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第40話 輝く航路


 結い上げた髪がほどかれ、滑るように背中に落ちて広がっても、私は抗わなかった。

 やわらかな絹糸の束を愛でるように、ジョセフは私の髪をひとふさ手にとり、手のひらの中でそっとなでた。暖かな暖炉の炎に照らされた男の顔に、微笑みはなかった。飢えた狼のように研ぎ澄まされた男の熱情が、鋭い牙となって私の肌を刺した。
 暖炉のおかげで、部屋の空気はだいぶ暖かくなっていた。それなのに、剥き出しになった私の胸の先端は、寒い冬の朝のように、つままれてひっぱられるようなかすかな痛みを感じた。のろまな羞恥が到着し、私は慌てて胸の前で両腕を交差させた。
 浅黒い節くれだった手が、私の手首をつかんだ。
 小鳥の羽根をよけるように容易く、ジョセフは胸を隠していた私の両腕を引きはがした。体当たりでぶつかるように抱き寄せられた。硬く隆起した男の胸板に押しつけられ、私の胸はやわらかなミルクパンの生地のように形を変えた。
「逃げないのか?」
 首筋を愛撫する唇から、耐えかねたように溜め息が漏れた。
 私はなんと答えたらいいのかわからず、とっさに彼の肩に頬を寄せ、おそるおそる彼の背中をさすった。ジョセフはくぐもった声でうなった。
「こんなことをされているのに、抵抗もしないのか? リディア」
 自分の振る舞いに居直った男のずるい尋問。裸の胸をこすりあわせていようと、誠実でありたいと願う優しい男のなけなしの良心。
 それなりに強固だと自負していた私の倫理観や貞操観念は、いったいどこへ行ってしまったの? ジョセフがかわいくて愛しくてたまらず、私は筋肉に覆われた彼の背中に腕を回して抱きついた。
 暖炉で燃える薪が爆ぜるよりも大きく、真っ暗な空に響く雷鳴よりも激しく、私の野蛮な情熱が弾けた。

「……するべきだと、分かっているわ」
 震える声はか細く、それでいて隠しようのない期待にうわずっていた。「でも、でもね、ジョセフ…… 私、どうしたらいいのかしら。あなたに触れられると、どうしようもなく――あぁ、神様! どうか憐れな私をお許しください――嬉しくてたまらないの。どうしたらいいの? 自分がこんなにふしだらな女だったなんて……」
 腰に回されたジョセフの腕に力がこもった。
「愛しい人、そんなに怖がらないで。君はふしだらな女などではない。君は素直で豊かな感情を持つ素晴らしい淑女だよ」
 経験などほとんどない私でも、こうしてジョセフの膝の上に抱かれていると、布越しに彼の硬いふくらみがはっきりと感じられた。じんわりと頬が熱くなった。その頬を大きな手のひらが包み込んで上を向かせ、視線を絡みつかせた。
 暖炉の炎しかないほの暗い狩猟小屋でも、ジョセフの瞳ははっとするほど鮮やかで、羽音がしそうなほど密集した睫毛に縁取られていた。私の心臓はさらにどきどき高鳴り、寒くもないのに肌がぞくぞく粟立ったた。引き寄せられるままに目を閉じると、唇と唇がそっと重なった。炎が大きくなり過ぎないように暖炉に小枝しかくべないように、ジョセフと私は触れ合うだけのささやかな口付けを続けた。もどかしく、飢えを煽られるようでたまらなかった。降伏を訴えるように、ジョセフが低くうめいた。
「あぁ、ちくしょう! こんなはずではなかったのに…… 俺は自分を過信していたようだ。君のためならどんな欲望にも打ち勝てる、君に完璧な結婚を用意してやれると思っていたのに」
 真摯な愛と抗いがたい欲望の間で悶えるジョセフは――私がこんなふうに思っていたなんて、絶対に秘密よ!――胸を焼き焦がすほど愛らしく魅惑的だった。突き上げるような激しい熱を抑えるのに懸命で、私は彼をなだめる言葉を発することさえできなかった。
 燃え上がる灼熱の炎に包まれて身動きが取れないように、私たちはぴったりと身を寄せ合い、ただ互いの呼吸と体温のみを感じていた。

「リディア……」
 ジョセフがそうささやくと、情熱の火の粉が私の肌に降り注いだ。
「君と愛し合いたい。身も心もすべて、君と」

 彼の手が二の腕や背中をなでさするたび、私の肌が一枚、また一枚と薄くなり敏感になっていくようだった。
「君のすべてを俺で満たしたい…… 君のすべてで俺を満たしてほしい。君の魂に俺の名前を刻みたい…… 俺の魂に君の名前を刻んでほしい。君と歓びを分かち合いたい。俺は君と愛し合いたいんだ。これまで誰ともしたことがないからうまくやれるか分からない。それでも俺は君が欲しい。君のすべてが欲しい」
 欲望、罪悪感、後ろめたさ、不安、期待、情熱、愛しさ。濡れた紺碧の瞳はあまりにも雄弁だった。愛する男が全身全霊で無心に私を求めている。
 拒絶することなんて、できるはずがない。
 私は静かにうなずいた。
 すると、ジョセフはなぜか苦笑いを浮かべてこめかみに口付けした。
「君は “身も心も” が意味することを理解しているのか?」
 再び、私はうなずいた。
「本来なら結婚式の晩まで待つべきことだ」
 三度、私はうなずいた。はっと何かに気付いたように、ジョセフは少し焦った様子で私に言った。
「リディア、どうか誤解しないでくれ。君が一度結婚したことがあるからといって、俺は君を軽んじてなどいない。君が今、俺の要求を拒んでも俺の気持ちは変わらない。君は俺にとって、南十字航路の財宝以上に価値ある人だ。愛しい人、君は俺にとって最も大切で尊重すべき人なんだよ」
「ありがとう、ジョセフ」
 愛する人からこんなふうに扱われたことがなかったので、私は思わず涙ぐんだ。
「私はあなたの心変わりを恐れているのでも、あなたに遠慮しているわけでもないわ。あなたが私を求めてくれるのと同じように、私もあなたを求めているだけよ。ただ、私……」
 感情が高ぶるあまり、私は言葉をつかえさせながら答えるのが精一杯だった。「結婚したことがあるとはいえ、初夜の一度きりなの。だから、あなたを満足させることができるか自信がないわ」
 喜びと不快感が同居したような奇妙な笑みを放つと、ジョセフは私の唇に優しく情熱が鬱積した口付けを落とした。両腕で私をきつく抱き締め、わずかな隙間さえ許さないように肩や胸や腰を密着させた。
 自分でも怖くなるほど、私は死に物狂いでジョセフを求めた。彼の温かくやわらかい唇を捕えようと、夢中で彼の首にしがみついた。すると、彼は無邪気な少年のように微笑んでささやいた。
「それは俺に任せてくれ」
 屈強な猟師が弱った小鹿を抱えるように、ジョセフは軽々と私を抱き上げた。一糸まとわぬ姿のまま、私は広々としたやわらかいベッドに下ろされた。ジョセフがベッドの脇に立ち、腰に巻いていたベッドカバーを乱暴にむしりとる姿から目を離せなかった。
 古代文明の戦士の彫刻のように引き締まった、美しい男の裸体。
 彼の重みでベッドがたわんだ。自分よりひとまわりも大きい、情欲に燃える肉体が私の横に寄り添った。身体の向きを変えてジョセフに向き合うと、私は手を伸ばして彼のたくましい肩に触れた。それが合図となり、彼が私を抱き寄せた。
 下腹部に押しつけられたジョセフの硬く肥大した熱が、彼の情熱の高ぶりを私に教えた。生々しい男の欲望。怖いと思ってもいいはずなのに、全然怖くなかった。

「怖くないのか?」
 私の気持ちを見透かすように、ジョセフが不思議そうに問いかけた。
「少し緊張しているけど、怖くはないわ」
 私は正直に答えた。
 ジョセフはまぶしそうに微笑むと、私の顔中に優しく唇を這わせた。
「愛する人、もう君にやめてくれと懇願されても、俺は受け入れることは――」
 私は唇でジョセフを制した。
 しかし次の瞬間、私はあっけなく彼の逆襲にあえぐはめになった。
 飢えた狼のように獰猛で激しく、それでいて包み込むように優しい口付けだった。せっかちで強引で、それでいて心に迫る口付けが、緊張と不安でこわばっていた私の身体をほぐしていった。嵐のような抱擁と硬い筋肉に覆われた男の身体の重み、全身からほとばしる熱に溺れた。私の肌をなでる優しい指先と、探究心旺盛な唇が愛おしかった。
「リディア、君のすべてを味わいたい――すみからすみまで」
 燃えるようなひとときだった。言葉を話すことは不可能だった。必要さえなかった。
 黒髪の頭が、私の胸に覆いかぶさった。赤ん坊のように無心に吸いつく唇。優しく吸われ、熱く湿った舌で先端を転がされるとまともに息もできなくなった。
 ジョセフの唇がお腹のあたりまで降りていき、へそを通り過ぎた。最初は何が始まるのか分からなかった。気付いたら、彼がとんでもない場所に顔を埋めていた。本当に私を “すみからすみまで” 味わうつもりなのね。太もものつなぎ目にみだらな口付けをされ、私はめまいと酸欠で頭がくらくらした。下唇を噛んで、懸命に嗚咽をおさえた。でも、ジョセフに両脚を大きく広げられ、彼が再び屈みこむと、私はとうとうあられもない声を上げてしまった。
 濃密な空気が、私たちからますます言葉を奪っていた。
 やむ気配のない激しい雨。遠くに聞こえる雷鳴。衣ずれ。湿った呼吸。肉体からあふれでる水音――ジョセフの舌が私の敏感な場所をつつき、吸いつき、おしつぶし、なぶるたび、その音は大きくなった。
 欲望の海に放たれた稚魚のように、私の身体がシーツの波間で大きく跳ねた。震える両手でジョセフの頭をつかみ、押しのけようとした。でも、もしかしたら引き寄せようとしたのかもしれない。分からなかった。濃い悦楽の霧が私の頭の奥まで広がり、まともな考え事ができないほど意識がもうろうとしていたんだもの。ただ、私の赤毛の小さな三角形に貪欲で執拗な口付けを続けながら、ジョセフがうっとり目元をほころばせているように見えた気がした。

 やがて、それが来た。
 高波のように押し寄せ、私をさらい、突き上げ、弾けた。私は身をよじって空気を求めた。激しい鼓動に合わせて襲いかかってくる強烈な感覚の波を、私は震えながら受け止めた。
 だから、ほとんど気付かなかった。
 ジョセフがいつの間にか身体を起こし、覆いかぶさるように私を真上から見つめていた。頬骨のあたりが上気し、紺碧の目はいつもより鮮やかで、目が覚めるほど美しかった。舌舐めずりする飢えた狼の眼差し。愛と熱情に浮かされた男の濡れた瞳。
 彼は大きく開かれた私の両脚の間に身体を入れた。
 優しくついばむように口付けを落としてから、ジョセフがかすれた声でささやいた。
「君を俺のものにする。そして君は、俺を君のものにするんだ」
 彼は私の手をつかんでそっと引き寄せた。「俺に触れてくれ……愛しい人」
 硬く肥大したものを指で包み込むように握ると、ジョセフは食いしばった歯の間から悩ましげな吐息を漏らした。私はおずおずと手を上下させた。呼吸が速くなるのを聞いて、これが彼を喜ばせているのだとわかった。嬉しさと愛しさがこみ上げてきた。なにかをこらえるように、ジョセフはきつく目を閉じていた。黒い睫毛はかすかに震え、鋭い息づかいのために唇は開かれていた。

「……君の中に入りたい……俺を導いてくれ、リディア」
 ジョセフのふしだらな懇願に、私はためらいもなく素直に従った。歓びさえ感じていた。ぎこちない手つきで焼けるように熱い彼を握り、自分の脚の付け根に導いた。熟して果汁をたらす果肉のような入口に先端が埋まるやいなや、ジョセフは私の中に一気に踏み入った。激しく焼けつくような痛みに、私は全身をこわばらせた。初夜の痛みなど、痛みのうちに入らないと思えるほど苦しかった。
 両腕で私を抱えるように抱き締めながら、ジョセフが力強く私を突き上げた。私の奥まで、すみからすみまで、すべてジョセフが満たしていた。痛みがあるのに、私は彼にもっと深くまで来てほしくて、もっと強く引き寄せた。
 私たちは野蛮なほどの貪欲さで互いの唇を貪った。ジョセフの温かく滑らかな舌を、私は不器用なやりかたで吸った。すると彼は低く呻き、それから嬉しそうに激しく動き始めた。ジョセフが私の中からしりぞき、また踏み入ってくる。そのたびに違和感は別のものに変わっていった。
 これか快楽なのかしら…… 男の前後の揺さぶりに身をゆだね、身悶えながら思った。
 そして、またあれがやって来た。
 さきほどよりはるかに高い波が私を呑み込み、突き上げ、解き放った。世界が真っ白に弾けた。私は震えながらジョセフにしがみつき、ほてり濡れそぼった身体をこすりつけ、こらえきれず悲鳴を上げた。
「リディア……!」
 ジョセフが私の名前をうめき、私の一番奥まで踏み入って動きを止めた。
 彼の腕の中で悦楽の海の底に沈みながら、私は甘美な口付けと自分の中を満たすジョセフの熱に溺れた。

「君は美しい女海賊だ」
 ジョセフはきらりと白い歯を見せて笑った。
「あら、嬉しいわ。身持ちの悪い舞台女優、男をたらしこむ娼婦、恥知らずな女商人に加えて、私を例える通り名がまたひとつ増えたのね」
 情熱を燃やしつくした後のまどろみの中、彼の胸に抱かれながら皮肉たっぷりの応酬をするのは非常に困難なことだった。
「的外れな通り名しか持っていないんだな、君は」
 裸の脚を私の脚に絡ませると、ジョセフは優しい微笑みで私を見つめた。
「君は古臭い因習や常識を飛び越え、自ら海賊船を率い、輝く航路の冒険が似合う女性だ。闇夜を照らす星を名前に持つ『南十字航路物語』のステラのように。君は俺から過去の怒りと不信という負の遺産を奪い去り、心から誰かを愛する喜びと君自身という財宝を与えてくれた」
「私はただの出戻り女よ」
 嬉しさと照れくささのあまり、私はかわいげのない口答えをしてしまった。「でも、あなたのように物好きな殿方と巡り会えたのだから、運に恵まれていることは確かね」
 満足げな微笑みとともに、ジョセフが再び私の上に覆いかぶさった。
「それなら俺はただのやもめ男だな。しかも、君の愛を手に入れた世界一幸せなやもめ男だ。やはり俺も運に恵まれているようだ」
 ジョセフが窓の外を見やった。私も視線を追うと、いつの間にか雨はやみ、雲間から日の光が射し込み青空がのぞいていた。ジョセフは、かなり残念そうな表情になって言った。
「君ともう一度愛し合いたいところだが、どうやら雨がやんでしまったようだ」
「まぁ、よかった。急いで服を着て戻りましょう」
「あぁ、そうしよう。君は俺と二人きりでいるより、キャボット夫人たちと団らんすることをお望みのようだからな」
 私の反応がお気に召さなかったのか、ジョセフは拗ねたように私をなじった。
「私、早く戻りたいわ―― 街に」
 ジョセフの腕にしなだれかかり、挑発するように唇をハートの形に突き出した。「だって、そうしたらあなたの部屋であなたと心ゆくまで愛し合えるでしょう?」
 真っ赤になった頬を誤魔化すために、苦し紛れにジョセフの頬に唇を押しつけた。
「そうだな。そうしよう。それがいい。急いで戻ろう」
 ジョセフのような野性的な男前が頬をかすかに赤らめている姿って、なんて愛らしいのかしら。
「リディア、なにをにやにやしているんだ? 俺をからかって楽しんでいるのか?」
「あら、そんなことないわよ」
 私は慌てて笑みを引っ込めたけれど、少しばかり遅すぎたようだ。
 いぶかしげに私を見据えていたジョセフは、獲物を見つけた狼のように、えもいわれぬ男臭い色気をたたえた微笑みを輝かせた。
「そうだ、リディア。君は今日、俺の馬車で俺と一緒に街に戻るんだ。母上とキャボット夫人が何と言おうと、君には俺を誘惑した責任を取ってもらうぞ」

 ジョセフの紺碧の瞳が私をまっすぐのぞきこんだ。
 夢でも幻覚でもなく、私の世界が輝いていた。
 ジョセフと私を乗せた美しい帆船は南向きの貿易風を受け、虹のアーチをくぐり、どこまでも青く広がる航路に出発した。雲ひとつない空はどこまでも高く澄み渡っている。燦々と輝く太陽の下で航海を続けていれば日に焼けてしまうだろうけど、そばかすを数え、その数だけジョセフと口付けを交わすから構わない。巨大な嵐や恐ろしい魔物が襲いかかってきても、二人一緒ならきっと航路の旅を続けていける。
 そして、ジョセフと私は私たちだけの宝島を見つけるの。『南十字航路物語』の海賊商船の船長ジョッキー・ダンと女商人ステラのようにね。

「ねぇ、ジョセフ。お願いがあるの」
 木々と土のかぐわしい香りを含んだ雨上がりの重いそよ風が、手をつなぐ私たちの背中を優しく押した。雨粒が陽射しを受けて透明な真珠のように輝く草地を歩きながら、私はジョセフに言った。
「なんだい?」
「いつか、私をあなたの森につれていって」
 ジョセフは立ち止り、森の真ん中で力の限り私を抱き締めた。
「もちろんだよ! そうだ、君の仕事の都合さえつくなら来週にでも一緒に森の視察に行こう」
「まぁ、来週? あなたって本当にせっかちね」
 私は喜びの笑みを噛み殺して彼を揶揄した。
「君との旅に俺がどれほど心躍らせるかわからないのか?」
 私が弁解するより早く、ジョセフが熱っぽい口付けで私を唇を塞いだ。唇が触れ合ったまま、私たちは微笑み合った。

「わかるわ」
 私はジョセフにささやいた。
「だから、ねぇ、私の愛しい人、もっとたくさんキスしましょう」



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