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【番外編】第1話 お針子


「今度の注文でとんでもなく忙しくなったわね」
 私の隣で小柄なお針子がこっそり溜め息をついた。「この南部産の絹、手のひらをするする滑って扱いづらいったらありゃしない。そのうえ仕上げは上から下まで全部手織りレースなんて気が狂いそう! 指がちぎれちゃうわ」
「あんたの指は白ソーセージみたいに太くてまんまるだからちぎれやしないよ」
 もうひとりの背が高いお針子がからかうように言い返した。「でも、この厄介な注文で私らがいい仕事をすれば、さすがのギャビーもご褒美くらいはくれるはずさ」
「そうよね!」
 小柄なお針子はどんぐりまなこを期待できらめかせた。
「高望みはほどほどにしときなさい」
 私は乳白色の絹をかがり縫いしながら言った。「ギャビーが私たちにご褒美? 去年の感謝祭も春の復活祭も、私たちに一日も休日をくれず縫い仕事をさせたギャビーが? 私たちに羽毛入りの枕や絹のスカーフを一枚でもくれたり、テーブルに鴨肉のご馳走が出たりすると思う?」
「そりゃあ、最後の晩餐だ!」
 背高のっぽのお針子は、キツネのように切れ長の青い目を細めて笑った。「ギャビーからのご褒美! 秋までに亭主を見つけてここから逃げ出す方がよっぽど簡単だね」

 その秋が来るよりも早く、夏が終わる前に、私たちは必ず仕上げなければならない注文があった。

 その注文が飛び込んできたのは、七月半ばに差し掛かったつい先日のことだった。

「マダムがお見えだよ!」
 作業場の入口で誰かが声を上げた。
 それまで窓の下を通り過ぎる紳士や騎馬警官をちらちら盗み見したり、恋人の自慢話をしたり、暑さにに不平不満を漏らしたりしていた声がぴたりとやんだ。みんなおしゃべりをやめ、一心不乱に針仕事に勤しむ実直なお針子を懸命に演じ始めた。
 マダム、すなわち私たちの雇い主のガブリエル――本人がいない場所では、みんな “ギャビー” と呼んでいる――は、孤児の踊り子からこの地域でも指折りのドレス職人に身を立てた類まれな女だ。
 でも、彼女は邪悪な魔女だ。
 女王蜂のように私たちをこき使い、朝も夜もなくひたすら働き蜂のようにドレスを縫わせる。その美しいドレスと引き換えに上流階級の淑女たちの欲望を満たし、コルセットの紐のように彼女たちの心を縛りつけて忠誠を誓わせているのだから。
 それでも認めないわけにはいかない。ギャビーが描き出し、一流の裁断職人が型紙をおこし、私たちお針子が縫いあげたドレスはどれも溜め息がでるほど美しい。ずっと眺めていたい。幸福感と満足感で思わず笑みがこぼれてしまう。
 でも、そんなことはギャビーが許さない。
 彼女はとんでもなく厳格で目敏い。そのうえ悪魔のように冷酷で気難しい。彼女の目の前で、お針子はつねに縫い仕事をしていないと呪いをかけられて殺されてしまう。彼女の氷の槍のような冷たい言葉にかかれば、私たちのような根なし草の小娘は、心ごと八つ裂きにされて粉々になってしまう。
 ギャビーは艶やかな黒髪を結いあげ、黒鳥のように頭をそびやかし、完璧に洗練されたドレスの裾で床に落ちている端切れや糸くずを掃くように歩いてきた。吊りあがった眉をぴくりとも動かさず、唇を引き結び、牢獄の見張り番のように作業場を見渡した。
 彼女は私たちを大きな作業台に集め、ドレスの図案を広げるとこう言った。

「これは特別なお客さまからの特別な注文よ」

 私はギャビーが大嫌い。彼女は冷酷で意地悪で邪悪な強欲の魔女だもの。
 でも、彼女のこの目は好きだ。私の母親ほどの年齢であるはずなのに、野望と興奮が燃えさかる瞳は、私と同じ十六歳の女の子のように活き活きと輝いている。

 その “特別なお客さまからの特別な注文” は、とんでもない代物だった。
 その注文は、とある名高い海運貿易商のご令嬢のウェディング・ドレスだった。
 真珠色に輝く南部産の最高級の絹で胴着とスカートをあつらえる。鯨ひげや針金の輪を重ねてスカートを膨らませる釣鐘型の骨組み(クリノリン)はごくごく控えめ。大金持ちのご令嬢のウェディング・ドレスにしてはひどく古典的で簡素な造りだ。でも、それゆえ生地の質とお針子の腕を要する、極限まで装飾をそぎ落とし、洗練を極めた贅沢な意匠。

 私の中で流れ星がきらめいた。これは、今までのドレスとはわけが違う。
 ギャビーの ――そして私たちお針子の―― 最高傑作になる。
 私は確信した。心躍った。

「これを二週間で仕上げてちょうだい」
 ギャビーという名の悪魔が、この命令を下すまでは。
「いいわね、必ず二週間でこのドレスを縫い上げるのよ。そして八月最初の月曜日に、このドレスをローズデール家にお届けするの」

 上流階級の淑女が着るウェディング・ドレスのような盛装の仕立ては、手間ひまと時間がかかるものだ。ふつうなら注文から半年、三ヶ月だと大急ぎ、一ヶ月だと無理難題をふっかけられた、と私たちお針子は感じる。
 それをたったの二週間で仕上げろですって?
 朝も夜も寝る間もなく縫い続けたって、できるかわかりゃしない。流れ星をつかむのと同じくらい無茶な注文だ。私たちお針子は驚きと怒りと不平不満を胸に押し込め、こうしてローズデール家の注文を請け負うハメになった。
「まったく、ローズデール家の娘は噂どおりとんでもないご令嬢だよ」
 スカートの裾を縫いながら、お針子のひとりが忌々しげに舌打ちをした。
「噂?」
 田舎から出稼ぎに来て日も浅い、年若いお針子が問いかけた。
「あんた知らないの?」
 別のお針子が話に割って入った。「せっかくヴァンダーグラフ家の跡取り息子を捕まえたのに、一週間でその夫に逃げられた出戻り女。そのうえ、未亡人でもないのに商売に手を出したとんでもないじゃじゃ馬だよ」
「おまけに上流階級の男たちを片っ端からたらしこんでるアバズレさ。うまいことやってブラッドリー家のやもめの三男坊と再婚にこぎつけたけど、どんな手練手管を使ったことやら」
「ホフマン家の跡取り息子とも数年前から深い関係にあったらしいよ。ほかにも海軍将校や外国の貿易商、妻子持ちの貴公子を手玉にとって社交界を渡り歩いてるっていうじゃないか」
「えっ! 本当に?」
 刺激的な噂話に、年若いお針子は頬を赤らめた。
 これに気を良くした年配のお針子たちは、ますます得意げに吟遊詩人きどりで噂話をしゃべりつづけた。
「あのエメラルドグリーンの目に見つめられたらどんな男もいちころさ。ここら一帯の高級娼婦だって、あれほど強烈な眼差しはできないよ。あれは生まれつきの男ったらしの目だね」
「ブラッドリー家の三男との再婚だって、婚約寸前の相手から横取りした略奪モンって噂さ。だいたい、たった二週間でウェディング・ドレスを仕上げろなんて訳ありに決まっているよ」
 年配のお針子二人は顔を見合わせて笑みをかみころした。
「まぁ、知らなかったわ! でも、“ステラ・ド・ロレアン” のハーブ石鹸やハーブ水って本当にすばらしいんですってね。頬の赤みやニキビが一晩で消えちゃうんですって」
 年若いお針子は無邪気な驚きと羨望で瞳を輝かせた。「ミス・ローズデール、一度だけうちのサロンに来たところを見かけたことがあるわ。あんな美人を見たのは初めてよ! あの髪、あの目、あの体つき、まるで舞台女優ね。全然、名家のご令嬢って感じがしないからびっくりしちゃった」

 今回のドレスの依頼主である海運貿易商ローズデール家の令嬢リディアは、ここ自由貿易同盟ではちょっとした有名人だ。良くも悪くも。
 初めて彼女を見たときのことは、今でもまぶたの裏に鮮やかに焼き付いている。
 あれは去年の秋頃、ギャビーの召使いの少年と一緒にノヴェッラ通りにおつかいに出たときだった。“ステラ・ド・ロレアン” の前を通りかかったとき、優雅な一台の馬車から御者の手を借りて彼女が降りてきた。彼女が灰色の石畳の路地に降り立った瞬間、一面に真っ赤なバラが咲き誇るように空気が華やいだ。
 顔をすっぽり隠せるくらいつばが広い黒地の羽根付き帽子に、水色と白の縦縞模様が目に鮮やかな絹のリボン。やわらかいミルク色のスカートは腰からお尻の部分を腰当て(バッスル)でたっぷりふくらませ、その上に合わせたのは真鍮色の糸で縁取りをしたヒヤシンス色の胴着。
 滅多なことでは上流階級の顧客さえ褒めないギャビーが “理解ある方” と称賛する淑女らしい、豪奢で洗練されたたたずまいは圧巻だった。
 ミス・ローズデールは背が高く豊満で、みずから船の舵をきり冒険の旅に繰り出す女海賊に見えた。ギャビーの顧客のひとりである名門フェアバンクス家の令嬢シャーロットのような、誰もが憧れるおとぎ話のお姫様のような美貌の持ち主ではない。でも、鮮やかな赤毛と自信に満ちあふれた独特の色気たっぷりの表情は、いかにも掟破りの女商人にふさわしいものだった。
 そんな彼女の小粋で洗練された姿がとんでもなく素敵だったから、私はうっとり見惚れるあまり馬車にぶつかってしまったのだ。

「朝だよ。ダフィー、起きな」
 肩を揺すられ、目が覚めた。カーテンが勢いよく開かれ、気が早い夏の夜明けの光が窓から射し込んできた。小鳥のさえずり、馬車が石畳の上を走り去る音、窓の下からかすかに聞こえる通行人の声や足音が、私たちお針子に朝の到着はもうすぐだと告げていた。
 顔を上げると、枕代わりにしていた腕がしびれてうまく動かせなかった。何度か瞬きを繰り返すと、まぶたをこすりながら眠そうに起き上がるお針子たちが目に入った。
 どうやら私は、ゆうべ、最後の仕上げを終えると同時に、ほかのお針子たちと一緒に作業台に突っ伏して眠ってしまったようだ。
「ダフィー、おはよう。私、いつ寝ちゃったのか全然覚えてないわ」
 仲のいい小柄なお針子は、肩をほぐすようにぐるぐる回し、大きなあくびをしながら私に言った。「この三日間、ろくに寝ずに縫い続けて首や肩が石みたい。今日は針一本だって動かしたくない…… まぁ……」
 彼女だけじゃなく、作業場中のお針子たちが南の窓のほうに目を奪われた。

 東南の窓から朝日が射し込み、糸屑や布切れが散乱した作業場は、澄んだ夏の光に満ちていた。
 作業場の中心にある胸 像(トルソー)にかけられたウェディング・ドレス。
 約束どおり、私たちがたった二週間で縫い上げたドレス。
 夜明け前の闇の中、ありったけの蝋燭に灯りをともし、鉄門のように重い瞼をこじ開け、私たちはひたすら縫い針を繰り続けた。そうしてたしかに一度、完成した姿を見たはずなのに、目の前の光景が信じがたかった。自分たちの手から作り出されたものとは思えないほど見事なドレスが、私たちの目の前で夜明けの光を浴びてきらきらとまぶしかった。私たちは陶然と立ち尽くすしかなかった。
 それはまるで、天上から舞い降りた天使からの贈り物のように、夏の朝日を浴びて真珠色に輝いていた。

「すごい…… こんな美しいドレス、見たことない……」
 誰かがつぶやくと、頭巾にくるまれた頭が次々と頷き、賛同のささやきがさざ波のように作業場に広がっていった。
「最高のドレス…… 私たちの最高傑作よ」
 まわりのお針子たちと同じように必死に涙をこらえながら、私はつぶやいた。

 私たちは指先までぼろぼろだった。疲労と睡眠不足のせいで頭痛とめまいに襲われ、肩や背中は鎧を背負っているみたいに重く、朝から晩まで針を繰りつづけた指はしびれ、ずっと座り続けていた脚は丸太のようにぱんぱんにむくんで歩くのもやっとだ。
 そんな私たちを支えていたのは、紛れもなく私たちが縫い上げたこのドレスだった。
 約束を守れた安堵。ギャビーの期待に応えられた満足。これほどの大仕事をやり遂げた達成感と自信。なによりも、自分たちの手でこれほど美しいものを作り上げた歓喜。
 決してこの目で見ることは叶わないけれど、ミス・ローズデールはこのウェディング・ドレスを喜んでくれるだろうか。どうか喜んでもらえますように。彼女がこのウェディング・ドレスを身にまとい、愛する人とともに幸せの航路へ旅立てるなら、過酷を極めたこの二週間の苦労も報われるというものだ。

 選り好みが激しく妥協を許さないミス・ローズデールだけど、きっと認めてくれるはずよ。それに、彼女はギャビーと違ってすこぶる気前がいい。あの低くかすれた色っぽい声でこう言ってくれるに違いない。
「これはあなたたち(・ ・ ・ ・ ・ )の最高傑作ね」って!

 ギャビーはウェディング・ドレスの出来を確認すると、私たちに労いの言葉ひとつかけず、大急ぎでローズデール家に運ぶ準備を指示し始めた。
 でも、私は見逃さなかった。彼女が驚きと満足でもって、つり上がった黒い眉をかすかに跳ねあげたことを。
 そうは言っても、当然のことながら私たちお針子の期待は大はずれ。羽毛入りの枕や絹のスカーフはもちろん、鴨肉が食事に出されることもなかった。
 私たちはがっくりだったけど、この日ばかりはさすがの魔女ギャビーも人間の情というものを思い出したらしい。なんと、お針子全員にまる一日休暇をくれたの! 街中が仕事を休んで浮かれていた春の復活祭の間でさえ、ずっと私たちお針子に縫い仕事をさせ続けたあのギャビーが!

「だから今日はこんなにご機嫌なのか」
 というわけで、いつも愛想が悪い、愛嬌がないとお針子仲間からも苦言をちょうだいする私だけれど、この日は傍目にもすこぶる上機嫌だったようだ。
「きっとあなたのおうちのお嬢様は喜んでくださるはずよ」
 ギャビーから “外でお客様の名前を決して口にしてはいけない” と戒律のようにきつく命令されている。だから、私はいつもこんなふうにめんどうな言い回しをしなきゃならないのだ。
「明日、俺も父さんと一緒にお嬢様たちを旦那様の一族のお屋敷までお連れするんだ。あちらの教会で式を上げるんだって」
「あら、それじゃああなた、いつも以上に気をつけなきゃね」
 私はにんまりと笑った。「上流階級の方々がうじゃうじゃいるだろうから、私のときみたいなことをしたら牢屋に放り込まれちゃうわよ」
「まだそれを言うのか。馬車の真ん前に飛びだして馬を驚かせたのは君だっていうのに……」
 エリックは不満げに私を見返した。
 彼はローズデール家に仕える御者の息子だ。年頃は私と同じくらい。多忙を極めるご当主さまや跡取り息子殿に父親がかかりきりなので、もっぱら奥様やお嬢様――ミス・ローズデールのことだ――がちょっとした所用で出掛けるときに馬車を駆っているらしい。
 ちょっとした所用とは、たとえばミス・ローズデールを “ステラ・ド・ロレアン” にお連れすることもそのひとつね。だから、有名人である彼女を一目見ようと群がった野次馬から私が無理に脱け出そうとして、店の前に停まっていた馬車の馬の目の前に突き飛ばされたとき、驚いて暴れかけた馬を四苦八苦しながらなだめなければならなかったってわけ。

 それからたびたび顔を合わせる機会があり、互いの名前を知った。
 それから、ときおり短い手紙をやりとりするようになった。
 今では、お針子仲間にうまく説明のつかない間柄になった。

 私たちはいつものように日当たりのいい東の川の遊歩道を散歩しながら、のんびり他愛のないおしゃべりをしていた。
「ねぇ、エリック。もしかしてあなたも結婚式に参列するの?」
 私が問い詰めると、彼の顔には隠しごとを見破られた気まずさと、いくらか得意げな照れ笑いが同居していた。
「うん、そうなんだ。お嬢様の旦那様になる方のご厚意で、俺たちやあちらの使用人もみんな一緒にお祝いさせていただけることになったんだ。本当に優しくて気前のいい旦那様だよなぁ。これでようやくうちのお嬢様も幸せになれる。よかった、よかったよ」
 エリックの細い焦げ茶色の目がさらに細くなった。
 彼は自分たち家族が仕えるローズデール家の令嬢リディアをとても慕っている。彼の素直さに触れると、実家にいる末の弟を思い出して私は温かい心地になる。
「うらやましいわ。私、今まで一度も自分が縫ったドレスをお客様が着てるのを見たことがないの。いくら自信があっても、やっぱり気になる。不安だわ。あなたのおうちのお嬢様に喜んでいただけるといいんだけど……」
「そんなに見たいのかい?」
 まだ二十歳にも届かない男のエリックは、無知な少年のように、さも不思議そうに私に言った。ケープの中に手を差し込み、私の手首をそっとつかみながら。

 焦げ茶色の瞳を見つめながら私がうなずくと、エリックが私の手を強く引いた。
 エリックと二人で遊歩道脇の草むらに飛び込んだ。苔むした白樺の木、むせ返るような草いきれ、野性の蔓バラ、ガラス玉のようにスカートの裾やブーツの上を転がる木漏れ日。悪戯好きな夏の妖精になった心地がした。
 唇を押しつけ合いながら、それしか言葉を知らないみたいに私たちは互いの名前をささやいた。そのたびに熱病にかかったように頭がぼうっとして、心臓を患ったみたいに胸が締めつけられて苦しくなる。

「ダフネ」
 エリックが私を抱き締めながらささやいた。「君の代わりに、君が縫ったドレスを着たお嬢様を見てくる。そしてお嬢様がどんなご様子だったか君に教えるよ」
 私を包みこむ腕の力がぎゅっと強まった。
「だから、またこうして会おう。俺はまた君と会いたい」
 踊るようにきらめく木漏れ日に頬をくすぐられながら、私はエリックの腕の中でうなずいた。



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