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第4話 親子の会話


 ビアンカの父コンラッド男爵は典型的な田舎領主そのものだ。
 宮廷でもダンレイン城でも常に折り目正しく寡黙な僕の父とは正反対。小作人たちと一緒に歌いながら酒を飲み、陽気であけっぴろげで、多少身ぎれいな農夫といった雰囲気だろうか。
 しかし、僕の父によると、若い頃は廷臣として宮廷に出仕し、皇帝陛下や宰相閣下からも大変覚えがめでたい人だったらしい。爵位を継いで領地に引っ込むまでの数年間、若くして主馬頭を任されるほど陛下から信任が厚かったそうだ。当時から領地が隣同士のよしみで、僕の父ともそれなりに交流があったらしい。
 そして僕がまだ三歳の頃、生まれて初めて自分のポニーをあてがわれた。そのポニーを見たててくれたのがコンラッド男爵その人だった。

「さぁ、出ておいで坊主」
 片膝をつき、僕と目の高さを合わせてコンラッド男爵は優しく言った。
 激しい興奮とわずかな恐怖のため、僕は乳母のスカートの陰から葦毛のポニーを見つめていた。
 僕はそれまで “坊主” なんて呼ばれたことはなかった。
 穏和な乳母はそんな彼にどう対応すべきか苦慮していたけれど、新鮮かつ親しげなその響きはたちまち僕の気に入った。
「そんなところに隠れていたら立派な馬乗りにはなれないぞ」
 彼は両親以外で僕にかしずかない最初の大人だった。
「噛まない?」
 乳母の後ろからおずおずと這い出て、僕は聞いた。
「餌は開いた手のひらに載せてやるんだ。そうすれば噛めないだろう?」
 彼は僕の手を開き、実際干し草を手のひらに載せ、ポニーがどんなふうに餌を食むかやってみせた。
襲歩(ギャロップ)できる?」
「君の父上の馬ほど速くはないがギャロップできるよ。それにジャンプもね」
「僕が乗ってもジャンプできるの?」
「まずは鞍に座れるようにならなきゃな。それから常足(なみあし)速足(はやあし)駆足(かけあし)と練習しよう。そうすれば丘を駆け上がったり、障害を跳び越えたり、騎士のように馬に乗って槍を使えたりするようになるぞ」

 馬術に限らず、彼は僕の人生の恩師だ。
 僕に初めてポニーを与えたのも、地面に落ちた胡桃の実を拾わせたのも、帆船を作って川で乗せてくれたくれたのも、太陽の位置から時間を知る方法を教えたのも、農場の牝牛の出産に立ち会わせたのも、全てコンラッド男爵だった。
 彼のおかげで僕は領民の生活をこの目で見て、彼らの暮らしを自分の身体で学び、彼らと泣いたり笑ったりすることで苦労や喜びを分かち合うことの大切さを知った。
 僕にとって、コンラッド男爵は第二の父親のような存在だ。

 だから、僕は良心の呵責に苛まれた。
 なぜなら僕は、その敬愛して止まない彼を謀ろうと企んでいたのだから。

 どうしてもビアンカを手に入れたかった。誰にも渡したくなかった。そして僕は状況的にも精神的にも追い詰められ、たった独りで草原に置いてきぼりにされた仔羊のように動転し、完璧に冷静さを失っていた。
 あの頃、僕は夢遊病患者のように頭がおかしくなっていた。
 僕は父の旧友の公爵の娘と婚約させられる寸前で、ビアンカはビアンカで父コンラッド男爵が公然と彼女の婚約者を探しているという状況だった。勿論、僕は端っからその対象に含まれていなかった。
 にもかかわらず、僕は彼女に愛を打ち明けるきっかけをつかめず、現状を打開する勇気もなかった。ただビアンカに嫌われたくない、彼女の信頼と友情と絆を失いたくない、と自分可愛さにいじましく浅ましくなるばかりだった。

 そこで僕はいかにも臆病な卑怯者らしい作戦を考えついた ――あぁ、その表情から察するに、君はもう知っているんだね。

 そう、ビアンカを手に入れるため、僕は婚約の申し込みを偽装した。
 父の筆跡を真似て署名をしたため、彼の目を盗んでケアリー家の印を捺し、ビアンカへの贈り物と嘘をついてコンラッド家に届けさせたんだ。
 我が家からの申し込みならコンラッド家が断らない――断れない――のは、ほぼ間違いなかったからね。婚約さえしてしまえば、そして結婚すれば、ビアンカは僕のもの。そうしたら、僕だって思う存分自分の想いを彼女に捧げられるじゃないか、と僕は考えたわけだ。

 自分の卑劣さにうんざりした。でもやはり、僕は欲望に屈した。
 そして一週間後、僕は父の書斎に呼ばれた。
 両親は酷く深刻な表情で部屋の中央の長椅子に座って僕を待っていた。僕はテーブルを挟んで彼らと向き合うように腰を下ろした。事前に承知していたこととはいえ、氾濫した河川のように猛烈な速度で不安と恐怖が這い上がってきた。精緻なスイカズラの装飾が施された椅子に腰掛けるのに、あれほど怖気づいたことはなかった。
「クリストファー、お前が我がケアリー家の跡継ぎであることを私もエリザベスも心から誇りに思っている。だからこそ、お前が私たちの疑いや心配を笑い飛ばし打ち消してくれると信じている」
 いかにも貴族らしい勿体ぶった調子で父は切り出した。
「父上も母上も、いったいどうしたというのです?」
 しらじらしく僕は問いかけた。
「これを見なさい」
 父がテーブルの上に何枚か書類を並べた。
「ケアリー家からコンラッド家へ送られたお前とビアンカの婚約申込書の写しだ――ここにコンラッド男爵の受領署名が記されている。そしてこちらはこの婚約申込に対するコンラッド家の了承書だ――コンラッド男爵夫妻とミス・コンラッドの署名がある」
 僕はコンラッド家からの了承書を手に取った。
 一番下にビアンカの署名を見つけた。右上がりでハネがはっきりした、いかにも意志の強そうな文字で “Bianca Alexandra Conrad” と確かに記されていた。
 巨大な竜巻のように、歓喜と興奮と達成感が僕の中で吹き荒れた。下弦の三日月のようにたわみそうな口元を無理矢理まっすぐに引き結んだ。快哉を叫びそうになるのをこらえるあまり、了承書を掴んでいた僕の両手はぶるぶると震えた。
「驚かないのだな」
 そう言った父の声にも驚きは含まれていなかった。「不思議だと思わないか? 私はお前とノーサンバーランド公爵家のアデレードの縁談を進めていたし、そのことをお前に話してもあった。お前はひどく気が進まない様子だったがな。しかし、これだ。クリス、なぜ私たちはノーサンバーランド公爵ではなく、コンラッド男爵からの婚約了承書を受け取っているのだ? 婚約申込書の写しには私の署名が記されているな。しかし、私はこのような書類をしたためた覚えはない。まったく、ない。さてクリス、私は誰かに催眠術をかけられ操られてでもいたのだろうか?」
「いいえ、父上。そうではありません」
「ほう、まるで真実を知っているかのような口振りだな、我が息子よ」
「私がしたためました」
 父の奥まった青い目と母の優しげに垂れた緑の目が、釘を打ち込むように僕を凝視した。父の厳めしい金色の眉があれほどはっきり吊り上がるのを見たのは、もしかしたら生まれて初めてのことだったかもしれない。母は口元を両手で覆い、顔色はすっかり青褪め、なだらかな肩は小刻みに震えていた。
「父上、コンラッド家へ婚約申込の書簡をやったのは私です。全ての書類を私がしたため、あなたの筆跡を真似て署名し、あなたの目を盗んでケアリー家の封印を捺しました。全て、私がやりました」
「クリス、あなた、自分が何をしたか分かっているの?」
 普段は野に咲くナツシロギクのように万事に控えめな母が、テーブル越しに身を乗り出して僕を問い詰めた。
「わかっています」
「わかっていないわ! あなたはビアンカを…… コンラッド家のみなさんを騙したのよ! 幼い頃からあれほどあなたに親身になってくださった方々にこんな酷い仕打ちをするなんて! あぁ、わたくし、申し訳なくてもうヴァレリアに顔向けできないわ!」
 息子の思いもよらぬ乱行を責め、親友と呼んではばからないビアンカの母親に許しを乞うように、母は両手で顔を覆ってむせび泣いた。しかしこの直後、彼女の泣き声は悲鳴に変わった。
「恥を知れ愚か者!」
 硬く尖ったもの――恐らく指の付け根の関節だろう――に喉仏を押され、一瞬呼吸ができなくなった。
 長椅子から立ち上がった父が僕の襟元を掴み、拳に渾身の力を込めて僕の左頬を殴った。突風を受けたブナの若木のように僕の身体が大きく傾いだ。バランスを崩した瞬間とっさに右腕をテーブルに突っ張ったけれど、僕はそのまま椅子から転げ落ちて木彫りの人形のように床に倒れた。左頬の痛覚は麻痺し、口の中に生々しい鉄の味が広がった。床に尻もちをついたまま父を見上げると、地獄の審判よろしく怒りもあらわに顔を赤らめ、氷のような冷たい青い瞳で僕を睨みつけていた。

 僕が送った偽物の婚約の申し込みに、僕の目論見どおり、コンラッド家は本物の了承の返事をよこした。その書簡を受け取った両親と僕の顛末がこれだ。
 両親と僕の温かく血の通った親子関係はここで断絶するかもしれない。僕は父の名を騙り、母を失望させ、彼らの信頼を裏切ったのだから。それでも僕は、彼らに許しを乞い、彼らの命令に従おうとは一瞬たりとも考えなかった。
 背中と顔全体に広がった痛みをこらえながら、僕は立ちあがった。

「父上、母上、ビアンカと結婚させてください。彼女でなければならないのです」
 父に殴られた口元を拭い、僕は両親に嘆願した。
「愚かなひとり息子の生涯に一度の頼みです。彼女との婚約を認めてください。私は彼女でなければ、ビアンカでなければ誰とも結婚するつもりはありません。お願いします。彼女を愛しているのです。私の妻はビアンカでなければならないのです」

 人生を賭けた対峙であったにも関わらず、このとき僕は思わず笑いたくなった。
 皮肉なものだ。両親になら、これほど簡単にビアンカを愛していると告げることができるなんて。



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