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第38話 告白


 こめかみの産毛が逆立つようにぞくぞくした。
 体中の血液が嵐の海のように荒れ狂い、煮えたぎる蜂蜜のように熱くなった。
 しばらくの間、私は言葉を発することもできなかった。鼓動で破裂しそうな胸に手を当てながら、私はあえぐように言った。
「ジョセフ、あなたは…… あなたは私にそんなことを言ってはいけないわ……」
 私は呆然としてつぶやいた。彼は答えなかった。代わりに手で私の頬を包み、指先でそっとなでた。彼の熱っぽい眼差しから目を逸らすことも、彼の手を振り払うこともできず、私は彼の愛撫を受けた。湿り気を帯びた彼の皮膚の匂いが、薫り高い蒸留酒のように私をくらくらと酔わせた。
「リディア、俺は君を愛しているんだ」
 ジョセフは私の懇願を無視した。「君が何度止めようと、もう構うものか。君がいけないんだ。君があんな意地悪なことを俺に言うから……」
 彼の様子は、叱られて拗ねた五歳の少年のようで尋常じゃなく愛らしかった。しかし、彼は三十二歳の大人の男で、おまけに婚約者がいる身だ。私はここで欲望に屈するわけにはいかなかった。私はジョセフからそっと手を離し、肩を押し返して彼と距離を作った。心に鎧を身につけるように、毛布をさらにきつくかぶり直した。

「ジョセフ、ありがとう。とても…… とても光栄に思うわ」
 嬉しい、と正直な気持ちを打ち明けるのは気がとがめた。
 どの言葉が適切で正しいのか、冷静に判断することはとてもできそうになかった。そもそも、顔見知りの娘と婚約を交わした愛する男を毅然と拒絶する方法なんてあるの?
 脚本のない舞台に突き出された喜劇女優のように、極度の緊張と興奮の中、私はゆっくり慎重に言葉を探した。
「あなたは今、とても感情が高ぶっているのよ。婚約を交わしたばかりだから無理もないわ。こういうとき、殿方は独身最後の思い出を作ろうとひどく躍起になると聞いたことがあるの。あなたもきっとその状態なのよ」
 自分の言葉が正しいと思いたくなかった。
 私が身をもって実感した男女の愛の格言のひとつに、“不実な浮気者ほど簡単に愛の言葉をささやく” がある。しかし、ジョセフはこの五年間、親身な励ましと真摯な友情、誠実な優しさといたわりで私を支えてきてくれた。怒りと困惑とほんの少しの寂しさをにじませて私を見つめるジョセフの瞳を見れば、彼が不埒な気持ちで私にこんなことを言っているのではないとすぐに分かった。
 だから、私は正直に伝えなければ。なけなしの自尊心と品格を奮い起こし、毅然と立ち向かわなければ。
「ジョセフ、私はミス・フェアバンクスと婚約を交わしたあなたの愛を受け入れることはできないわ」
 失望と落胆を隠さず、ジョセフが深々と溜め息を吐いた。
「君まで俺の言葉ではなく社交界の噂話を信じるのか」
「まさか! 私はあなたの言葉を信じているだけよ、ジョセフ」
「それならなぜ、俺がミス・フェアバンクスと婚約を交わしたなどと言うんだ」
 ジョセフはかすれた声で私を責めた。
「昨晩、あなたが言ったんじゃないの。“一日でも早く、このことを世界中のすべての人に知らせたい” って」
 昨晩、私の夢と希望を打ち砕いた言葉の数々が徐々によみがえってきた。
 毛布をかぶって膝を抱えたいのをぐっとこらえながらジョセフの返事を待っていると、彼は再び無言になった。
 不安なあまり彼の表情をのぞき込むと、せわしなく瞬きをし、視線はあてどなく泳ぐ水槽の魚のように漂っていた。触れたら火傷しそうなほど彼の頬が真っ赤になっていたので、私までつられて頬がかっかと熱くなってきた。
「あ、あぁ、そうだね。確かに、俺はそんなことを言ったが…… それは……あぁ、リディア、どうか俺をこれ以上いたぶるのをやめてくれ。こんなことになるなんて…… あぁ、くそっ!」
 ジョセフが粗野で乱暴な言葉を使ったので、私はびっくりした。絨毯の上に胡座をかき、ジョセフは困り果てた様子で頭をかいた。その男らしい姿と愛らしい様子に私が頬をゆるめかけた瞬間、見落としていた重大な事実に気付いた尋問官のように、彼は表情を硬く引き締めて私に問いかけた。
「リディア、君は昨晩、ミス・フェアバンクスと俺の会話を聞いていたと言ったね?」
「え? えぇ」
「最初から最後まですべて聞いていたのか?」

 最初から最後まですべて。

 ジョセフの問いかけを頭の中で繰り返した。
 それから、冷静に昨晩の顛末を振り返ってみた。
 昨晩は扉の向こう側で人の気配を感じて、でも扉に寄り掛かっているだけでははっきりと聞き取れていなかったように記憶している。シャーリー・フェアバンクスが「まぁ、ミスター・ブラッドリー! なんてロマンチックなのでしょう!」と楽しそうな声を上げたのをきっかけに、私は扉に貼りついて彼らの会話を盗み聞きした。おまけに意気地なしの私は、ジョセフの熱に浮かれたような言葉の後、すぐに扉から耳を離してしまった。

 あら? まさか…… まさか私ったら、彼らの会話の一部しか聞いていなかったの?
 そのせいで、とんでもない勘違いをしているのかしら!?

「どうやら俺は順序を間違えてしまったようだ」
 混乱を極めるあまり石のように固まった私の様子で事の次第を把握したのか、ジョセフはひどく気抜けした苦笑いを浮かべた。「俺はまず、君の誤解を解かなければならないようだな」
「お願いしてもいいかしら」
 私はなるべく平静を装うとした。けれど、私の口から這い出た弱々しい声から判断するに、盛大に失敗したようだ。
 ジョセフは優しく微笑み、ほつれていた私の髪を耳にかけて直してくれた。耳たぶを彼の指先がこすった。私より少し高い彼の体温が伝わった。私の鼓動は、壊れたポンプのようにさらにみっともないほど強く高鳴った。
「ミス・フェアバンクスとの婚約だが、俺たちは婚約を交わしていないし、その予定も意思もない。俺たちは互いに婚約を望んでいない」
「それならどうしてあんなふうにいつも彼女と一緒にいたの?」
「いつまでたっても再婚しない俺に業を煮やした父が、軽い気持ちでフェアバンクス家当主夫妻に掛け合ったら、思いのほか大事になってしまってね。フェアバンクス家は、とにかく今すぐミス・フェアバンクスを嫁がせたくて仕方ないらしい。とんでもない速度で噂ばかりが先走り、彼女と俺の婚約は瞬く間に “事実” になった。もはや俺だけの力では収拾がつけられなくなった」
 ジョセフの凛々しい黒い眉が、不快感もあらわにきつく寄せられた。
「こちらから婚約を持ちかけた手前、俺が “あれは正式な申し込みではなかった”、“婚約できない” と言える状況ではなかった」
「ブラッドリー家から正式な申し込みはしていないの?」
「するはずがない。父はしたがっていたが、俺は断固として拒否したし、母や兄たちも彼の強引な進め方に難色を示した。もっとも、紳士同士の約束は王国議会の決議より重いと見なされる。正式な書簡を出したも同然さ」
 この国の議会の決議と紳士同士の約束で共通しているのは、ありとあらゆる不測の事態を想定して交わされることは滅多にないという点だ。ジョセフの父親とシャーリーの父親が交わした協約では、ジョセフがシャーリーとの婚約を望まない場合について考えられていなかったようだ。
「相手はフェアバンクス家だ。慎重を失すればあちらの体面、いや、それ以上にミス・フェアバンクスの名誉を傷つけるし、ブラッドリー家の信頼と今後の商売にも関わる」
 “大理石の人” と誉れ高い首相閣下といえども、たったひとりでこの一件をまるく収めることは困難に違いない。
「それでも、俺は彼女と結婚するわけにはいかなかった」
 暖炉の炎が、私をまっすぐ見つめるジョセフの横顔を照らした。「俺の個人的な感情で、何の落ち度もない淑女の評判と自尊心を傷つけるのかと思うと気が重かった。しかし、俺は心を偽って結婚などできない。だから彼女に言ったんだ。 俺には愛する人がいる、彼女でなければ結婚できない、とね」
「……それで、ミス・フェアバンクスはなんて?」
 躍り出しそうな喜びと高揚感を懸命になだめながら、私は続きを促した。
「“なんてことでしょう、ミスター・ブラッドリー! わたくしもあなたと同じです!”」
 ジョセフは、鈴を転がすようなシャーリーの声とは似ても似つかない、低くかすれた声で彼女の真似をした。「そりゃあ嬉しそうに “わたくしもあなたとは結婚したくありません” と言われたよ」
 シャーリーがジョセフと “同じ” なら、彼女にも想い人がいるのだろうか……
 あ! 例の郊外の森で密会していた男かしら?
「俺はどうやら、自分が思っているよりずっと自惚れの強い人間だったらしい。彼女が俺との結婚を望まないと考えてもいなかったんだ」
 私たちはそろって吹き出した。たしなみも忘れ、私は声を上げて笑った。
 雨はまだ激しく降り続いていた。でも、私の心の中で降り続いていた雨はすでにやみ、鉛色の雲の向こうにかすかに美しい青空がのぞき始めていた。
「リディア、そんなに笑わないでくれ」
 ジョセフは照れくさそうにはにかんだ。「男はすべての女性から愛されていると思いたがる愚かな生き物なんだ。知っているだろう?」
「えぇ、知っているわ」
 肩からずり落ちそうな毛布を引き上げながら私は言った。「温厚篤実な紳士と名高いジョセフ・ブラッドリーも、たくさんの愛をほしがるわがまま坊やね」
「そうだな。もっと若いときの俺は、それはもうわがままで強欲だった」
 ジョセフが微笑みを消した。紺碧の瞳が、まぶしそうに私を見据えた。
「だが、今は違う。俺は愛するただひとりの人からの愛が欲しい」

 ジョセフは今でも十分わがままで強欲だ。
 そうでなければ、こんなふうに情熱と欲望に濡れた眼差しで私を誘惑しようとしないだろう。彼の紺碧の瞳は海のように深く、ずっと見つめていたらそのまま呑み込まれて溺れそうなほど美しかった。

「ミス・フェアバンクスとのことは分かったわ」
 ほてった頬に微笑みが広がるのが自分でも分かった。「私ったら、会話の一部だけで思い違いをしてごめんなさい」
「謝らないでくれ。君の誤解を解くことができてよかった」
 ジョセフの高い頬骨のあたりはまだかすかに赤みがさし、彼も私と同じように喜びと安堵、それからかすかな羞恥を覚えているようだった。
「ねぇ、ジョセフ。そういえば昨晩、“世界中のすべての人に知らしめたい” と話していたのは何のことなの?」
 ジョセフは痛みを感じたように表情をこわばらせた。思わず私までぎょっとしてしまった。なにかとんでもなく厄介なことを問いかけてしまったようだ。
 彼は長い間、返事をするのを躊躇していた。
「ミス・フェアバンクスに事情を説明するうちに、その、事実と多少異なる、というか、誇張というか…… いや、彼女をだますつもりはなかったんだ……」
 ようやく口を開けば、なにやら要領を得ないやけに弁解じみた言葉が続いた。戸惑いつつも、私は視線だけでジョセフに続きを促した。
「俺が愛する人がいると打ち明けたために、彼女は俺に相思相愛の恋人がいると思い込んでしまったんだ。彼女は俺が密かに恋人と情熱的な恋愛関係にあると誤解したまま、年若い娘らしくたちまち盛り上がってしまって…… そんな彼女の様子に、俺自身、自尊心をひどく刺激された。だから、つい……」
「つい?」
 我慢できず、私はオウム返しに彼に問いかけた。
「……ミス・フェアバンクスに、俺の恋人は君だと言ってしまったんだ。それだけじゃなく、密かに…… その…… 将来を誓い合っていると……」
「“世界中のすべての人に知らしめたい” のは、私と秘密の婚約関係にあるということだったの?」
 短いためらいの後、降参するようにジョセフが無言でうなずいた。
 驚きのあまり、私はまじまじとジョセフを凝視してしまった。私の視線に気づくと、彼は年端もいかない少年のようにひどく恥じ入り、債務徴税人にとりすがる債権者のように懸命に私に説明を始めた。
「本当は、君に想いを伝えて本物の恋人になりたかった。だが、君が俺に寄せる友情と信頼を失うのが怖かった。俺が君を愛していると知ったら、君はほかの男たちのように俺を拒絶するんじゃないか――想像するだけで耐えられなかった。君を失いたくなかった。だから俺は、友人として振る舞うしかなかった」
 彼は途中で言いよどみ、自嘲気味にかすかに微笑んだ。
「ミス・フェアバンクスの相談を受けているとき、俺は幸福な錯覚を覚えた。あのときだけ、俺は君と愛し合い、密かに婚約を交わした仲にある満たされた男になれた。ひとりになったときや、君が俺以外の男と踊ったり話したりしているのを目にしたとき、虚しさや無力感、苛立ちや嫉妬にさいなまれると分かっていても、独り善がりの夢想をやめることができなかった…… 我ながら情けないな。さすがの君も、見下げ果てた男だと呆れているだろう。まったく、俺はどうしようもない男だな」
 豊かにうねる黒い髪は乱れ、鮮やかな青い瞳は後悔で曇り、微笑みは涙をこらえているように危うげだった。
 真面目で誠実で不器用な男の苦悩が、私の胸を痛いほど強く締めつけた。
「本当にどうしようもない人。可哀相なジョセフ」
 毛布の合わせ目から片手を伸ばし、私はそっとジョセフの手を包んだ。
「やめてくれ、リディア。君は俺にそんなことをするべきではない」
 ジョセフは慌てて首をねじり、視線を暖炉のほうへ向けた。
「やめないわよ。私は昔から殿方に命令されるのも、それに従うのも大嫌いなの」
 ジョセフが歯を食いしばった。彼の冷静さにひびが入る音が聞こえた気がした。
 私が手のひらをそっと彼の頬に当てると、たくましい肩に震えが走った。
「リディア、やめなさい」
 年長者ぶった高圧的な声に、動揺と興奮が潜んでいた。
「俺は…… 俺は君が思うほど真面目で立派な男じゃない! そんな恰好の君と一緒にいて何も感じないほど清廉潔白でもない。こんな状況で君に触れられたら、俺は君に対して礼儀正しく紳士的に振る舞い続けることなど到底できない。もう二度と君を傷つけるわけにいかない。だから、どうか今すぐその手を離してくれ。俺を苦しめるのはやめてくれ。俺はもう限界ぎりぎりなんだ。お願いだ、リディア」
「いやよ!」
 べそをかいたような声で私は彼の命令を拒んだ。
「ジョセフ、あなたはずるい。自分が言いたいことを言ったらおしまいなの? 私の気持ちを聞いてくれないの? これまでずっと、みんなが私の意見を鼻で笑ってあしらっても、あなただけは必ず最後まで聞いてくれたじゃないの。今だけそれができないなんて言わせないわよ」



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