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第39話 誓い


 肩から落ちないように毛布をとじ合わせている私の左手は、興奮と不安で鈍い痺れを感じていた。ジョセフの浅黒い頬を右手の親指でこすると、引き締まった彼の口元が苦悶で歪んだ。かすかに開いた唇のすき間から、食いしばった白い歯がのぞいた。暖炉の炎に照らされたジョセフの頬の熱は、私の手のひらから腕を伝っていき、私の肌の下まで染み入るように広がった。

「離婚と失恋を経験して、私は決めたの」
 ジョセフの横顔を見つめながら私は切り出した。「私以外の誰かと愛し合うための隠れ蓑に利用されるのも、薄汚いこそ泥にローズデール家の持参金をかすめ取られるのもまっぴら。だから、私はもう二度と結婚しないと誓ったのよ」
 ジョセフは静かに息を吐いた。
「知っている。知っているさ……」
 しょんぼりと長い睫毛を伏せた男。なんて愛らしいのかしら。
 失神しそうなほど緊張し、肝心な次の言葉を声に出せないほど不安なのに、私は激しい興奮とともにジョセフにうっとり見惚れずにいられなかった。がっしりした彼の顎を指先でつまむと、私とまっすぐ向き合うように彼の顔の向きを変えさせた。豊かな黒髪は乱れ、鮮やかな紺碧の瞳に影が差していた。不本意で認めがたいことを受け入れようと葛藤している男の表情だった。
 ガラス細工を扱うように、ジョセフがそっと私の手首をつかんだ。私の手を自分の頬から離し、毛布にくるまれた私の膝の上に置いた。それから、私の首から足首まですべてくるむように慎重に毛布を引っぱり、きつくとじ合わせた。
「この雨のせいでまるで冬のようだな。冷やしてはいけないよ」
 ジョセフは穏やかに微笑んだけれど、もはや感情を隠すことはなく、瞳に渇望の炎が灯った。私はようやく最後の決心がついた。
「ねぇ、ジョセフ。去年の冬、私があなたのお見舞いにうかがったことを覚えているかしら?」
「あぁ、覚えているよ」
 ジョセフは少し照れくさそうにうなずいた。「あのときは君にとんでもなく不甲斐ない姿を見せてしまった。感冒熱のせいで気が弱っていたとはいえ、できることなら君の頭の中からあのときの記憶を抜き取ってしまいたいよ」
「あなたがあんなに甘えん坊だとは知らなかったわ。まるで生まれたばかりの赤ん坊みたいだったもの」
「ずいぶん巨大な赤ん坊だ。面倒を見るのはさぞや手がかかっただろう?」
 私の不躾な揶揄に悠然と顔をほころばせるジョセフは、鷹揚でほがらかないつもの彼だった。それだけで、私は彼に抱きつきなるほど嬉しくて胸が高鳴った。
「それほどでもなかったわ」
 お高く留まって澄ました調子で答えた。「でも、あなたは何も知らない無邪気な赤ん坊じゃない。感情のままにわがままに生きられる子供でもない。悲しみや怒りや苦しみを知っている、優しい大人の男よ」
 ジョセフの顔から穏やかな微笑みが消えた。
「だから、あなたはいつも手のかかる人――例えば、私とか――の面倒ばかり見ている。どうしてあなたがこれほど優しく私をいたわってくれるのか、あのとき少しだけ分かった気がするの。だから、あのときの記憶を抜き取ることなんて許さないわよ。私にとっては、大切な宝物なんだから」
「勝手なことを言うな」
 ジョセフは暗い鬱屈をたぎらせた。くぐもった声には苛立ちがにじんでいた。「俺は…… 君が思っているような善良な人間じゃない」
「知ってるわ。あなたは商人だし殿方だもの。完璧な聖人とはいかないでしょうね」
「最初に君に近づいたのは、君に再会の挨拶をするためじゃない」
 せきを切ったようにジョセフは私に打ち明けた。「君なら都合がいい、君となら傷を舐め合えると思った。あの頃、北東部の森から社交界に戻ってきて、未婚の娘を押しつけられる日々にうんざりして気が狂いそうだった。どうしようもなくむしゃくしゃしていて、どうにかして鬱屈した気分を発散させたかった。だから、同じように結婚相手に煮え湯を飲まされた者同士、君と寝室で仲良く過ごしたい、君なら俺の誘惑を受け入れるだろう――そんな邪まな目的で君に声をかけた。無害で親切な、とびきりの善人の顔をして」
 彼の言葉を信じることができず、私は目をまるめて彼を凝視した。
「あの頃、俺は君に関する社交界の下らない噂を真に受けていた。だから、君は簡単に俺の誘いに乗るはずだと、そんなやましい思いを腹に抱えて君に近づいた」
「でも、あなたは私を寝室に誘わなかったし、庭で二人きりになったときもおかしなことをしなかったわ」
 惨めな失恋の夜、庭の片隅でジョセフが私に示してくれたいたわりと優しさを思い返しながら、私は懸命に彼に反論した。そんな私を、彼は困り果てたような、まぶしそうな顔で見返した。
「君があまりにお人好しなうえに、無防備に俺を信用しきっていたから、なかなか切り出す機会をつかめなくてね。それに、いざ手を出そうとしたら無粋な闖入者が割りこんできた。ただそれだけのことだ」
 ジョセフは口元をぐいっと歪めた。野性的でありながら端整なジョセフの顔立ちにとてもよく似合うはずの、好戦的で煽情的な微笑みだった。
「そう、それならそれで構わないわ」
 下手くそな芝居で悪しき放蕩者を気取るジョセフを、私は鼻で笑った。「そうだったとしても、そんなことはもうどうでもいいの」
 ジョセフはいぶかしげに私を見つめた。
「最初のきっかけや過去の感情がどうであれ、あなたは私を騙したり、嘘をついたりしなかった。不実なことも卑劣なことも何一つしなかった。あなたの周りの人たちが私を避けたり嘲笑ったりしても、あなた自身は私の善き友人でいてくれた。私の夢を認め、力強く背中を押してくれた。いつでも私の味方でいてくれた。このことが、私をどれほど慰め、励ましてくれたか分かる? 今、私がこうしていられるのは、ジョセフ、あなたのおかげよ。あなたがいてくれたからよ」
 大粒の雨が滝のように降り注ぎ、屋根や壁を打っていた。暖炉の中で赤々と燃える薪がぱちぱちと静かに爆ぜた。私は深く息を吸い、続けた。
「あなたは裏切られる悲しみを知っている。自尊心を傷つけられる痛みを知っている。やり場のない怒りとその苦しみを知っている。だから、最低の評判しかない出戻り女の私にも優しくしてくれた。私とたくさん話をし、友情を分かち合ってくれた。商人として真剣に私に向き合ってくれた。打算も駆け引きもせず、私をひとりの淑女として尊重してくれた。ひび割れたままつぎはぎだらけだった私の心の隙間を、真摯なぬくもりで埋めて満たしてくれた」
「リディア……」
 ジョセフはひどくうろたえた様子で頬を上気させ、全身を襲う激しい痛みに耐える騎士のように拳をきつく握り締めた。
「だから……」
 しゃっくりのように喉が震えた。呼吸を整えたくて、鼻をすすった。
「だから、今度は私があなたにそうしたい。あなたをいたわりたい。あなたがつらいときに励まして元気にしたい。あなたの心を温かく満たしたい。あなたの悲しみを分かち合い、喜びに換えたい。あなたを笑顔にしたい。私にできることがあるなら何でもする。どんなことでもするわ。だって、ジョセフ……」
 大きな手のひらが私の両頬を優しく包み込んだ。
 情熱と混乱と興奮。鮮やかな紺碧の瞳に魅入られて、私はうっとりと見つめ返すことしかできなくなった。ジョセフの指先が、私の濡れたまぶたをそっとぬぐってくれた。
 おずおずと彼の肘に手をかけると、ジョセフは今にも涙があふれそうなほど潤んだ目で私を見つめ、目尻をくしゃりと崩して深く微笑んでくれた。

「私はあなたを愛しているんだもの。ブラッドリー家唯一の独身の御曹司でも、結婚相手として最も望ましい相手でもなく、ただのジョセフ・ブラッドリーを」

 力強い腕が私をさらうように抱き寄せた。愛に飢えた男の口付けは荒々しく、私の全身に発火したような熱情が駆け巡った。おそるおそるジョセフの背中に腕を回すと、口付けはさらに激しく深まった。私の唇から口を離したとき、ジョセフの呼吸はひどく乱れていた。
「信じられないよ! あぁ、リディア! 俺の愛しい人!」
 私の顔中に口付けを落としながらジョセフはささやいた。
「俺はもう二度と結婚したくなかった。あんな無様な目に決して遭うまいと誓ったんだ。だからずっと君への想いを認めることができなかった。認めたくなかったんだ。君に再会したとき、とにかく眠るとき誰かに一緒にいてほしくて君に狙いをつけたが、すぐに自分が間違っていると気付いた。君は気安い欲望で慰み者にしていいひとではない。君をいたわり、誰に何と言われようと誠実な友人でいようと決めた。だが、君は友人にしておくにはあまりに魅惑的すぎた。臆せず率直に語り、商人になる夢を叶え、扇子をたたんだまま笑う君は美しかった。活き活きと輝き、まぶしかった。目が離せなかった」
 情熱的なジョセフの愛の言葉が私の羞恥心をくすぐった。彼の腕の中で距離を作ろうと試みたけれど、彼のたくましい腕は決してそれを許さなかった。
「あなたがそんなふうに思ってくれていたなんて、全然気がつかなかったわ……」
 私の鼻に口付けを落としてから、ジョセフは年長者ぶった苦笑を浮かべた。
「男の虚栄心というのは、君たち淑女が思っているよりずっとか弱く繊細なんだ。とくに君のように “二度と結婚しない” と公言する潔さは、男に拒絶の恐怖を与える。だが、俺はそのおかげで救われた。もし君がもっとお上品で、誰にでもにっこり微笑みかけるような淑女だったら、俺は君を勝ち獲るために毎晩誰かしらに決闘を挑まなければならなかっただろう」
 ジョセフの膝に抱き上げられ、私はありえない想像に喉を鳴らして笑った。彼の大きな手のひらが、慈しむように私の頭をなでた。
「君が俺と同じように “二度と結婚しない” なら、友人のままでもいい、ずっと君のそばにいよう。そう覚悟を決めたつもりだった。だが、あの冬の日、俺は戻れなくなった。君のぬくもりが俺の忌々しい過去を洗い流した。俺の心は君への想いで満たされ、あふれてしまった」
 ジョセフの表情には余裕のかけらもなかった。
「私もあの日、あなたを愛しているとわかったの」
 心に打ち寄せる喜びが涙となってこぼれそうなのをこらえながら、私はジョセフに言った。「私たち、同じ日に同じように恋に落ちたのね」
 ジョセフはこらえきれないと言わんばかりにうめき、私を抱く腕の力を強めた。
「俺は君への想いで溺れそうだ。君を愛さずにはいられない。君のせいで俺は冷静に物事を考えられなくなっている。君のことを思うと腹の中にしこりがあるように感じて、いつも胸が痛くなる。君が別の男としゃべったり、別の男に微笑みかけるのを見ると嫉妬で頭がおかしくなる。感冒熱などよりよほど性質の悪い熱病だ。おまけにこれは不治の病だ。一生治りそうにない」
 ジョセフが私の肩をそっと押し、互いの顔や表情がしっかり見えるようにした。男らしい色気が漂う微笑みはそのままに、ジョセフはあらたまった眼差しになった。

「リディア、ふたりで一緒に古い誓いを破り、新たな誓いを交わさないか?」
 うやうやしく私の左手をすくいあげると、ジョセフは薬指に口付けした。「ミス・リディア・ローズデール、どうか私と結婚してください」
 歓喜で胸が一杯になり、私は一言も声を発することができなかった。
「どのみち、君に選択の余地はない」
 ジョセフは自信満々に宣言した。「今朝がた、ブラッドリー家からローズデール家に正式な結婚申し込みを届けさせた。ちくしょう、ウェリントン、なにもかもお見通しで俺をからかうなんて、あの人でなしめ! あいつが君に興味を持たないよう、君のことを自慢したいのを懸命にこらえてきたのに。まさか君とあいつの妹が手紙をやりとりしていたなんて盲点だったよ」
「ウェリントン卿が私に興味を? まさか! あちらは大貴族で私は成り上がりの海運貿易商の娘よ? それに、閣下は奥様に夢中なんでしょう?」
「あぁ。だが、君を前にしたらどんな男も平静ではいられない。あのウェリントンだって、万が一ということもある」
 ジョセフの大げさすぎる想像にとうとう耐えられなくなって、私は毛布に顔をうずめて肩を震わせた。
「リディア、俺を笑ってはいけない。ほら、顔を出しなさい」
 ジョセフが優しく命令した。「昨晩は嫉妬に目がくらんで君にあんな馬鹿なことをしてしまったが、本当ならあのとき君に結婚を申し込んでいるはずだったんだ。月明かりの下、最高にロマンチックなプロポーズを考えていたのに…… まぁ、今回だけは君が俺の不手際を大目に見てくれると期待してもいいだろう?」
 わざと眉をひそめていた私に、ジョセフの紺碧の瞳が悪戯っぽく輝いた。

 ところが、愛する男の胸に飛び込もうとした瞬間、私の中の臆病虫がけたたましい羽音を立てて飛び出してきた。
「あなたのご両親やご家族のみなさまは納得しているの? 独身といっても、私はただの嫁ぎ遅れや未亡人じゃないのよ。一週間で夫に逃げられた出戻り女で、商売もしているし、淑女としての評判は惨憺たるものだわ」
 友人や商人としての評価と、妻や淑女としての評価が一致した例はない。自分で決めて選んだことながら、やはり引け目を感じてしまう。
 すると、ジョセフは居ても立ってもいられない様子で私を抱え上げた。もう一度私を椅子に座らせ、床に片膝をつき、野性的な顔をすっと引き締めた。私の右手をとると、貴重な財宝に触れるように優しく包み込んだ。彼の真摯でひたむきな眼差しが、不安に波立った私の心を穏やかに鎮め、温めてくれた。
「ブラッドリー家からローズデール家に正式な結婚申し込みを届けさせた、と言っただろう? ブラッドリー家は君を待ちわびている。どんなに再婚を勧めても頑なに拒み続けてきた俺が、是が非でも妻にと望んだ淑女だからね。母や兄たちもちろん、父だって納得済みさ。だから君は何も不安に思うことなどないんだよ。安心してくれ」
「そんな簡単に言わないでちょうだい。フェアバンクス家はどうするの? あそこを敵に回したら、あなたの商売に影響が出かねないわ」
 積年の軽視と冷笑は、思いのほか私を臆病にしていたようだ。
「フェアバンクス家に関してはこの週末にもケリがつく。だから問題ない」
 どうしてジョセフっていつもこんなに余裕しゃくしゃくなのかしら。フェアバンクス家の恨みを買うことになりかねないのに。
「リディア、いいかい? たとえ君が社交界でどんな評判であろうと、家族から君との結婚を反対され、フェアバンクス家を敵に回すことになっていたとしても、俺に必要なのは君だ」
 まくしたてるような声に、もどかしさとわずかな焦りがにじんでいた。「社交界で評判のいつでも同じ笑顔のお嬢さんでも、蝋人形のように夫に従順な淑女でもない。君だ。俺が欲しいのは君だけだ。君は君のままでいい。君は君だからこそ美しい。君は君だからこそ価値がある。君が君だからこそ、俺は君を愛しているんだ」
「ジョセフ……」
 私の声は驚きと喜び震え、今にも消え入りそうだった。
 信じられない。ジョセフが自分の前にひざまずいて結婚を申し込んでいる! これまでこっそり読んだ恋物語や、女友達に連れて行かれた恋愛劇をすべて振り返っても、これほど素敵でロマンチックな場面は見たことがない。
「俺のかわいいリディア、お願いだ。どうか俺の不安を取り除いてくれ。簡単なことだよ。そのためには今すぐ、ただ一言、“はい” という言葉が必要なんだ」
 ジョセフが不安になる?
 私の手を握る節くれだった長い指はかすかに震えていたし、彼の口元はこれまでにないほど緊張が漂っていた。鉄鋼財閥の御曹司らしい自信満々の余裕は消え、私が愛してやまない、優しくいたわり深い男がそこにいた。

「はい」
 涙をこらえてジョセフを見つめながら、私は微笑んだ。「私は誓ったのよ。あなた以外の誰かとは、“二度と結婚しない” って」
 ゆっくりとジョセフの不安は消えていった。緊張が解け、まるで母親に甘える幼子のように私の膝に額を押しつけた。リディア、リディア、と私の名前をつぶやきながら。
 このとき、私は知った。森を支配する狼のように並はずれた、情熱を隠し持った男を私は勝ち取った。ジョセフの心は私のものだ。私は彼の信頼を決して裏切らない。輝く新たな道が開けた高揚感と温かな愛情が胸にあふれてきた。
 私は再び椅子から床に降り、ジョセフの頭を両手で抱きかかえた。毛布が肩から滑り落ちてしまったけれど、構わなかった。
 屋根を叩く雨のような大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちた。ジョセフは指先でそっとその涙をぬぐい、唇に口付けをしてから、私の顔をのぞきこんだ。私だけを見つめる紺碧の瞳が、燃えるような情熱と欲望で輝いていた。



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