?」
 彼は私の手を痛いほど強く握り返し、ますます泣きそうな顔になった。それから、涙をこらえるようにくしゃりと目元を崩して微笑んだ。
「君は馬鹿だ」
 途端に息ができなくなった。背骨がきしみ、頭を左右に動かすこともままならない。かろうじて肘から下の腕を動かすと、指先がサテン布のようになめらかな肌をこすった。私は、椅子から滑り降りたジョセフにきつく抱き締められていた。
 私の耳元に彼の熱い溜め息が漏れた。リディア、と私の名前を囁くかすれた声とともに。甘い痺れが脚の付け根から背骨を駆け上がった。霧にけぶる明け方の森のように、私の意識がぼんやりかすんだ。

 と、そのとき、ジョセフがなにかつぶやいた。
 彼は腕の力をゆるめると、すくいあげるように私の頬を両手で挟んだ。熱病患者のように熱に浮かされ、濃密な蜂蜜のように甘くとろけた紺碧の瞳が私を捕えた。
「ジョセフ、いまなんて言ったの?」
 温かい指先が、私の頬を優しくなでた。心臓がどきどき鳴り始め、ふかふかした毛布の下で肌がピリピリと粟立った。引き寄せられるままに、ジョセフの唇が私のこめかみ、額、眉、それから頬骨に触れた。太陽の光を飲み込んだように、私の喉が熱くなった。彼は私と額を近づけてそっとささやいた。

「愛している」
 彼はひどく苦しげで、熱情が鬱積した声はかすれていた。「俺は君を愛しているんだ、リディア」



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