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第9話 正しい淑女


「色男さん、今夜もまた求婚の海で溺死しかけていたわね」
 彼の疲れきった様子が不憫で、私はすかさずワイングラスを彼に差し出した。
「ありがとう」
 難破船の上で真水に飢えた船乗りのように、彼は勢いよくワインをあおった。「俺はもう気が狂いそうだ。どうしてどいつもこいつも俺に “うちの娘に求婚しろ” とせっつくんだ。俺以外にも独身の男なんて掃いて捨てるほどいるのに。まるで赤い布めがけて突進してくる雄牛を何頭も同時に相手させられている闘牛士の心地だよ」
「あら、心地がするだけ? 私はあなたがその闘牛士そのものに見えたけど」
「君は俺が凶暴な雄牛に追い回されるのを優雅に観客席から眺めていたのか」
 ジョセフはまぶしそうに目を細めた。「この薄情者め」
 非難する口ぶりだったけれど、ジョセフの声色にはどことなく共犯者への甘えのようなものがにじんでいて、私の背筋に微熱を帯びた痺れが走った。
「だってあなたほど夫として、義理の息子として、姻戚相手として、一族の勢力を拡大する手駒として魅力的な独身男性はいないわ。鉄鋼王ブラッドリー家に縁付けるんだもの。そりゃあみんな全力を振り絞ってあなたを追いかけるわよ」
 そのうえ、ジョセフはまばゆいほどの男前だ。
 この晩、彼は洗練された黒の上着に、絹の折り目が落ち着いた光沢を放つブルーグレイのベストを合わせていた。日焼けした肌は糊の効いた真っ白なシャツによく映え、襟元にはクラヴァットがきりりと結ばれている。
 昼でも夜でも、家の外でも中でも、壁と窓とシャンデリアであろうと森と草地と青空であろうと、彼はいつでもどこでも森を支配する高貴な狼のように凛々しく堂々としている。輝く紺碧の瞳はいつも自信たっぷりで、無邪気な尊大ささえ愛らしさに変えてしまう。
 これで人目を引くのがつらいと愚痴るのは間違っている。

「あなたはちょっとした投機商品みたいなものよ。彼らがそのうち他の殿方に目星をつけてくれるのを祈りましょう。大丈夫よ、名家の独身の息子はあなた以外にもたくさんいるわ。みんな、すぐにあなたなんて見向きもしなくなるわよ」
 三男坊とはいえ鉄鋼王ブラッドリー家の息子であるジョセフの “価値” が、短期的な価格変動に左右される程度のものとは到底思えなかった。でも、荒波にもまれ、凶暴な鮫と雄牛に追いかけ回され疲れ果てた友人を励ますためだ。明らかな見積もり違いもやむをえまい。
「俺のことを投機商品なんてこきおろす女性は君くらいだよ、リディア」
 彼は愉快そうに目を細めた。
「あら、褒め言葉のつもりだったのに」
 私の不躾な物言いを面白がる男も彼くらいだったわよ。
 自分よりずっと社会的地位が高く評判が良い殿方から、こうして友人として頼りにされるというのはかなり珍妙な気分だった。でも悪い気はしなかった。私の前で彼が居心地よさそうに過ごしているのを見ると、こちらまでほがらかな心地になれた。

 ジョセフが辟易する気持ちは、女の私でも想像に難くなかった。
 彼はこの頃すでに、ブラッドリー一族の御曹司というだけでなく、若手の辣腕材木商として自由貿易同盟の財界と社交界の寵児だった。
 彼を手に入れたい女たちは、それぞれに様々な思惑を抱えていた。ブラッドリー家唯一の未婚の息子の妻という地位を狙っている者もいれば、彼の財産で買えるありったけの贅沢を手に入れようとしてる者もいた。さらには、娘や妹や姪がブラッドリー一族の一員となることで得られる、様々な恩恵が目当ての彼女たちの両親や兄弟や親戚連中も忘れてはいけない。
 ジョセフが彼らの下心に気付かないはずがなかった。だからこそ、彼は彼らから逃げようと四苦八苦していたわけだ。私が我が家の持参金目当てに結婚しようと企んだ男たちを、ことごとく拒絶したように。
 当然ながら、ジョセフがブラッドリー家の御曹司でなければ、これほどもてはやされることはなかっただろう。しかし、もし彼が名家と縁もゆかりもないただの材木商だったとしても、女たちは彼に夢中になっていたのではないかしら。そうでなければ、いくら家柄と容姿が優れているからといって、これほどまで社交界の人々を魅了することはできないはず。
 ジョセフがいるかいないかで、その社交行事に参加する淑女たちの表情が変わる。本当だ。比喩でも大げさな例え話でもない。彼がいないと淑女たちは冬枯れの花壇のように物哀しく、彼がいると淑女たちは美しく咲き誇り春爛漫の花畑のように華やぐ。
 ジョセフは再婚する気はないと公言しているにもかかわらず、彼がちょっと振り返るとどこかの誰かが彼の目の前に立ちふさがり、彼らの娘や妹や姪を無理矢理紹介しようとしていた。
「結婚は素晴らしいことです。しかし、私自身はまだまったく心の整理がついておりません。幸い穀潰しの三男坊ですし、私が起こした材木事業は売却するか、兄の子供たちの誰かに引き継がせるつもりです」
 娘や妹や姪を妻にと勧められるたび、彼はいつでも礼儀正しくこう断っていた。
 精悍で野性的な男が寂しげな微笑みを浮かべると、それだけでたいていの女はくらっとくるんじゃないかしら。だから社交界の娘たちはますます彼に惹かれた。彼女たちは、そんな彼がいまだ愛してやまない亡き妻への対抗心を刺激されて、女としての矜持をかけてますます彼との結婚を強く望むようになっていた。

「リディア、女性である君にこんなことを言うのは気が引けるが、彼女たちはどうして同じような表情で同じようなことしか言わないんだ?」
 ジョセフは疲れ切った表情で私にこう漏らした。「彼女たちには君のように感情や思考というものが見当たらない。俺が何を言ってもあたりさわりのない返事しかしてくれないし、扇子で顔を隠してにこにこしているだけ。彼女たちと話をしていると俺はときどき叫びたくなるよ。まるで凪いだ海に浮かぶ船の操舵士にでもなった心地さ。ただ無為に時間が過ぎてゆくだけ。俺はいったいどうしたら彼女たちの誰かと結婚したいと思えるようになる?」
 背後から灯りを受けて顔が影になっているため、彼の疲労は余計際立って見えた。
 ジョセフは百人の猟師に追われる哀れな一匹の牡鹿だった。社交界のあらゆる未婚の女性たちとその一族に追い回され、疲れ果てていた。

 私も偉そうなことは言えないけれど、社交界の多くの娘たちは経済や政治や哲学など難しいことを考えないよう育てられ、ただ家族や夫に従順であるように躾けられる。ここの土地柄、文学や芸術、外国語や異国の宗教や文化、歴史などの教養はすごく豊かで、女同士で話している分にはとても楽しくて面白い。でもその娘たちの多くは、それを男性との会話で活かそうとしない。口元を扇子で隠し、上品に微笑みながら当たりさわりのない会話を延々と続けるだけなのよね。
 これじゃあまるで、すごく価値のある大粒のダイヤモンドの指輪をドレスの長い袖で隠してしまうようなものよ。すごくもったいないと思わない?

「でもねジョセフ、ここではそれが “正しい淑女” なのよ」
 私は内心の不満が顔に出ないよう注意しながら答えた。「殿方を敬称もつけず名前で呼んだり、彼らの意見に質問したり、彼らの議論に加わったり、自分の気持ちを正直に言葉にしたり、声を上げて笑ったりすると、たちまちあらゆる “正しい淑女” たちから下品なふしだら娘と見なされ、爪弾きにされてしまうの」
 あえて具体例を上げるなら、私みたいにね。
「“正しい淑女” なんてくそくらえだ!」
 ジョセフは忌々しげに吐き捨てた。
 彼に想いを寄せる社交界の娘たちやその親たちが耳にしたら、ショックのあまり卒倒してしまっただろう。
「もしもう一度結婚するなら、俺は一緒に色々な話をして共に笑い合える女性がいい。ありのままに、正直に自分の気持ちを伝えてくれる人がいい。喜びも悲しみもすべて分かち合い、互いにいたわり、信頼し、支え合っていきたい。たとえどんなに “正しい淑女” であっても、ただ俺の言葉にうなずくだけの妻なら必要ない。俺は意思も感情もない人形と添い遂げることはできない」
 珍しくジョセフが強い口調で断言した。
「ジョセフ、そんなわがままばかり言っていたら社交界の誰とも結婚できないわよ」
 彼の眼差しが怖いほど真剣だったので、私は冗談めかして言った。
「構わない」
 ジョセフはぽつりとつぶやいた。背後の踊り場のランプの灯りが、夕焼けのように彼の横顔をぼんやりと照らした。彼の紺碧の瞳が私を射抜いた。
「社交界の淑女たちがみんな、リディア、君のような女性ならいいのに」

 一瞬、息ができなくなった。心臓が止まった気さえした。

「まぁ、ジョセフ! そんなことになったら大変よ。そりゃあ、あなたにとっては居心地がいいかもしれないけど、手塩にかけて育てた娘が私のようなじゃじゃ馬になってしまったら、真っ当なご両親たちは発狂してしまうんじゃないかしら」
 発火しそうな頬を誤魔化すべくまくしたて、私はほろ酔いを装うべくワインをぐいっと喉に流し込んだ。きっとこのとき、私の頬は頬紅を塗りたくった道化師のように真っ赤だったはずだ。オレンジ色のランプの灯りが、私のみっともない顔色を誤魔化してくれていることを願うしかなかった。

 あぁ、またジョセフの悪い癖が出た。
 私は苦笑いをこらえることができなかった。

 二十年少々の人生において、私は男友達からこういう賛辞を受けることに不慣れだった。まだ彼らと親しい交遊があった頃、彼らは私を「生意気」や「おもしろい女」と評することはあっても、ジョセフのようにひとりの女性として魅力や価値を認めてくれたことはなかった。

 だからときどき、ジョセフにはひどく困惑させられた。

 女友達とはいえ、彼は私をきちんとひとりの淑女として扱ってくれた。
 そんな彼の正真正銘の紳士ぶりには感激したけど、素直に喜んでばかりはいられなかった。だって、そのたびに真夏の熱風になでられたように身体中の皮膚が熱を帯びて、一晩中踊り明かしたように胸が高鳴って苦しくなるんだもの。

 男友達との付き合いってこんなに難しかったのね。
 ワインをすすりながら、私はジョセフの野性的な横顔をちらりと見やった。ほのかなランプの灯りに照らされた、いつもの快活で知的な笑みが私を迎えてくれた。ほっと胸をなでおろした。

 こんなふうに、ジョセフはときどき私の頭を太陽の陽射しに当たりすぎて日射病になってしまったようにくらくらさせた。その発熱にも眩暈にも似た厄介な症状は、舞踏会や晩餐会の翌朝もなかなか引いてくれなかった。



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