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第33話 不作法


 月に雲がかかったようだ。
 あたりを優しく照らしていたほの白い月明かりが消え、廊下はさらに暗くなった。

「大広間は君とウェリントンの話題で持ちきりだよ。まるで君たちが婚約を発表したかのような盛況ぶりだ」
 目はすぐ暗闇に慣れたものの、ジョセフの表情をうかがい知ることはできなかった。
「まぁ、なんて華々しいのでしょう」
 私は精一杯笑顔を作って虚勢を張った。「公爵家の跡取りが海運貿易商の娘と婚約するなんて、まるでおとぎの国の夢物語ね」
「ウェリントンには妻と五歳に満たない子供が三人いる」
 ジョセフはすぐさま言い継いだ。「我が国が婚姻制度に中東や東洋の異教徒のような一夫多妻制を導入しない限り、君は彼と婚約することはできない」
 こんなふうに罪のない冗談を生真面目に訂正されると、居心地が悪くて本当に居た堪れなくなるわよね。
「あら、そうだったの。それなら私はせいぜい愛人が関の山ね」
 やさぐれた気持ちを隠しもせず、私は吐き捨てた。
 それにしても、いかにも独身貴族の自由を謳歌していそうなウェリントン卿にすでに妻子があるとは意外だった。好奇心旺盛で探究心たっぷりのウェリントン卿なら、子供にとって得難い指導者であり格好の遊び相手でしょうね。案外、善き夫、善き父親なのかもしれない。
 こんなふうに、不親切な現実から目を逸らしていられたのもほんの束の間だった。
 刺すような沈黙が私を苛み、胸が締めつけられるように苦しくなり、心臓がドキドキ高鳴り始めた。私は自分がジョセフと大広間から遠く離れた薄暗い廊下に二人きりでいることに思い至り、身体が麻痺したように動けなくなった。呼吸をするのもやっとだった。
 こわごわと顔を上げると、ジョセフの紺碧の瞳と真正面で衝突した。彼がこちらに大きく踏み込んできた。分厚い絨毯に吸収されるはずの硬い足音が、静かに廊下に響き渡るように感じた。私はとっさに一歩後ろに下がり、背中を壁にぶつけた。これまでの経験上、ジョセフは私に対して男女の距離に関する作法を失念し、ずかずか近づいてくることがしょっちゅうあった。そうした気心知れた友情に基づくちょっと粗野な振る舞いにある程度は慣れているはずだったのに、私は柄にもなく無垢な乙女のようにすくみあがってしまった。まばたきすらできず、私は彼を見つめた。

「君は愛人に不向きだ」
 聞き分けのない幼子を言い含めるようにジョセフが言った。
「そんなことないわ」
 息を切らせながら、反抗心を奮い立たせて私は答えた。
「まるでウェリントンの愛人になりたくて仕方ないような言い草だな」
 ジョセフが左右の手を私の顔を挟むように順番に壁についたので、私はハツカネズミのように肩を震わせた。上背のある彼が前屈みになり、首をかしげて私の顔をのぞきこんだ。幅の広い肩が影を作り、真上から私を覆い尽くした。怯えや不安を見せまいと、私は軽く息を吸い込んだ。
「だが、あいつは愛人など持たない。あれでも妻にぞっこんなんだ。産み月間近の彼女を、離れるのが耐え難いと赴任先に同行させた常識知らずだからな」
「まぁ、そうなの……」
 ジョセフの長い睫毛と紺碧の瞳に魅入られて、私はすっかり考えたり話をしたりする力を失っていた。貧血を起こしたようにくらくらし、ワインを飲みすぎて酔っ払ったように胃のあたりがむかむかしていたけど、肌が燃えるように熱くなり、認めたくないことに頬が真っ赤になっているのが分かった。きっと、ひどく近くに立っているジョセフの匂いのせいに違いなかった。みずみずしいレモンやライムの香りに、かすかにブランデーや上質な葉巻の匂いが混ざった香り。むせ返るような、男らしい芳香。
「リディア、やはり君に愛人の才能はない」
 くぐもった低い笑いに、はっと我に返った。
 ジョセフの眼差しは危うげな挑発を含んでいた。彼は私を見下ろし、鑑定士が品定めをするように私の身体を上から下まで眺めた。これまで一度も、彼からこんな視線を浴びせられたことはなかった。
「もし君が誰かの愛人になりうる女なら、こんなふうに男の腕の中で黙りこくってはいないはずだ」

 微熱を帯びた痺れが背中を駆け上がり、全身に鳥肌が立った。
 私の全神経が、今すぐ逃げ出すべきだと警告していた。
 この危うい駆け引きから。
 ジョセフの腕の中から。

「あら、ご親切にご指摘くださってありがとう」
 赤らんだ顔を扇子で隠せたらいいのに。もごもごと口ごもりながら、私はジョセフから目を逸らした。
 彼の両腕に囲まれた狭い空間の中で身体の向きを変えると、私は扉にかけられた閂を持ち上げるようにジョセフの腕をはずそうと試みた。ところが困ったことに、夜会服に包まれた腕は、私が両手でつかんで揺すってもびくともしなかった。やむをえず腕の下から脱け出そうとしても無駄だった。長くたくましい左脚が私の行く手を阻むように伸ばされ、私がしゃがむには彼の下半身に身体をこすりつけなければならなかった。
 汗ばんだ手のひらに絹の手袋が貼りつき始めた頃、ジョセフが身体を覆いかぶせてきて私の耳元でささやいた。
「男の腕は、柳の枝のように女がやすやすと動かせるものではない」
 彼の吐息がむきだしの首筋にかかると、例の熱っぽい痺れが全身を駆け巡り、重篤な貧血のような症状で私はよろめいた。
「それは存じ上げませんでしたわ、ミスター・ブラッドリー」
 一生懸命、いつものようにお高く留まった調子で言おうとした。ところが、嘆かわしいことに、困り果ててうろたえた声にしか聞こえなかった。「この腕をどけてくださらないかしら?」
 ジョセフは愉快そうに目を細めた。
「お返しに何をしてくれるんだ?」
 閉じ込められた籠の中で暴れる野鳥のように、私の心臓は怒りと動揺で激しく鼓動を打っていた。でも、私は懸命に感情の爆発を抑えた。身体の向きを戻してジョセフと向き合い、淑女らしく言葉で応戦することにした。
「ジョセフ、もう一度お願いするわ。今すぐこの腕と脚をどけてちょうだい。ただそれだけでいいのよ」
「できない。そんなことをすれば君は逃げるだろう?」
「逃げないわ」
「いいや、君は逃げる」
 思い知らせるように、ジョセフは私の耳の真横の壁を指先でとんとんと叩いた。「女を捕えておく腕力は、神が俺たち男に与えた恩恵のひとつだな」
「あなたは卑怯よ!」
 私の罵声に彼は微塵も怯まなかった。野生の動物のような白い歯を光らせて愉しげに笑った。
「だが俺が腕をどかさない限り、君はここから動けない」
「あなたはいったい何をしたいの?」
 困惑もあらわに私はジョセフに問いかけた。
 投げ捨てるように、彼は笑みを消した。密集した松の葉のような睫毛の下から、真っ青な瞳がじっくりとなぞるように私の唇を凝視した。やわらかな絹が私の頬に触れた。白い手袋に包まれたジョセフの手が私のあごをそっとつかみ、なにかをねだるように親指で私の唇をなでた。
 凍えるように歯がかちかちと鳴り、唇が震えた。
「……ジョセフ、あなたは私に不作法を許せと言うの?」
 月明かりが再び大窓から射し込んできた。
 ジョセフの紺碧の瞳が、満月の夜の狼のように危険な光を放った。

 信じられない。これは何かの間違いよ。
 婚約を交わしたばかりの男に口づけを許すなんて、神様が決してお許しになるはずがない。いいえ、私自身が許せない。いくら愛する男の要求であろうと、そんな不実な行為は受け入れられない。
 ジョセフと私の友情は消えてなくなってしまったの? どこへ行ってしまったの?
 彼は裏切られる苦しみと悲しみを知っている。内々とはいえ婚約を交わしたばかりの彼が、こんな不実な行為を望むはずがない。
 そうでしょ? そうよね?

「それは名案だ」
 ジョセフは口の端を軽く歪めて笑った。「不作法を許してもらおう」

 信じたくない。
 乱暴に私の腰を抱き寄せ、大きな手で首の後ろをつかみ、獲物に喰らいつく獣のように私の唇を貪る男がジョセフだなんて。
「ジョセフ!」
 やめて、と懇願するはずだった声は、押しつけられた唇によって出口を塞がれ、呑み込まれた。言葉は沈黙の中に押し込められてしまった。ぞくぞくとした荒々しい興奮が私の全身を貫いた。私はあえぎながら顔をそむけ、「やめてちょうだい」となんとか懇願しようとしたけれど、再び彼に両手で顔をつかまれて唇を奪われてしまった。
 激しい口づけだった。なめらかで熱い舌が荒々しく私の唇を割り、残酷な侵略者のように私の口の中を踏み荒らした。優しさも労りもなく、まるで肉食獣が空腹を満たすための野蛮な捕食だった。礼節を放棄した男の研ぎ澄まされた欲望と本能は、女として未熟なままの私を震え上がらせた。ジョセフの腕に捕らわれたまま、私は狭い檻に閉じ込められた小ウサギのように縮こまった。彼の舌を噛んで追い払うことも、懸命にもがくことも、毅然と抵抗することもできなかった。
 花火のような驚愕はすでに消え去っていた。
 私の内側をかき乱していたのは、得体の知れない歓喜と恐怖だった。
 満潮時の大時化の海に突き落とされたように、私の心は今にも動転と恐慌で溺死寸前だった。
 今すぐやめなきゃ。やめさせなきゃ。
 ジョセフには婚約者がいる。まだ十八歳のシャーリー・フェアバンクスは、若く美しく評判もいい娘だ。彼女はきっとジョセフのことをひたむきに愛している。彼を信じている。だから、彼は私とこんなことをしていいはずがない。このままだと彼はうら若き婚約者を裏切った浮気者になってしまうし、私は不義になると知って男の欲望を受け入れた正真正銘のあばずれ女になってしまう。

 でも――分かっているけれど――やめたくなかった。やめてほしくなかった。
 これが最初で最後だと分かっていた。だからこそ、ジョセフと離れたくなかった。一秒でも長く、愛する男に触れていたかった。唇を重ねていたかった。彼の呼吸を、匂いを、ぬくもりを感じていたかった。
 全身にうずくような甘い熱が広がり、溶けた砂糖のように全身の骨がぐにゃりととろけ、ジョセフの支えなしではひとりで立っていられなかった。唇と唇の隙間から、どちらのものとも知れない激しい息づかいや声にならないうめきが漏れた。ジョセフは脚を私の脚の間に割り込ませ、胸を私の胸に強く押しつけた。お尻をすくい上げるように私を抱きかかえ、自分の身体にぴったりとくっつけた。
 ジョセフの匂いと体温に包まれ、私は極めて重篤な熱病とめまいと酸欠を同時に発症した。へその下あたりに熱を帯びた血液が集まり、もうひとつ心臓ができたように痛いほど激しく脈打った。
 こんな口づけは知らなかった。こんなふうに身も心も自由を奪われるほど、情熱と興奮に支配されたことはなかった。骨の髄までしゃぶり尽くそうとする荒々しい口づけなんて、元夫にもされたことはなかった。これが、心から愛する人と交わす口づけなのかしら。私の中で後ろめたい歓びが雨垂れのように滴り、広がった。

 だからこそ、怖かった。
 私は欲望に屈服した。ふしだらで不実な振る舞いをした。いつかきっと、必ず天罰が下るだろう。神様は女の愚行にことさら厳格だ。ほんの少しばかり情状酌量の余地があるとはいえ、私を見逃してくれるなどと期待するべきではない。

 でも、本当に怖いのはそんなことじゃなかった。

 私はこの先一生、愛する男とのたった一度の口づけを胸に秘め、その思い出だけをよりどころに生きていかなければならない。彼が私以外の女と愛し合い、結婚し、子供をもうけ、幸福な家庭を築く様を指をくわえて眺めながら。
 その孤独と寂しさに、耐えられるのだろうか。

「リディア……」
 濡れた唇と湿った吐息が、私の唇をなでた。ジョセフが私の名前をささやいた。生々しい熱情のこもった声はかすれ、いやがうえにも彼の飢餓感が満たされていないことを知らしめていた。彼は身を屈め、敏感になっている私の耳に顔を近づけた。
「大丈夫か? 苦しそうだ」
 いたぶるようなささやきに耐えきれず、私は目をつむった。私はジョセフの振る舞いと不誠実を糾弾しなければいけないのに、溺れた人のようにあえぐばかりで、彼の名前を呼ぶことさえままならなかった。
 唇を解放されても、息苦しさはまったく解消されなかった。両手で胸を押さえながら呼吸を整えていると、再び傍若無人な手と腕によって抱き寄せられた。ジョセフの硬い胸に頬を押しつけられると、夜会服の下でたくましい胸板が大きくせわしなく上下するのを感じた。
 呼吸が見苦しくない程度に整うまでの間、私はぐったりと彼の胸にすがり、濃い霧の中で立ち尽くす異邦人のように途方に暮れていた。

「……腕をどけて、離れてちょうだい」
 目をつむったまま、私はジョセフに命じた。私の頭と腰を支えていた手が離れ、覆いかぶさるように私を包んでいたぬくもりと香りが遠ざかった。
 ジョセフは拍子抜けするほど簡単に私の命令に従った。これが “お返し” の対価だろうか。顔を伏せたままかすかに目を開くと、だらりと下がった男の両手が見えた。
「行って」
「リディア」
「行って。ひとりにして」
「こんなところに君をひとりで置いて行けない」
 いかにも気遣わしげで誠実そうなジョセフの声色に、思わず吹き出しそうになった。
「これ以上、私の身に危険が及ぶことがあるというの?」
 うつむいたまま吐き捨てた。視界の片隅でジョセフが動いた。とっさに鋭く喉が鳴り、反射的に肩が震えた。ジョセフは私に手を伸ばしかけたけれど、直接炎に触れたかのようにさっと引っ込めた。彼は手を下ろし、強く拳を握り締めた。どうか声に感情がこもりませんようにと祈りながら、私は繰り返した。
「今すぐ私の前から行ってください、ミスター・ブラッドリー」
 顔を上げることができなかった。階段をのぼるジョセフの足音が止まるたび、頭上から矢を射られるような視線を感じた。それでも、私は顔どころかまぶたを押し上げる気力さえ失っていた。その足音はじょじょに遠のき、じきに聞こえなくなった。
 恐々と目を開けた。青白い月の光が、廊下をひんやりと照らしていた。
 浜辺の砂人形のように、私は壁づたいに崩れ落ちた。目頭が焼けつくように熱くなった。あわてて口元を手で覆った。ドレスにしわが寄り、涙で化粧がはがれ、白い手袋が汚れるのも構わず、私は独り、ずっと廊下にうずくまっていた。



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