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第9話 月明かり


 その日の晩、リーゼル城で皇太子殿下主催の盛大な晩餐会が催された。
 彼が仕留めた鹿と雉、地元の新鮮な野菜や熟した果物をふんだんに使った豪勢な料理が供された。その後はもちろん大広間で舞踏会が開かれた。

 乳白色と珊瑚色の大理石が優雅な幾何学模様を描く床の上を、春の花々のようなドレスをまとった淑女たちが蝶々のように彩る。金色のシャンデリアの光は、高い天井で直角に交差する優美なアーチを照らし、交互に配置された細身の角柱と太い円柱に当たり、貴公子たちの胸元を飾る紋章や貴婦人たちの宝石に乱反射して、空気中に光の粒を撒き散らしていた。
 皇太子殿下はすこぶる上機嫌で、ベルフォレスト公妃を膝の上から片時も離そうとしなかった。公妃が自分以外と踊ることを決して許さず、まるで寝室のベッドの上にいるかのように終始彼女に熱っぽい眼差しを注いでいた。一方、公妃は相変わらず雪の国の女王のような風情だったけれど、 軽快なカドリールを踊る人々を眺める目はいつもほど無関心でも冷淡でもなかった。

 自惚れるつもりはないけど、それはその中に私がいたからだと思うのよね。
 きっと公妃は、私がヘマをやらかさないか心配してくれていたのよ。

 ほら、カドリールって四組の男女のカップルが四角形を作って、くるくる回ったり交差したりパートナーを換えたりしながら踊るダンスでしょ? 曲調が軽快でふつうのワルツに比べたらテンポも速めだし、目まぐるしくパートナーが換わるし、苦手にしている貴婦人や宮廷女官は意外と多い。
 ところが、私はそうじゃない。
 なんと、あのおっかない宮廷女官長メイン伯爵夫人から「カドリールならミス・コンラッドが一番お上手」って、お墨付きのお言葉を頂戴する程度には得意なのよ。
 ダンスはほぼ唯一と言っていい私の特技ですからね!

「ミス・コンラッド、私と踊っていただけますね?」
「もちろんですわ、ケアリー子爵」
 皇太子殿下に踊るよう命じられたクリスに衆目の面前で誘われ、震えそうになるのを必死にこらえながら彼の手を取った。まるで屠殺場に連れて行かれる仔牛のように、目がくらむほどまばゆく輝く大広間の中央に連れ出された。

 私以外の貴婦人の顔ぶれを見て卒倒しそうになった。
 私の真正面には、よりにもよって勿忘草のように澄んだブルーのドレスをまとったノーサンバーランド公爵令嬢レディ・アデレード・ダドリー。両横ももちろん宮廷社交界の最年少世代の華――皇室に次いで帝国随一の権勢を誇る公爵の孫娘と皇族の血を引く伯爵令嬢――だ。
 突然こんな場所に連れ出され、こんな人たちに対峙させられ、尻込みしない片田舎の男爵家の娘がいるなら、今すぐ連れてきて私と交代してほしい。

 隣に立つクリスの表情をうかがうことはできない。
 だから私は余計にうろたえていた。これは彼なりの逆襲なのかしら? 私があまりにも頑固でかわいげのない態度を取ったから、こんなときにこんな人たちの前に私を引きずり出して辱めようというの? この期に及んで、私に身の程を思い知らせようとしているの?

 卑屈なことばかりが頭をよぎった。
 そして一瞬にして私の闘争心に火がついた。
 そう、そういうつもりなら受けて立つわよ。私がこの程度で泣きを見せるほどか弱い女だと見くびっているなら大間違いなんですからね。
 目に物見せてあげるわ、クリス!

 私はなけなしの意地を振り絞って顎を上げた。
 冷然と美しいレディ・アデレードと華やかな観衆が目の前の世界を埋め尽くした。けれど、幸か不幸か、クリスへの反発心でこれまでのように気後れすることはなかった。
「カドリール!」
 若い従僕の青年が杖で大理石の床を三度打ち鳴らし、元気よく掛け声を上げた。弦楽器と管楽器が奏でる軽やかな音色が大広間に響き渡った。

 花畑を舞う蝶のように優雅に、緑の森を飛び交う小鳥のように軽快に。
 この際、鮮やかなアゲハチョウに囲まれた地味でちっぽけなモンシロチョウでも構いやしないわ。家柄や美貌じゃこの三人の若き貴婦人たちに劣るけど、ダンスの腕前じゃ彼女たちに決して負けるつもりはない。
 指の先端まで気を張り詰め、パートナーからパートナーへ移るときは惜しむような、それでいて誘いかけるような流し目を送る――「あなたともっと踊りたいわ」と思っていると見せかけるのが宮廷の正しいマナーなのよ。殿方だってそれくらい承知しているから、ほら、いかにも「あなたにすっかり魅了されてしまいました」と言わんばかりの甘ったるい視線を送ってよこす。踊りながらお芝居までこなさなきゃならないなんて、本当に骨が折れるわ。

 そんなカドリールの最中、ずっとクリスの視線を感じた。物問いたげで、彼に対する私の非礼を責めるような眼差しだった――ような気がする。
 というのも、私はクリスの眼差しをこの目で受け止めたわけではないから。踊りが始まる前、胸中であんなに気を吐いたというのに、実際は彼とまともに目を合わせることすらできなかった。他の殿方には平気で目線を投げかけていたのに。
 反対側からクリスと交差するときも、彼から次のパートナーに送り出されるときも、パートナーを一巡して彼のもとに戻ってくるときも、あえて視線を上げずわざと彼の喉元ばかり見つめていた。

 カドリールでこれほど緊張したことはなかった。
 いつもはここぞとばかりに意気揚々とステップを踏むというのに、私は早く曲が終わることばかりを祈っていた。
 なのに、指先と指先が触れ合い、手のひらと手のひらが重なるたび、私はクリスと離れたくない、ずっとこのままでいたいと願わずにいられなかった。何度も何度も彼の美しい若草色の瞳を見つめようと勇気を振り絞った。でも、いつもあと一歩のところで音楽が彼から私を引き離した。私はすぐにまた違う男と踊るべく彼から離れ、私の手はクリスの手からするりとすべり落ちていった。
 離れ際、彼の手が離れるなと乞うように私の指先を掴んだ気がした。
 それこそ私の願望でしかないに決まっているのに。

 そんな哀れな私に比べ、一緒に踊ったレディ・アデレード・ダドリーの優雅で堂々たる貴婦人ぶりといったら、まさに水辺の白鷺。感嘆の溜め息を吐かずにはいられない洗練の極致だった。
 彼女とクリスが手を合わせて踊るのを横目に盗み見るたび、どうして彼女が彼の婚約者じゃないのかしら、と不思議になるほど完璧な二人に見えた。
 まさしくおとぎ話の王子様とお姫様。誰もが認め祝福するであろう釣り合いの取れた男と女。私では到底役不足だ。

 こらえていた溜め息が漏れる寸前、ようやくカドリールが終わった。
 膝を折って最後の会釈をすると、割れんばかりの拍手が湧き上がった。しかしこのとき、私にはいつものように愛想よく感謝の笑顔を振りまく余裕はなかった。不作法という印象を与えない程度にそそくさと踊りの輪から離れ、花畑に逃げ込む蜜蜂のように素早く雑踏の中に紛れ込むのが精一杯だった。

 どうしても勇気を出すことができなかった。
 一瞬でも振り向いて、クリスを一目見ることさえ叶わなかった。

「ミス・コンラッド、さすがは宮廷一のカドリールの名手ですね。お見事でした」
「お褒めにあずかり光栄ですわ。わたくし、野山の小鳥を真似てすばしっこく踊るのが好きですの」
 自分の意気地のなさに対する失意と落胆が顔に出ないよう気をつけながら、広間の壁際で皇太子殿下の取次役と他愛もない世間話をしていた。
 するとそこにメリッサが近づいてきた。
「ミス・コンラッド、ちょっと今よろしいかしら?」
 何やら深刻な様子だ。またどこぞの貴公子にからかわれたのかしら。
 ちょうどよく音楽が終わったので、私は彼女を大広間の隅に引っぱって行った。
「どうしたの? また誰かに嫌なことを言われたの?」
「ここじゃあ話しづらいから……」
 メリッサに手を引かれ、私たちは大広間から離れた部屋に忍び込んだ。南側の庭に面したその部屋はカーテンが開かれ、テラスに続く大窓からやわらかな白い月の光が射し込み、部屋の中をほの明るく照らしていた。
 彼女はひどく緊張した面持ちで、よほど重大な悩みを抱えているように見えた。
「そうだ、長い話になるだろうから飲み物を取って来るわね」
 無理に笑顔をつくろったメリッサが部屋を出ていくと、私は長椅子に腰を下ろした。
 そういえば、クリスに初めて抱かれたのもこんな月夜の晩だったっけ。痛かったし苦しかったなぁ。でも、あのときのクリスは本当に優しかった。何度も何度も私の名前を呼んで、両腕できつく抱き締めてくれた。それから……

 私の返事を待たず、ノックとほぼ同時にドアが開いた。らしくないメリッサの不作法を咎めようと振り向いた。
 彼女はいなかった。月明かりがひとりの男を照らしていた。

 金褐色の巻き毛、深緑色のダブレット。扉の前に男が一人、立っていた。



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