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第20話 同じ羽根の鳥


 辛口のユーモアや際どい冗談を言い放つときも、ジョセフはいつも相手への礼節をわきまえていた。どんなに辛辣な発言にも、どこか憎めない愛嬌と冷静な気づかいがあった。
 しかし、このときの彼の顔に貼りついていたのは近寄りがたい冷笑だった。
 これには見覚えがあった。実家に出戻った当初、社交界の一部の男たちが私――結婚にしくじった惨めな女――に向けていた、他人行儀な微笑みだ。今は亡き愛する妻のことを語っているというのに、ジョセフはどうしてこんな冷ややかな顔をするのだろう?
 私は彼の顔をまじまじと凝視してしまった。

「俺の妻を覚えているかい?」
 出し抜けにジョセフが言った。
「え? えぇ、お名前と顔立ちくらいは…… でも、お顔の方はもううろ覚えね」
 元夫との婚約期間中、舞踏会や晩餐会などで私は何度か彼女と顔を合わせていたし、彼女は私たちの結婚式にも参列していた。もちろんジョセフと一緒に、彼の婚約者として。ただ、当時の私は元夫に夢中で、ジョセフのことなど彼の友人のひとりとしてしか認識しておらず、その婚約者ともなると言わずもがな。
 私は懸命にまだ存命だった頃のジョセフの妻の様子を思い出そうとした。
 かかとのある靴を履くと、私はさほど背が高くない殿方など簡単に追い抜いてしまうくらい上背がある。だから、ことさら小柄な彼女と目線を合わせるには首を真下に折らなければならなかった。それだけはよく覚えている。そうそう、非常に背が高く筋骨たくましいジョセフと小柄で華奢な彼女が並ぶと、まるでオオカミと子ウサギのようだったわ。別々の絵を貼り合わせたようなちぐはぐした感じがどこかおかしくて、彼らは私の微笑みを誘った。
 そんな白ウサギのように愛らしく清楚な人が階段から足を滑らせ、首の骨を折るという残酷な最期を迎えて天に召されてしまうなんて。この世界はときになんて残酷で理不尽なのだろう。

「死んだとき、彼女は妊娠していたんだ」
 ジョセフはこともなげに言った。
 とっさに手のひらで口元を押さえた。悲鳴を上げそうになるのを懸命にこらえた。
 なんてことなの。ジョセフは愛する妻だけでなく、彼女との間に宿った新しい命まで同時に失ってしまっていたなんて。やり場のない悲しみと怒りで私は身震いした。
  “苦難を克服して栄光を獲得せよ”(ペル・アスペラ・アド・アストラ)
 古代文明の賢人はこんな格言を残している。より多くの苦難に耐え困難を乗り越えれば、より多くの幸福に浴することができる。神様の息子も教典の中でそう説いている。
 でも、ジョセフに与えられた苦難は、克服どころかその痛みと悲しみに耐えることすら困難な絶望だ。
 神様はどうして彼にこんな悲劇をお与えになったのかしら。
「まぁ、ジョセフ…… なんてことなの。彼女もさぞや心残りだったでしょうね」
 あふれそうな涙をこらえようと、私はドレスの裾を握り、唇を噛み締めた。
「医者は四ヶ月ほどだと言っていた」
 ジョセフは体温を感じさせない声で続けた。
 ここで私は違和感を覚えた。
 たしか彼女が亡くなったのは結婚式の一ヶ月後だったはず。それで妊娠四ヶ月はおかしいわよね? ……あぁ、なるほど。婚前交渉、婚前妊娠というものね。ここ数年でかなり増えてきていると聞くわ。結婚までの予定が確定し、式の日取りまで残りわずかなら、多少月数の合わない出産になっても構わない、という若い婚約者たちがここのところ増加中らしいのよ。
 愛しい人に触れたい、抱き締めたいという気持ちは私もよくわかる。
 若いと自制心も理性もそれほど強固ではないし、互いへの気持ちが高ぶれば高ぶるほど愛と欲望に従順になりがちだもの。そういう人たちのことを、神の教えに沿わないと眉をひそめ、不品行だと責める人はことのほか多い。
 でも、正直なところ――これから私が言うことは、絶対に他言無用よ――愛し合う人々のほとばしる熱情を思うと、どきどき胸が高鳴るわよね。
 そもそも正式に婚約を発表した仲なら、式の日取りを早めざるをえなくなるかもしれないけど、そのほかに不都合はないじゃない? 親や身内ならまだしも、部外者がごちゃごちゃ口を出すまことじゃないわよ。そりゃあ体裁はすこぶる悪い。善き王国臣民として節度と分別に基づき、正しい順序に則って結婚生活を営むべきだ。でも、相手を弄んだり不義を働いたりしたわけじゃないんだから、そこはひとつ目をつむって祝福してあげればいいと思うの。

 つまり、ジョセフはそれほど情熱的に彼女と愛し合っていた、ということね。
 彼が亡き妻に捧げていた激しくひたむきな愛を思うと、オーケストラの序奏の始まりを盛り上げる打楽器のように私の心は打ち震え、その余りの強さにますます胸が苦しくなった。

「結婚式の晩の初夜まで、俺は彼女に触れなかったにも関わらず」
 頭の中まで響き渡っていた打楽器の音色が、ぴたりと止んだ。
 冷たい石膏像のようなジョセフの横顔は、まるで私の浅慮をせせら笑っているようだった。
「……なんですって?」
「不思議だろう? 夫である俺が彼女と初めてベッドを共にする三ヶ月前に、すでに彼女の腹の中には子供がいたんだ」
 いつも闊達で自信に満ち溢れたジョセフの横顔に、暗く冷たい皮肉と自嘲の影が落ちていた。愛と信頼を裏切られ、自尊心と誇りをめちゃくちゃに傷つけられ、怒りと悲しみを心の底に押し隠した手負いの狼がいた。
 錆びついたブリキの人形のように、私は彼から目を逸らすことも、慰めや励ましの言葉をかけることもできなかった。

「彼女ひとりのために、俺との結婚を望んでいる社交界の娘たちの――あの見舞い状をよこした娘たちだ――品格を決めつけるほど、俺は浅はかでも狭量でもないよ」
 おぞましい幽霊の怪談を聞かせて怖がらせた女の子をなだめるように、ジョセフは少し申し訳なさそうに微笑みながら私を見つめ返した。
「そうだ、彼女たち全員が彼女のように俺を欺くなんて思っちゃいない。俺だって頭では分かっている。それでも考えずにはいられないんだ。あんなにひたむきに俺を慕っているように見えた彼女でさえ、俺を裏切っていた。それなら彼女たちだってそれくらい平気でやってのけるんじゃないか、ってね。忘れたくても忘れられない。この街を離れて、北東部の森でひたすら働きづめで暮らしていても無理だった。街に戻ってきたらなおさらだ。未婚の娘を紹介されるたび、いまだにあのときの惨めな気分がよみがえる。この家に帰って独りきりになると、虚しくて苦しくてたまらなくなる」

 ジョセフがその不安と疑念に囚われるのはもっともなことだった。
 私だって彼と同じだった。あんなに熱烈に私を求めているように見えた元夫アンドリューもデレク・マーサーも、実際は私を欺き、他の女と愛し合っていた。
 夫に駆け落ちされて実家に出戻り、二度目の恋も破れ、それ以来、私に言い寄る男性全員を疑ってかかるようになった。彼らに少しでも愛情以外の下心が見えた瞬間、一瞬のためらいもなく “私は二度と結婚しない” と切り捨ててきた。同じように離婚し、失恋していたとしても、あんな無様な形で自尊心を傷つけられていなければ、私は彼らにもっと寛容でいられたかもしれない。

 でも、いくらそんなことを想定したところで過去は変わらない。
 現実は猛烈な速度で日々流れていくのに、時間は人々が言うほど速やかに傷ついた記憶を薄めてはくれない。それが結婚という事柄ならなおのこと。なぜならそれは、社交界と財界にとって切っても切り離せず、常日頃あちらこちらで執り行われ、ジョセフや私のように商人の家に生れた人間なら決して避けて通れないことだからだ。
 華やかな舞踏会も極上のワインも豪奢なドレスも商人としての成功も、傷ついた記憶を消し去る力など持っていない。いくら称賛と名声を手に入れ、あらゆる人々から憧憬と羨望を浴び、裕福で何不自由ない生活を送っていようと、毎晩入浴の最中に膝を抱えたり、ベッドの隅で枕に顔を押しつけたりせずにはいられない。
 許すことはできる。薄めることもできる。でも、忘れることは決してできない。
 自力で乗り越えられない限り、もがきながらその苦痛をやり過ごすしか術はない。ジョセフや私のように欲望にまみれた俗世で暮らす人間は、そうやって苦しみや痛みを抱えながら生きていくしかないのよ。

 でもね、案外へっちゃらなものよ。
 どうしようもなく気落ちするし、世界中の人から嘲笑され見放されたような寂しさに沈み、自分が救いようもなく愚かで価値の低い人間だと感じることもある。
 それでもね、ほら、なんだかんだ言って、ひとりぼっちじゃないもの。

「いいのよ、ジョセフ。あなたがそんなふうに思ってしまうのも無理ないわ。私だって同じだもの。いやね、私たち、こんなところまで同じだなんて。まさに “同じ羽根の鳥は同じ木に集まる” って諺のとおりね」
 ジョセフの両手を包み込むようにぎゅっと握った。大きく節くれだった、温かい手。血が通い、哀しみを知る、ただの男の手。
 紺碧の瞳が無心に私を見つめ返した。黒い睫毛に縁取られた深い青。海のように澄んで、深く、深く、その奥深くまで吸い込まれてしまいそう。そのままうっとり見惚れそうになって、私は慌てて我に返った。
「ほら、今日は雪がたくさん降って寒いから、私が特別に抱き締めてあげるわ」
 駆け出しの女優のような大仰な仕草で両腕を広げた。私のわざとらしい明るい声と突拍子もない行動に苦笑いをこぼしたものの、ジョセフはゆっくり身体を前に倒し、私の肩にことんと頭を乗せた。
「ジョセフ、寒くない? 横にならなくて平気?」
 彼の幅の広い逞しい肩をなで、それから赤ん坊をあやすようにぽんぽんとたたいてやった。するとすぐに彼は両腕を私の腰に回し、礼拝のお祈りのときのように指をしっかり絡め合わせた。
「あぁ、平気だ」
 ジョセフが顔の向きを変えた。私の喉元に彼の温かな吐息がかかった。「もう少しこうしていたい」

 窓の外は、真綿のような大粒の雪がしんしんと降り積もっていた。見慣れた真冬の景色だった。以前の私なら、こんな日に家を飛び出すなんてありえなかった。親族の婚約やごく親しい人の祝賀舞踏会、あとは葬儀でもない限り、冬眠中の熊のように家の中で読書をして過ごし、両親や兄がお茶会や晩餐会、舞踏会といった社交界の行事に連れ出そうとしても梃子でも動こうとしなかった。
 それなのにこのとき、私はただの友人の部屋にいた。
 従者もつけず家を飛び出し、馬車を疾走させ、恋人でも婚約者でもない男の家に駆けつけていた。

 ジョセフの悲しみや苦しみを少しでも薄め、やわらげてあげたかった。
 私程度の女ができることなんて高が知れている。でも少なくとも、私なら彼につらい出来事を思い起こさせるようなことはしない。彼が居心地よく楽しく過ごせるよう、いたわることくらいならできるはず。
「あなたの気が済むまでこうしていてあげる。今日は雪がひどいから」
 赤々と燃える薪が、暖炉の中で小さな音を立てて爆ぜた。
 まったく筋の通らない私の慰めに、ジョセフがかすかに微笑む気配がした。
 これまで感じたことのない、胸を焦がすような痛みが込み上げてきた。私はジョセフの頭と肩をかかえるように抱き締めた。
 私の腰に回されていた腕が一瞬だけ小さく震えた。そしてすぐ、痛いほどの力で私を抱き寄せた。健やかにピンと張った肩は凍えるように強張り、彼が鼻先を犬のように私の首筋に押しつけた。私は身体中の骨が軋むような痛みにうめいた。それでも何とか腕を伸ばして彼の黒髪をなでてやると、屋根に積もった雪がすべり落ちるように、彼の肩から力が抜けていった。
「リディア、ありがとう。君は温かいな」

 ジョセフのうねった黒い髪をなでながら、私は自分が一羽のとんでもなくのろまな小鳥だったことに気がついた。
 まるで季節外れの冬に海を渡って陸に飛んできた間抜けな渡り鳥だ。

 ジョセフが彼の森やそこで働く木こりたちについて語るとき、端整でありながら野性的な、ややもすると威圧的に見えがちな彼の面差しに、家族を思いやるようなぬくもりと事業主としての誇りが同居する。紺碧の瞳は自信に満ちて頼もしく輝き、一点の迷いも疑問もない野心によってどこまでも深く澄んでいる。
 でも、その瞳の底には哀しみがある。名家の子息として羨望を向けられ、辣腕の商人として称賛を浴び、社交界の女たちから恋慕われても消せない苦しみがある。彼は怒りと挫折と苦悩を知っている。
 だから、ジョセフは優しい。自分と同じ思いを味わわせることのないよう、他者をいたわり、思いやることができる。
 彼は私のような生意気で出しゃばりな出戻り女を最初から冷笑せず、礼儀正しく、それでいて温かく親身に接してくれた。酷い誹謗中傷になど耳を貸さず、娼婦を品定めするような色眼鏡ではなく、私をただのひとりの淑女として扱ってくれた。
「あなたのほうが温かいわ、ジョセフ。私より、ずっとずっと温かい」
 ぬくもりは心地よい。彼の肩に頭を乗せると、まるで彼の感冒熱が移ったような頬の熱にひどく驚かされた。でも、それが病気のせいじゃないことくらい分かっていた。なぜなら、私の心臓が今にも踊りださんばかりに元気一杯に鼓動を打ち鳴らしていたから。
 自分のあまりの愚鈍さに、泣きたいような笑いたいような、足に羽根が生えてふわふわ宙を漂っているような落ち着かない心地になった。
 このとき、私はようやく自分のありのままの気持ちに気付いたんだもの。

 私はジョセフに恋をしている。
 彼のことが愛しくてたまらない。



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