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第13話 書斎にて


 磨き上げた古い木の香り。時間を積み重ねた古書と鼻をつんと刺激するインクの匂い。私の心をいつも穏やかに落ち着かせ、同時にわくわくと高鳴らせる場所。知らない世界、行ったことのない国につれて行ってくれる特別な部屋。
 壁一面に贅沢な装丁の本が並ぶ本棚、輝く天球儀、巨大な地球儀、凝った彫刻が施された家具。ここは左右の壁がそっくりそのまま本棚になっており、棚には可動式の梯子がかけられている。床から天井まで隙間なく様々な言語の分厚い本がぎっしり並べられ、珍しい異国の芸術品や贅をこらした調度品がこともなげに置かれている。
 幼い頃から、ここは私にとって最高の遊び場だった。
 父の書斎。私の大好きな部屋。

 娘の淑女にあるまじき好奇心にやれやれと苦笑いを浮かべつつも、私的な時間であれば、父は決して私を摘まんで追い出すようなことはしなかった。好きな本をなんでも読ませてくれた。家庭教師のお上品で奥歯に物が挟まったような教義では学べなかった貿易、経済、政治、歴史、哲学に出会うたび、私は興奮のあまり床に座り込んで何時間も巨大で分厚い本を読みふけった。
 この部屋は、私のなけなしの知性を育んでくれた大切で愛おしい場所だ。

 このとき、私はその大好きな父の書斎の扉を見つめていた。待合室の長椅子に腰をおろし、独り、不安と緊張に押しつぶされそうになるのを懸命にこらえていた。

 この分厚い扉の向こう側、書斎の奥にしつらえた巨大なマホガニーの机で、数人の部下に囲まれ、父は関税法改定に伴う特恵関税と一般関税の対応について話し合っているのだろう。
 植民地からの輸入品――金、鉄、宝石、香辛料、茶葉、砂糖、絹など――にかけられる特恵関税の税率が下げられるのは喜ばしいことだ。しかしその半面、国内産業保護のため一般関税の税率がやや引き上げられるのは、この頃、自由貿易同盟の商人たちの頭痛の種だった。
 対岸の大陸の王国のワインや北の共和国の毛皮など、上流階級に好まれる高級嗜好品をこれまでと同じ仕入値で輸入するのが難しくなる。しかし、仕入値が上がったからといってそのまま売値まで値上げするわけにはいかない。しかし売値を据え置けば、売値から仕入値を差し引いた商人たちが手にする粗利益は確実に減る。
 こっそり盗み聞きした限りだと、売値を上げるか据え置くか、据え置く場合、その分の埋め合わせをどうするか、という協議のようだった。

 数年前、好奇心に負けて、書斎で仕事中の父を盗み見たことがる。
 父がまったく知らない人に見えた。
 何度かローズデール家の貿易船に乗せてもらったことがある。そのときでさえ、彼は甲板ではしゃぐ私を穏やかに見つめる優しい父親でしかなかった。
 革張りの玉座のような肘掛椅子に座る男は、私が普段見慣れていた妻や娘に甘い父親ではなかった。私より暗い色をした赤毛は獅子のたてがみのように豊かで、太い眉の下の奥まったふたつの眼は獲物を見定める猛禽類のような冷酷さをうかがわせた。彼は崖の上から眼下を見下ろす鷹の王様のように、悠然と部下たちの意見に耳を傾けていた。そこに穏やかさや優しさはかけらもなかった。父の無言は彼の厳格さや苛烈さを浮き彫りにし、この部屋中の空気をすみからすみまで支配する圧倒的な存在感を放っていた。
 母の尻に敷かれ、二十代の青年のように彼女を恋い慕う愛妻家とは思えない厳格な商人の顔をした父がいた。これが商売、これが貿易、これが商人だ、と図らずも私に知らしめていたのかもしれない。
 だからあのとき、商人としての父の顔に恐れおののいてしまった。それから数日、私はいつもの優しい父を前にしてもひどく落ち着かない心地で、彼を避け、母から聞いたところによると、彼をひどく気落ちさせてしまったらしい。

 書斎の待合室の椅子に腰をおろし、私は兄の到着と父の仕事が一段落つくのを黙って待っていた。これまで感じたことがないほど強く鋭い不安と恐怖が、今にも私の胸を破裂させそうだった。

 私は必死になって自分を奮い立たせていた。
 そうよ、ステラだって自分の夢のために恐ろしい敵に立ち向かい、ジョッキー・ダンたちとともに冒険に踏み出したんだもの。
 独身の私が女商人になるのは尋常じゃなく困難なことだけど、でも最初から諦めていたら何もできやしないわ。安全な陸の屋敷で安穏に暮しているだけじゃ、航路の先にある輝く宝島には決して到達できない。

 そして次に自分を励ました。
 いくら父と兄がハイエナとハゲタカよろしく、貪欲で無情と悪名高い豪腕の商人だからって、彼らは琴座島の残虐非道な海賊商人たちほど冷血ではないはず。
 私のハーブ製品は、あくまで内輪だけとはいえすこぶる評判はいい。だから、とくに父は離婚で私に多少は負い目を感じているし、もしかしたら私の夢を後押ししてくれるかもしれない。こうして私はなけなしの期待にすがりついていた。兄にはそういうことは一切望めなかったから、父に希望を託すしかなかったのよ。

 と、そのとき、ようやく長い協議に一段落がついたようだ。
 書斎から出てきた父の部下たちは礼儀正しく私にお辞儀をすると、足早に退出して行った。
「リディア、そんなところで待たせてすまなかったね。喉が渇いただろう? お茶のおかわりと菓子を用意させよう」
 いつもどおり優しい表情を浮かべた父は、書斎の中央に設えたテーブルに私を手招きした。しかしだからといって、私の緊張感がゆるむことはまったくなかった。
 父が紅茶のおかわりと、私のためにドライチェリーのスコーンを小間使いに用意させたところ、ちょうどよく兄アーサーがやってきた。
「珍しいじゃないか、リディア。お前が父上と私に話があるなんて」
 アーサーは興味深そうに私を見て言った。私ごときのために自分の時間を割かねばならないのが不愉快でたまらない、というほど機嫌が悪いわけではなさそうだった。

 父と兄は私より髪も瞳も色が暗く落ち着き、表情はいかにも自信に満ちて堂々としていた。彼らに比べれば、私は見た目も中身もなんて弱々しく軽薄だろう。
 品のよい紅茶の香りを吸い込み、心を落ち着けようと試みた。ほとんど効果はなかったけど、私は深呼吸をし、前を向いた。
「お父様、アーサー、今日は忙しいところ時間を作ってくれてありがとう。実は折入って、ふたりにお願いがあるの」
 昨晩のジョセフの頼もしい笑顔を思い返しながら、つっかえつっかえ、私は自分の野望を父と兄に打ち明け始めた。前の晩、何度も練習したにもかかわらず、不安と緊張で頭の中は真っ白になり、のどが乾いてひりつき、言葉は支離滅裂、しっちゃかめっちゃかだったように思う。それでも最後は、なにも言い残すことなく自分が言いたかったことをすべて吐き出せた達成感を覚えた。
 嵐の海に漕ぎ出す船乗りの心地で、私は父と兄の反応を待った。

「お前からその話を切り出してくれるとは、ちょうどよかった」
 テーブル越しに向き合っていたアーサーが、私にこう言って微笑んだ。私は驚愕と困惑で兄を見返した。
「え? アーサー、私の話を聞いていた? 私、自分が作ったハーブ製品を売って商売をしたいと言ったのよ? その、つまり……」
「あぁ、わかっている。お前は女商人になりたいんだろう?」
「え、えぇ、まぁ…… そういうことになるわね」
 アーサーは、父の手前、私が躊躇して言い淀んだ言葉をあっさり口にした。父もすこぶる上機嫌で、にこにこしたままだった。私の戸惑いは深まるばかりだった。
「そうか、それならなおさらいいじゃないか」
 つねに躾にしくじったポニーを嘆く厩番のような顔をして私を見ていたアーサーから、またしても、いかにも協力を惜しまない理解者ぶった微笑みが返ってきた。父も兄と同じような表情で、彼よりさらに悠然とした風情さえ漂わせて私を見ていた。
 予想外の展開どころの話じゃなかった。
 幼い頃から、兄アーサーは私に君臨する絶対君主だった。
 悪戯の発案者として、彼ほど才能豊かで楽しい人はいなかった。けれどその分、彼は自分に刃向う者には徹底的に暴君だった。私がちょっとでも彼の命令に反抗しようものなら、社交界の小娘なんて目じゃない残酷かつ辛辣な罵倒で、いたいけな少女を軍馬の蹄で蹴飛ばす騎馬兵よろしく、私の心を容赦なく踏みにじってきた。
 そのせいで、私はいまだに彼に対して自尊心を奮い起こすことができない。兄の逆鱗に触れて首を刎ねられないよう、こそこそと彼の顔色をうかがわずにいられない。
 そんな長年の暴君が、貿易商の娘らしからぬ私の願いをすんなり聞き入れようとしていた。おまけに、その暴君の上に立つ父さえ彼に同調していた。彼らのそんな異様な態度に、私が安堵や喜びの驚きより不安や疑念を覚えたのも無理からぬことだった。

「何を企んでいるの?」
 父と兄に対する疑惑が私の口を突いて飛び出した。
「リディア、私たちはお前の夢を後押ししてやりたいだけだよ」
「お前のハーブ製品は実に素晴らしいからな」
 父と兄は続けざまにいかにも寛容な口調で私に笑いかけた。
 しかし、二十一年間、彼らと同じ屋敷で暮らしてきた私の目は誤魔化せなかった。彼らの目は、どんな小さな獲物も見逃さない鷹のように鋭い光をたたえていた。
「嘘よ!」
 私は声の限りに叫んだ。
「二人ともあれだけ散々 “田舎農婦の真似ごとはやめろ” と私に難癖をつけていたじゃないの。そんな人たちが私の願いをすんなり聞き入れるなんておかしい! お父様、お兄様、あなたがたは一体何を企んでいらっしゃるの?」

 ここでようやく、アーサーの顔にいつもの表情――躾にしくじったポニーを嘆く厩番のような顔――が戻ってきた。
 不覚にも私は、日常が戻ってきた安堵に胸をなでおろした。

「我が妹ながら実に扱いが面倒な女だよ、お前は」
 善良な理解者の仮面を呆気なく捨てたアーサーは、椅子の背もたれにふんぞり返って腕を組み直した。
「リディア、お前はずいぶんと多くのご婦人方に石鹸やら何やらを配っているようじゃないか。その中の誰かひとりからでも材料代なり手間賃なりを受け取っていたのか?」
「そんなことするわけないでしょう。私がただの趣味で作ったものだもの」
 ハーブ製品を差し上げた方々は、細工を施した香水瓶や美しいティーカップといった “材料代” を受け取るよう私に再三言ったけれど、私はそのたびに丁重にお断りしていた。その代わり、良いことでもそうでないことでも、ハーブ製品の効果をどんな些細なことでも必ず私に知らせるよう約束してもらった。彼女たちの容赦なくも誠実な意見のおかげで、私のハーブ製品はかなり改良ができたのよ。
「ままごとだな」
 アーサーは端整な口元を歪め、私をせせら笑った。これまで何百回も目の当たりにしてきた、私の自尊心を引っ掻かずにいられないお馴染みの笑顔だった。
「ではお前は、材料代も手間賃も請求せず、朝から晩まで裏庭の小屋にこもってせっせとハーブ製品をこしらえては、母の友人や娘たちにほいほいくれてやっていたのか?」
 彼の意地の悪い言い方には腹が立ったけれど、そのとおりだったので私はとっさに言い返すことができなかった。

「お前は馬鹿だ」
 アーサーはにべもなく吐き捨てた。
「いいか、リディア。お前はローズデール家の娘だ。無償奉仕は神の教えに従う者として素晴らしい精神だが、お前のそのやり方は歓迎できない。ローズデール家の者に相応しくない。まるでただ働きの召使いじゃないか。払った労働に見合う代価は正しく請求しろ。お前が今からやろうとしている商売とはそういうものだ。そして商売は必ずしもお前に好意的で仲の良い者と交わすとは限らない。お前が今していることは野うさぎ同士のお裾分けだ。そんな気楽なやり方では、貪欲な狼や鷹の餌食になるだけだ。お前はそれをわかっているのか?」
「わかっているわよ!」
 無知な幼子のように扱われ、私はカッとなって声を荒げた。
「そうか。だがしかし、これまでただで受け取っていたものに代価を払わねばならなくなった場合、お前の “顧客” たちはどうするだろうな? お前が “ただの趣味で作ったもの” を、金を出してまで使い続けるのか?」
 アーサーは冷静に私に問いかけた。傲慢で横柄な兄ではなく、冷徹で抜け目ない商人の顔をして。

 私はドレスの布を握り締めた。
 すぐさま反論することができなかった。



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