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第10話 密談


 友人にからかわれて元気を得るような特殊な嗜好など、僕は持ち合わせていない。
 しかし、いかにもひねくれ者のアレックスらしい激励を察知できないほど愚鈍ではないし、それに励まされ顔を上げずにいるほどひ弱ではないつもりだ。

「閣下、油断をして見惚れてばかりいると、魔法で馬から落とされてしまいますわよ」
 有力な廷臣で、宮廷社交界の寵児で、あまたのご婦人方を魅了してやまない洗練された貴公子アレックスを、ビアンカは茶目っ気たっぷりにあしらった。
 こんな最高の貴婦人は彼女しかいない。
 僕の不安と嫉妬を掻きたて、情熱と欲望を駆りたて、楽しみとぬくもりで満たしてくれる人は彼女だけだ。僕が愛し、幸せにしたいと願うのはビアンカだけだ。
 だから拗ねていじけている場合じゃない。嫌われ見限られても、彼女に打ち明けなければならないこと、話し合わなければならないことがある。
 彼女に伝えたいことがある。
 僕はこれでも、彼女の婚約者なのだから。

 その日の晩、リーゼル城では皇太子殿下主催の盛大な晩餐会が催された。
 極上のワインと彼が仕留めた鹿と雉を使った贅を尽くした料理が供され、その後はもちろん大広間で舞踏会が開かれた。ありがたいことに、皇太子殿下が僕にカドリールを踊るよう命じてくださった。しかし、僕の覚悟と勇気はたちまち容易くへし折られてしまった。またしても。

「ミス・コンラッド、私と踊っていただけますね?」
「もちろんですわ、ケアリー子爵」
 鴨の羽根のような強い緑みの深い青色のドレスが、ビアンカの瑞々しい肌の美しさを際立たせていた。人いきれで上気した彼女の桃色の頬を目の当たりにすると、僕は胸が苦しくなるほどくらくらした。
 カドリールを踊るビアンカは春の花園を舞う蜜蜂の女王だった。蝶々のようにふわふわと頼りないステップではなく、花から花へ飛び交う蜜蜂のように迷いがなく洗練されていた。
 ホワイト宮殿の宮廷女官長メイン伯爵夫人から「宮廷一の踊りの名手」とお墨付きを受けただけあって、踊っているときのビアンカは格別だ。身分では到底敵わない公爵家や皇族の血を引く名門の令嬢たちさえ、ビアンカの近くで踊るとどこか存在感が薄まってしまう。彼女と踊るとたいていの男は美酒に酔ったようにうっとりとなる。

 ビアンカは僕にとっては美酒そのものだ。甘美で美味しい最高のご馳走。
 しかし、僕はその美酒を味わうことはできなかった。ビアンカは僕と一瞬たりとも目を合わせようとしなかった。僕の手を取って大広間に出ていくときも、反対側から僕と交差するときも、僕から次のパートナーに送り出されるときも、パートナーを一巡して僕のもとに戻ってくるときも。僕がいくらビアンカだけを見つめても、彼女の灰色の瞳が僕を見つめ返すことはなかった。
 カドリールなど中断し、ビアンカの肩を揺さぶって問い詰めてやりたかった。
 僕以外の男にはあんなに艶っぽい魅惑的な流し目を送り、奴らを夢見心地にのぼせあがらせ、すっかり骨抜きにしておきながら、なぜ僕だけ冷たく無視するんだ!
 あんまりじゃないか! 僕はこれでも、君の婚約者なんだぞ!

 怒りと失意のうちにカドリールは終わりを告げた。
 割れんばかりの拍手喝采に包まれながら、僕は孤島にぽつんと置いてきぼりにされた心地だった。そくさと踊りの輪から離れ、ビアンカは花畑から巣に帰る蜜蜂のように振り向きもせず僕から離れていった。僕は彼女の華奢な背中を見つめることしかできなかった。
 どうしても勇気を出すことができなかった。
 追いすがり、ビアンカに一言声をかけることさえ叶わなかった。

 …… だめだ。これではいけない。
 僕はビアンカでなければいけないんだ。拒絶を恐れず、彼女に秘密を打ち明け、これからのことを話し合わなければいけないんだ。

「やぁ、ミス・アロースミス。ごきげんいかがかな?」
「ごきげんよう、ケアリー子爵。先ほどのカドリールはお見事でしたわ」
 完璧な社交辞令で対応するミス・メリッサ・アロースミスに、僕は首を折って愛想よく微笑んだ。彼女は宮廷女官にしてはやや小柄なのだ。
 ミス・アロースミスは、金融業で巨万の富を築く帝国随一の大富豪アロースミス家の第二代目現当主の愛娘だ。貴族の娘と違って身分や血筋に固執したところがなく、実家の莫大な財力と強固な人脈という実務に基づく強大な後ろ盾があるので僕にも物怖じしない。ビアンカとも非常に仲が良く、裏表のない清々しい娘だ。
 この娘からなら、ビアンカとの和解の糸口を探り出せるかもしれない。
 僕はミス・アロースミスに一縷の望みを託すことにした。

 彼女を廊下に連れ出し、周囲に盗み見したり聞き耳を立てたりする者がいないことを確認してから、やや声を潜めて切り出した。
「ミス・アロースミス、君は私の婚約者ビアンカと同室だったね」
 どうかこの娘が僕の下心に嫌悪感を覚えませんように、と祈りながら。「そこで私の婚約者について教えてもらいたいことがあるのだけれど、構わないだろうか?」
「どのようなことでしょう?」
「最近の彼女の様子はどうだい? 私たちはここ数日、顔を合わすことができなくてね」
 僕には芝居の才能はないらしい。ミス・アロースミスは人懐っこそうな笑顔を引っ込め、たちまち表情を硬く引き締めた。
「ミス・コンラッドは最近とても気落ちしていました。とてもつらいことがあったそうです。ここ数日は溜め息をついてばかりで…… あぁ、なんて可哀相なのでしょう」
「つらいこと?」
 僕は恐る恐る問いかけた。
「はい。信じていた方からとても残酷な言葉をぶつけられたそうです」
 ミス・アロースミスは僕への怒りや不快感を隠そうとはせず、仔犬のような愛くるしい顔は僕への非難で塗り固められていた。僕は続きを聞くのが怖くなり口をつぐんだ。彼女はそんな軟弱な僕を叱責するように続けた。
「ケアリー子爵、ミス・コンラッドはあなたとのことで、以前から様々な方々から誹謗中傷を受けていたのです」
「何だと!?」
 僕は驚愕のあまり声を荒げた。
「まぁ、それほど驚かれるとは思いませんでしたわ」
 ミス・アロースミスは冷ややかに翡翠色のつぶらな目をすがめた。「あなたは名門ダンレイン伯爵家の跡取り息子で、現外務大臣のご子息で、帝国有数の富を持つケアリー家の唯一の相続人です。対してミス・コンラッドは? 彼女は “ただの男爵の娘” です。彼女はあなたと婚約を交わしたというだけでも宮廷中の女性から反感を買っていたのに、結婚前にあなたと……その……あたかも夫婦のようなことを行っていては、彼女をよく思わない方々に彼女を非難する格好の餌を与えるようなものではありませんか。彼女がどんな陰口をささやかれているかご存知ですよね?」
 僕は唇を噛んだ。
 さすがの僕も、そんなことはまったく知らないと答えられるほど恥知らずではなかった。
「“身体を使ってケアリー卿をたらしこんだ”、“ふしだらな田舎娘”」
 ミス・アロースミスは淡々ととんでもないことを口にした。
「違う!ビーがそんなことをするわけがないだろう!」
 ビアンカの幼い頃からの愛称を口走るほど、このとき僕は爆発しそうな怒りを抑えるので精一杯だった。僕がよほど酷い形相になっていたのか、ミス・アロースミスは怯えたようにわずかに肩をすくませた。
「えぇ、存じ上げておりますわ、彼女たちも私も」
「では、なぜ……」
 僕は困惑した。
「彼女たちは敬虔な尼僧ではありません。あなたとミス・コンラッドの振る舞いを非難したいわけではありません。自らが手に入れられなかったあなたの婚約者、将来のダンレイン伯爵夫人という地位を手に入れた彼女を、少しでも傷つけ貶めたいだけです。簡単なことです。ミス・コンラッドは彼女たちより身分が低く、立場が弱いのですから」
 ミス・アロースミスは悔しげに僕をにらみ上げた。「ともに同じことをしても、その殿方の方は黙認し、女の方は非難する。その女が自分より身分が低ければ遠慮する者などおりません。少なくとも、この宮廷の貴族のみなさまはそうでしょう? ケアリー子爵、あなたがミス・コンラッドとなさっていた行為はそういうことです」
 僕から視線を逸らし、ミス・アロースミスは声を抑えたまま続けた。
「彼女は悩んでいました。生まれついた身分ばかりはどうにも出来ないから、せめてあなたの妻に相応しい貴婦人になろうと教養や社交を磨こうと懸命でした。ですが、あなたはベルフォレスト公妃にうつつを抜かし、そのうえミス・コンラッドの目の前で彼女を称えてばかりいたというじゃありませんか。なんということでしょう。女にとって、それ以上の屈辱がありましょうか」
 ミス・アロースミスは今にも泣き出しそうな顔で僕を見据えた。

 後悔と羞恥で消えたくなった。
 ビアンカを他の男に奪われたくないと欲をかいたばかりに、僕は彼女に不要な苦労を強いていた。おまけに愚鈍な僕はそのことに気付きもせず、挙句の果てに理不尽な怒りと醜い嫉妬をぶつけ彼女を傷つけた。これでは嫌われ見限られて当然だ。

「ミス・アロースミス、君の言うとおりだ。私はあまりにも思慮と思いやりに欠けていた。それは認めよう」
 僕は深く息を吸い込んだ。「しかし、それでも私はビアンカと結婚したい。私の妻は彼女でなければならない――いや、彼女がいいんだ。私には彼女が必要なんだ。ミス・アロースミス、私が君にこのようなことを頼むのは筋違いだと重々承知している。だが、どうか私が彼女と話し合いを出来るよう取り計らってはもらえないだろうか。どうか、後生だから頼む」
「まぁ、ケアリー子爵……」
 ミス・アロースミスはつぶらな瞳をさらに大きく見開き、ひどく驚愕した様子で僕を見返した。それからマリーゴールドのようにぱっと明るい笑顔になった。「わたくしもちょうどそのことをお願いしようと思っていたのです。でも、わたくしはあなた様にお願い事ができる身分でも立場でもありませんし、どうしたものかと考えあぐねていたのですが、それなら話が早いですわ!」
 元気はつらつなミス・アロースミスに気圧されつつも、僕は希望の光が見えてきた。
「ありがとう、ミス・アロースミス。この恩には必ず報いるよ。さて、それで私は何をしたらいいのかな?」
 大いなる期待を込めて、僕はミス・アロースミスに問いかけた。



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